J-7

「あれは、あなたと関係のあった男の名前ではなかったの?」
「あったさ」
「知り合いだったんでしょ?」
「ああ、よく知っている」
「この世にいないと言ったのは」
「探しても見つからないだろうな」
「名前を借りていたということ? でも日本で使っていたのは、”諸星大”じゃなかったかしら」
「それは潜入捜査のための名だ」

 もどかしい言い回しだ。元々多弁ではないが、捜査の際など、客観的な話の場合はきちんと根拠も込めて明確に話してくれるのに。

「――じゃあ、”近衛十夜”は、彼女のための名前なの?」

 徐ろにポケットに手を入れたシュウが、そのまま何もせずに手を引き出す。タバコを出そうとして、禁煙のカフェであることを思い出したんだろう、代わりとでも言うように、またストローに口をつける。もしかして、動揺しているのだろうか。
 暫く無言で見つめ合って、私が言い募らないのを知ると、彼はカップを机に置き、目を伏せてため息をついた。

「…………違う。それは真実、俺の名前だ」

 どこか自嘲するようなその声色に困惑する。

「そういう男がいたのも、この世界にいないのも、俺の名前であるのも、嘘じゃない」
「”赤井秀一”が、本名なのよね?」
「今ここにいる俺は、そうなる。偽名でFBI捜査官にはなれないだろう」

 まるで、ここではない場所にもいるとでも言うようだ。
 どういうことなの、と聞いても、それ以上は教えてくれない。
 日本にいた男。この世にはいない男。”近衛十夜”。赤井秀一。よく知っている。今ここにいる。嘘じゃない――ぞわ、と身体に湧き上がった感覚はどこか、しばらく前、二人の女性の指紋照合結果を見た時駆け巡ったものとよく似ている――とうていありえない、あまりにも馬鹿馬鹿しい考えに至りそうになってそれを振り払う。

 ……そうだ、彼は、詳しい経緯は分からないが、きっと”誰か”の名であったそれを、自分の名前の一つとしているのだ。
 仲間内や組織内の通名、呼びやすさやリスペクトからくる通称として戸籍にない名を名乗る人間なんていくらでもいる。そういう類のものに違いない。それにしては歪に感じるのは、おそらく彼が日本人で、私が日本の風習に対してさほど造詣が深くないからだ。そう、思うことにした。

「……じゃあ、シュウ……いいえ、トーヤって呼ぶわ」
「いや、今まで通りでいい。意味がない」
「だって、あなたの名前なんでしょう?」
「わざわざ呼ぶ必要がない名だ」
「名は人の記憶に依るのよ。呼ばれなければその概念としての機能を失うし、紐付く情報までもを霧散させる。それは一つの死だわ。その名を殺したくなかったから、だからああしてメモしたし、”彼女”に教えたんじゃないの? あなた、本当に知られたくないことを言ったりしないじゃない。
 ――ねえ、トーヤ。そう呼ばれたかったんでしょう?」

 そこまで言ってから、思わず固まってしまう。
 いつも落ち着いた彼が、感情的にならない彼が、時に冷酷なほど躊躇なく引き金を引く彼が、照れもせず人を褒める彼が、淡々と救いを求める彼が。

「…………他に、誰もいないときだけに、してくれ」

 絞りだすようにそう言って、迷子のような顔をしていたから。


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