B-9

「――彼女を?」
「ええ」

 助手席に座りタバコをふかした女は、シェリーを始末しろと言った。
 弱みを握ったとはいえ基本的に優位なのは彼女だ。彼女の頼みや指示はそのまま組織上部の意志によるものであることも多い。
 今回は口ぶりから言って個人的な要素が強そうではあるが、あまり必要以上に“あれ”を振りかざし強く出れば厄介な事態になるだろうと言うことも分かっている。“あれ”はあくまで保険だ。

「本気ですか」

 シェリー。組織を裏切った元研究員。ヘルエンジェルの娘。――彼の恋人のいもうと。

「もうエンジェルもハウンドもいないのよ。羽をもがず無様な浮遊を眺めていてあげるのは終わり」

 女はニューヨークで、彼と取引をしたといった。彼にはエンジェルがいるのだと。だから追手は来ないと。不鮮明なままだったその内幕が見え確信が得られたのは最近だ。
 つまりは彼は、恋人とその妹のためにこの女を見逃したのだ。――なんて馬鹿な真似を。
 口約束などどうにでもできる。とりわけこの女が吐くそれは何のよすがにもならない。現に見ろ、“彼女”は女の力が及ばぬところで眠り、お前が死ねば喪も明けぬうちからその片割れも摘み捨てるという。お前のなけなしの想いは報われないじゃないか。

「彼のための酒も、取っておく必要はなくなったわね……」
「なんです、また毒でも盛るつもりだったんですか」
「そんなところよ」

 本当だわ、人なんてあっけない。
 女は紫煙を吐き、ひとりごちるようにそう零した。


 彼はキールの誘いに乗り斃れたのだという。ジンがその死に様を確認したのだと。彼の車がその亡骸とともに炎上する姿はニュースになった。その事実自体は知っていたのだが。

 ――けれど本当に?

 疑うならと女が見せた映像で、彼はキールに肺を撃たれ、創部を抑えて顔を歪め息を乱していた。確かにあれは致命傷だ。だがどうにも引っかかる。
 ――彼は痛みを知らないのだ。傷を労る事を知らない。その彼が、あんな所作をするだろうか。
 嘔吐を繰り返した日の様子を見るに、呼吸が出来なければさすがに苦しかろうが、そういった苦辛にもさほど動じた姿を見せる人間ではなかった。
 だが彼が己にそこまでの執着をするとも思えない。彼の引き金は向く先が己だろうと軽かった。自らのそれも例外なく重さを量らない奴だった。死を受け入れるのはありえない話ではない。

 一度芽を覗かせた小さな疑問は、じわりじわりとその茎を伸ばす。まさか。もしかして。しかし。柄にもなく交わしたあの益体もない会話は、一体何を示唆していたというのか。

 乗ること自体が目的であった車を、どこに向かうでもなく走らせ続ける。
 米花、杯戸、鳥矢――さっさと帰ってしまえばよかったのに、彼を失ったFBIはまだこの周辺に潜伏しているらしい。隣でタバコを吸うのがこの女で、しかもその狙いが“彼女”の妹で、むしろ良かったかもしれない。このくすぶる疑心の先にある花を咲かすための雨しずくとなりえる。
 彼の死が事実だとしても、シェリーの身柄を抑えれば“我々”にとって大きな益となる。断れないにしろ悪い話じゃない。

「いいですけどね。代わりに僕にも協力してくださいよ」
「なあに? 面倒はよしてよ」
「どうせ火急の用ではないでしょう。ボスに倣って、僕達も慎重居士といきましょう」
「まあ、それは構わないけれど。もたもたして逃さないようにね」
「ええ、そんな間抜けはしません」

 口約束などどうにでもできる。それは言葉を操り得る者ならみな。僕だって例外じゃない。伊達にこの組織で生き残っていないのだ。

「利用できるものはするのが、ときには最善のやり方です」

 そうね、と短い相づちが飛んでくる。
 パープルのネイルを施された指が火をもみ消したそれを灰皿へ放り込む。まだフィルターから先が随分残っていた。
 あいつはいつも、ぎりぎりまで吸っていたな――なんて、いくらなんでも、何の役にも立たない情報か。


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