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“――幽霊を殺したようで気味が悪いぜ……” はっと見開いたところでようやく、それまで瞼を閉じていたのだと分かった。それが単なる夢であり、記憶であるのだと。 近頃は減っていたのに。ぶり返すようにまた起きたのは、考えるまでもなく彼の告げた“伝達事項”のせいだった。 あの男のことを、キルシュは“ノック”と言った。 僕の知る限り、“同志”にあんな奴はいない。 知らない人間がいてもおかしくはない。あいつについては、単なる同職じゃなく幼馴染で、お互いに何をしていたか知っていて、何をしようとしているのか予測できるような仲で、むしろ例外的なところがあっただけだからだ。 だがそれを差し置いても、異国混じりの風貌、滑らかな英語、僅かに姿を見せる英国訛り、手慣れた銃火器の扱い、日本の慣習になじみのない素振り、我々とは異なる立ち回り――少なくとも我が国の者じゃない。 他国の諜報員に対して、自らの立場と命を危うくしてまでよその者を助けろというのは筋違いで無理な注文だ。僕がそれを求められ頼まれたところで、相当に状況が良くなければ、応えてやることは出来ないだろう。 ――それでも。 あの男は時折、本当に稀に、打算なく掛け値なしの情を見せる時があったから。認めたくないが、わかりづらいそれで、最中は気づかなかったものの、後々結果的に助けられることもあったから。それを評価するあいつがいたから。 だから、あいつがあの男と親しいらしい少女の相手をして無事に返し、追求も報告もせずその存在を秘めていたように、感じ取っていた素性に対して目を瞑っていたように、それと同じことをあいつに返してくれるんじゃないかと、勝手な期待を抱いてしまったところが、たしかに、ほんの少しだけ、あったのだ。 思索に耽る中、それを遮るよう、ぴんぽん、とやや間抜けな音が響いた。 鳴らす人間なんて一人しかいない。だが、はじめの頃に生活用品の調達に行って以来だ。一体何事かと玄関を開ければ、相変わらずスウェット姿のキルシュが立っていた。 「今大丈夫か」 「え……ええ」 あれから数日、キルシュのもとには行っていない。 心配したのか、慰めに来たのか――そうちらと思いもしたが、彼はあの時と同じけろりとした表情で、そんな空気は一切滲ませていなかった。 事実彼は挨拶もそこそこに手に持っていた紙袋を掲げた。 「きみ、ウイスキー飲めるか」 「ウイスキー、ですか?」 「ああ。知り合いから貰ったはいいものの、俺は苦手で。妙な味がするだろう」 モノによっては漢方じみた匂いのする酒だ。甘みを好む彼には合わないだろう。贈ったやつはそれを知らなかったらしい。 「きみが飲めるならどうかと思って」 「あなたがいいのなら、ありがたく頂きます」 「できれば一緒に飲みたいところだが……」 「日頃酒は嗜まないんですか?」 「ああ、ほとんど。ただ、実はラムからこれなら飲めるだろうと貰ったものもあるんだ。飲み方が分からないし、わざわざ作るのもめんどうで今まで置いていて――分かるか?」 そう言って、キルシュが紙袋から取り出したのはチョコレートリキュールだった。なるほど、それで僕に作れと。 「あまり凝ったものはできませんが」 「充分だ」 部屋をどちらにするかと問われて、キルシュの方を選んだ。どうせ僕のところは仮宿で、最低限必要なものしかないのだ。 室内は相変わらずだった。落としているのを見たことがないパソコンが静かな動作音を響かせていて、いくつもある画面には、ゲームらしきCGや、なにかの掲示板や情報サイトのようなもの、何のデータなんだかわからないグラフ等が映っていてる。それらをさっと流し見て、使い慣れてきたキッチンに立つ。 ウイスキーもあるならジェントルマンズショコラでも作りたいところだが、コーヒーリキュールは無いようだし、ウイスキーの味が苦手だというキルシュには合わないだろうと、ひとまず味見を兼ねてシンプルなミルクにした。 学ぶつもりなのか、単なる野次馬なのか、僕が作る様を横から眺めていたキルシュにそのまま手渡すと、彼はすぐに一口飲んだ。 「どうですか?」 「……シロップ薬みたいな味がする」 あまりいい評価ではないように思えるが、顔を顰めているわけでも、要らないと突き返すわけでもないので、それを飲んでもらうことにした。 