J-13 |
「笑って人を殺すような人に、いい人なんているわけないじゃない!!」 詳細を知らない一般人に対して、言っても仕方のないことだとは思ったが、動き出した唇は止められなかった。 聞き流せなかった。よりにもよって、“あの女”が“いい人”だなんて! ――残念、これは嘘じゃないの。 似合わない可愛らしい花と果物を持って来て、慣れない手つきで林檎の皮を剥いてくれた。捕らえた男に怪我を負わされたと痛々しく包帯の巻かれた手で。向こうで幾度か一緒に仲間の見舞いに行った際には、いつも両手をポケットに入れたまま手ぶらだった彼が。それなのに。 あの夜聞いた言葉が何度も蘇ってきて、彼の目を見ることができなくて。 何を話してもそっけない私に、彼はわずかに寂しそうな顔をして病室を出てゆき、それから退院まで一度も訪れることはなかった。 ――初めて見る、表情だった。 頭を殴られたような衝撃と、胸にぎりぎりとした痛みが広がった。 彼が扉を閉める直前、咄嗟に呼び止めようとして、けれど出来なかった。喉に何かがこみ上げてきて、それを飲み込むので精一杯だったのだ。 ――彼は私の“キス”を受け入れたのよ。“約束”をしたの。 ――ニューヨークでね。 魔女の言葉が毒のように体中を巡る。 ただ私を揺さぶるためのたわ言だと切り捨ててしまいたかったのに、どうしてもできなかった。 彼はベルモットを知っていた。その名を私に教えたのは彼だ。それなのにクリスについて、まるで初めて見るような態度を取らなかったか。 指紋照合の結果について驚く素振りをみせながら、それが変装によるものだというのを自然に納得していなかったか。 彼は私があの女へ怒りを表すたび、柄にもなく気を逸らす言葉を発していなかったか。 あの女は彼が渡ってから日本へ来なかったか。まるで追いかけるかのように。そして彼はあの女がやってくるタイミングで捜査会議に戻ってこなかったか。 病院に通っているという事実ただそれだけで、情報収集や殺人や取引ではなく、どうして男性に成り済ますつもりだと分かったのか。 あの女が動きやすくなるよう、殺される前に死んだことにしてしまおうと提案したのは彼ではなかったか。 初めて見るというあの女の標的である少年に興味を示し、子供の相手は得意でないはずなのにわざわざ言葉を交わしていた。その事情聴取であの女はやたらと彼を気にしている風じゃなかったか。 捜査の書類に紛れ込んでいた強力な麻酔薬の資料。あれはあの夜少年の意識を刈り取ったものではないのか。 彼なら私の言葉などなくとも、真っ先に頭を貫いたのではないのか。あるいは生かして捕らえるつもりならば、逃亡を防ぐため足を縫い止めたのではないのか。あえて防弾ジャケット部を狙ったのはなぜ? 彼女が逃走してから四時間もの間姿を見せず一切連絡を断っていた。その間にあったことを何一つ話さないのはどうして? 度々食事をしているようだったその相手は? ジェイムズに貰ったあの音声データの中で、手足を折られた男はなんと言った? ――彼はそもそも、組織を追い捕らえることについて意欲を薄めていやしないか? ぞわ、と得体の知れない感覚が這い上がってくる。 ずっとずっと、些細なことだと仕舞っておいた出来事たち。 あの女は行方を晦まし、その足取りは追えなくなり、標的だったはずの少年少女は今も普通に暮らしている。あまりにも普通に。 ――あなたは何を知っているというの? 彼は私を家に入れた。私に笑いかけた。私のための酒を買った。私をベッドへ運んで寝かせた。私のために引き金を引いた。私の顔色を伺った。私の能力を褒めた。私の意見をよく取り上げた。私には口を利いた。私の電話には出た。私の部屋で眠った。私に手を伸ばした。私に身を預けた。 彼が自分からコーヒーをくれと言うのは私にだけだった。私にはいつも優しかった。私の頼みごとは断らなかった。私には他より多く礼や謝罪を口にした。有事の際まず連絡をするのは私だった。 彼は私に“名”を教えた。二人のときだけ呼べと言った。名を呼んでくれと乞うた。 ――彼は私にゆるしていると思っていた。 こころまではいかなくとも、気のほんのちょっとを、私がそばにいることを。 思い込んでいた。私の入れるスペースを作ってくれているのだと。けれど。 もちろん、知らないことだってある。彼は語らないから。開かないから。そういう人だから。そう思っていた。 ――羨ましいか。 ――恋人か、って。からかってきたんです。 ――彼の銃は処分したよ。 ――シューイチがジョディは可愛いって! ――もうこの世界にはいない。 ――金髪の女だったって話だぜ。 ――顔も見たくない男だろうって言ってたよ。 ――詳細はお教えできませんが……。 ――悪夢だ。 ――予定していなかったことでね。 ――ビルの上、見てください。 ――急に褒められてびっくりしちゃった。 ――目撃者の言う犯人像は一致している。 ――あのライター、君じゃなかったのかい。 ――今ここにいる俺は、そうなる。 ――ジョディさん、聞いてないんですか? ――だから振られた、って。 ――なあ、ライ、わかるだろ。 ――――悪いな。 ああ、頭が煩い。余計なことばかり。まとまらない。仕事をしなくちゃ。こんなこと。一人でいるから。 せめて誰にも開かないのならよかった。あの人以外に開けられないというのなら諦めもついた。 随分治ったはずの脇腹がじくりと痛む。頭と胸も。痛み止めをいくら飲んでも患部にしか効かない。泣くようなことでもない。 信じたいだけなのだ。ただ言葉が欲しいのだ。そうではないと。愚かな考えを正してほしいだけ。疑念を晴らして。あなたを教えて欲しいだけ。どう問えばいいの。 彼は私に会うのを避けた。やり取りはジェイムズや部下を通した。今出て行ったところだよ、なんて。心配していましたよ、なんて。どうして。 お願い、信じさせて。何かに気づきそうなの。でも何が本当かわからないのよ。 ――煩わしい。 私は何のために捜査官になったんだ。何のためにプログラムを拒否し、泣きながら訴えたんだ。こんなことで煩うためじゃない。こんなものを患うためじゃない。 父のためだ。笑いながら人を殺す女を、厄災を振りまく非道な行為を、身勝手甚だしい悪事を許せないからだ。父の仇を討ち、同じ悲劇に見舞われる人が現れないよう、私のような少女を生むことがないようにだ。 これでは駄目だ。しっかりしなくては。 ――ああ、あの日、彼の家に行かなければよかった。 |