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 あれからまた、あの子の態度は固くなってしまった。
 荒事が嫌いなのか血が怖かったのか、近頃は少しだけ小さな笑みもしてくれるようになっていたというのに、こちらを見てビクつかれるとちょっぴりショックだしひどくぐらぐらする。やはり女性と子供は分からない。勝手に調子に乗っているほうが悪いんだが。


 ――沖矢昴さん。
 名を呼ばれて部屋に入り、ドアを閉めつつ首元に手をやる。

「先生」

 変声機のスイッチを切って発したその一言に、座っていた椅子を回して体をこちらに向けた先生が、目も口も見開いてぽかんとした。眼鏡を外してみせると、こちらをまじまじと見つめてくる。

「……赤井さん?」
「今は沖矢昴と言います。驚きました?」
「……かなり」

 いつも穏やかに細められることの多い瞳をぱちくりさせている。なかなか見ないそれに思わず少し笑ってしまう。
 片手に持っていた眼鏡はポケットに仕舞い、勧められるまま向かいの椅子に座った。もう片手に持っていた小さな紙袋は膝に置く。

「すごいですね」
「ええ、魔法のようでしょう」
「赤……沖矢さん、ですか」
「そうです。二十七歳で、東都大学の院生」
「僕の先輩になるわけですね。沖矢先輩とお呼びしたほうが?」
「先生にそう言われるとむず痒い」

 相変わらず、柔らかな顔でゆるく微笑まれると、その安穏さが俺にも齎されるような心地になる。
 先生相手にならあの子だってあんなに怯えたりしないだろう。沖矢昴もこういった具合に出来たらいいのだが、真似てみたって俺ではなかなかうまくいかない。

「もう来てはくれないかと」
「良くないとは思うんですが、先生が恋しくなって」
「嬉しいです」

 さすが先生、これしきのことではホモだ逃げろとうろたえたりせず軽やかにスルーしてくれる。正真正銘ホモじゃないけども。
 正直言って来るべきではない。医院の戸を開くこの姿を見られ、来院の事実を知られるのはまずい。万が一があれば関係を辿られるだろうし、たとえ俺が本当にただの患者だったとしても、先生が危険に晒されかねない。
 だが、なんだか最近落ち着かないのだ。
 陸影の見えない海原で背浮きでもしているような、下に地があるか分からない綿の上を歩いているような――。

「気になっていたんです。ケアも万全とは言えぬまま送り出してしまってそれきりでしたから」
「充分すぎるほどでしたよ」
「……僕は、あなたさえよければ、往診に行きたいくらいですけど、そういうわけにもいきませんよね」
「はい――実は、あの後住処が燃えてしまって、今は知人の家に居候しているんです」

 本当に工藤家には頭が上がらない。先日初めて顔合わせした優作氏もいい人だった。……ちょっと苦手だが。

「燃えた? 火事ですか? 怪我は?」
「放火でした。ちょうど空けていたときだったので、俺自身はなんともないんですが」

 ホントにござるかあという風にざっとこちらを観察したその目は手へと止まる。
 見せてくれと言われて手を出すと、先生は一言断ってやや雑な巻き方をしていた包帯を解き眉根を寄せる。

「これは?」
「たまたまナイフを持った犯罪者に遭いまして」
「握ったんですか」
「咄嗟のことで」
「こっちは?」
「じゃがいもの皮がうまく剥けなくて」
「じゃ、じゃがいも? ……この火傷は?」
「クッキーが焼けたんです」
「は、はあ……?」

 これまたぱちぱち瞬きをする先生に、気を取り直したように他のは何だと幾度か聞かれたものの、それら以外はよく見えないしわからないので首を振る。
 やっぱり念のためといって全身確認され、処置をしてもらったのち、紙袋を渡した。

「よければどうぞ。マドレーヌです」
「……もしかして、手作りですか?」
「一応チェックしてもらってるのでそれなりの味ではあると思うんですが、お口に合わなかったらすみません」
「今日は驚かされてばかりですね……ありがとうございます」
「彼女には内緒で」

 先生は首を傾げながらも、はい、と答えて笑った。
 もしかしてロマンスは始まっていないのだろうか。保本さんの態度としては明らかに思慕の念を感じられたが、本当にその気がないのか疎いのか、おばあさんに遠慮でもしてるのか、あるいはあまりに自然な関係だから貰い物の出処など気にするほどのことでもないのか。
 下手につつくもんじゃないなと思って、料理って難しいもんですねえとぼやけば、俺の場合尚の事そうだろうと苦笑された。
 それからいくらか、他愛ない、主に沖矢昴のなんでもない日常なんかを話した。工藤邸での、あまりにも穏やかで、どこか落ち着かない生活を。最中コナン君が来たときの様子を聞いて先生がやや苦い顔をしていたが、何かえらいこと言われたかタチの悪いいたずらでもされたりしたんだろうか。たまにやりおるからなあの子。


「安心しました、と言いたいところですけど――まだ続いているんですね」
「ええ。まあ、さすがに慣れました」

 俺の言葉に、眉を下げるのみ。先生のそういう、へたに慰めや励ましをくれたりはしないところがいい。
 休んでいきますか、と問われていつも通り頷こうとし、少し躊躇した。――近頃本当に、どのくらい飛ぶのかわからない。一時間もないときもあれば、何時間も経っていて驚くことがあるのだ。計算に入れられなくて困る。
 構わないし様子を見にも来ると言われ、俺もちょっと期待して来たので結局あのベッドに潜り込んだが。

「……できることなら、自分を労ってあげてくださいね。難しいかもしれませんが、よく見てあげてほしい。あなたを一番大事に出来るのはあなた自身なんですから」

 横になって目を瞑り、瞼に降るその声は心地良い。息苦しさが少しだけやわらぐような気もする。
 そんな価値があるかは、わからないけれど。


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