自分の分をテーブルに置きに行き、キルシュが紙袋から出して持ってきたもう一つの瓶は、僕にとっては見慣れたものだった。 「スコッチ――」 「嫌いだったか?」 「いえ、そういうわけでは」 わざとなのか、という疑念も湧きはしたが、そうだとしたところで、どうということもない。適当に笑って、冷蔵庫付属の製氷機で作られた氷をザラザラとグラスに入れて、それを注ぎ、キルシュとふたりソファに座った。 「そういえば、そんな名前の奴もいたな、“スコッチ”」 「……どうでしたかね」 「ん、知り合いじゃなかったのか?」 「似たような任務を請け負うことが多かったので、話したことはありますよ。多少はね」 「良いやつだった。だが、確かあいつもネズミだったとかで、いなくなったな――そんなの、どうだっていいのに」 え、と、思わず声が漏れてしまった。それはキルシュにも聞こえただろう。 「あの……あなた、この前もライの事を……」 「ああ、不快か。悪い」 「いえ、そういうわけでは。ええと……それ、どういう意味ですか?」 「……ネズミがどうだとか、裏切り者がどうだとか。放っておいたらいいんだ。叩き出したって凋落や衰退は止められない。それなら、彼らがいずれくれるかもしれない恩恵を望んだほうがましだ」 “恩恵”。彼の言う、“バチ”のことか。 彼は本心からそれを願い待っていると? どう捉えるべきか、どういう反応を見せていいのか、惑っているうちにキルシュは「おかわり」と言った。今度はココアと混ぜてやると、気に入ったようでくいくいと飲み、次を欲した。 そうしてしばしばキッチンに立ちながら、自分の胃にも酒を流し込みながら、当たり障りない会話の裏で躊躇を重ね、それを口に出来たのは小一時間後だった。 「あなたは――ボスに忠誠を誓っているわけではないんですか?」 相手が相手ならば即座に撃たれることも有りうる問いだ。特にあの銀髪の幹部なんて嬉々として愛銃を取り出すだろう。だが、キルシュはさして気にした様子もなく、胸焼けしそうな酒を一口飲んでから答えた。 「だって俺は一人だ」 それは、どこか予想していたものでもあった。 「俺はどこの組織にも所属してはいない。誰にもこうべを垂れちゃいない。ただあだ名を呼ばれて、ちょっと手を貸してるだけだ。俺にボスはいない、少なくともきみが言うような者は。だから誓う忠誠もない」 もし、僕もそうだと言ったら。 滑り出そうとしたそれは、喉で引っかかって止まった。きっと大丈夫だろうとの確信を持ちはじめた僕に、もう一人、そんなことを聞けるだけの関係を築けていないと囁く自分がいる。僕も彼もお互いに信じ切っていないし、そんなことを言って、どう使われるか分かったものじゃない。先程のことだって、のちの場で制裁のための言質とされることが、万が一ないとも限らないのだ、と。あいつの最期が、まだ生暖かった体温が、耳を押し当てても何一つ拾えなかった胸の静かさが、鮮烈に蘇ってその声を後押しする。 それらを切り捨ても出来ず、絞り出せたのは短い言葉だった。 「では、なぜ……」 「ラムにとってはそうでなくとも、俺にはラムしかいない」 言いながら、キルシュはくたりとソファの肘掛けに寄りかかった。手元には配慮がなされておらず、彼の手の中で、これが注ぎたてならば零していただろうほどグラスが傾いている。 「こんなみっともない生き方を選んだのは自分だし、選んだからにはもう引き返せないんだ。望むものを得られるだけのことを出来ないから、分不相応な願いは持たない。愚かなりに懸命な判断だと、自分では思っているが」 いつもよりも少しゆったりとして、どこか地に足の付かない喋り口。 どうにもしたたかに酔っているようだ。それでも飲むのを止めようとしないのだから、飲酒の習慣がないのは本当らしい。 「でも、一人はさびしい」 だから、ぽろりと言ったそれも、おそらく彼の本心だ。 「……やはり、僕ではいけませんか」 「バーボン?」 「僕は、あなたの“友人”としてそばにいるのには、相応しくない?」 また素気無く断るのかと思いきや、キルシュは悩むように、んん、と声を漏らし、しばらくして、ゆるりと笑った。 「おかわり」 「……」 思わずため息がこぼれ出た。 |