わがままになっていく
「マホさん、リヴァイ兵長がお見合いするって話、聞きました?」
休憩時間に、20は歳が違うまだ少女のあどけなさを残したような後輩兵士が急にそんなことを尋ねてきた。 普段あまりマホと会話をしない兵士なうえに、内容がリヴァイの事というのも手伝って、マホは飲んでいた紅茶を詰まらせて盛大にむせた。
「だ、大丈夫ですか?」
ゲホゲホと止まらない咳を心配する声には、若干の怯えも混じっている気がした。 涙目になりながら片手を挙げて“大丈夫”の意思表示をして、ようやくと気管を落ち着かせてからホッ…と息を吐いた。
「ごめんごめん、この歳になると誤嚥がね……ハハハ」
自嘲気味に笑ってみせるも、相手の兵士からは引き攣った笑みが返ってくるだけだった。
「あ、それで。リヴァイがお見合い?だっけ?」 「は、はい。そういう噂が流れてて。マホさんはリヴァイ兵長と仲が良いので知ってるかなって」
女として生まれ、長らく兵団にいると、なんとなくだが自分に向けられる感情、それも敵意の感情には気がつくようになっていた。 そして、今話している兵士からも、好意的ではない感情がヒシヒシと伝わってきていた。 本当ならマホになど、聞きたくもないのだろう。けれどもまだ入団して浅い兵士だ。リヴァイや幹部の人間に直接聞けるはずもない。幹部クラスには属さず、リヴァイと親しいマホなら知っているかもしれないという、苦渋の選択というやつだろう。
「ごめん、私は何も聞いてないよ」
マホの答えに、女性兵士はあからさまにガッカリな顔をして、もう話すことは無いとばかりに「そうですか」と短く言って、すぐにそこから離れて行った。 カップにまだ少し残った紅茶を飲み干しながら、マホはさっきの兵士な言葉をぼんやりと思い返していた。
リヴァイが見合いをする……。 それが事実なら、相手は貴族の娘あたりだろう。 結婚どころか出産の適齢期を過ぎてしまったマホでさえも、愛人や後妻の声がかかることがある。リヴァイに見合い話が来るのはおかしな事でもなんでとない。 増して、人類最強といわれるリヴァイほどの男だ。 相手の貴族は相当な寄付金を調査兵団に払うことになるだろう。万年資金不足の兵団にとっても、悪い話では無い。
悪い話では、無い……
手の平で軽く握っていただけのカップが背後から伸びてきた手によってスっと抜き取られた。 ポカンとしたまま後ろを振り返れば、上から掴むようにカップを持ったリヴァイが不審そうにマホを見下ろしていた。
「休憩時間は終わってるぞ」 「えっ、ああ、ごめん。ぼーっとしてた」 「居眠りでもしてたか」 「ぽかぽか陽気だからねー」
陽の光が射し込んでいる窓に視線をやって、ググっと伸びをしてみせるマホに、フンとリヴァイは鼻を鳴らす。
「何か、あったのか」 「え……」
ドクンと胸が高鳴る。それを悟られないようにと作った笑みは、先程引き攣った笑いを見せてきた女性兵士よりもわざとらしかったかもしれない。
「落ち込んでるように見えた……」
どうしてこの年下の男は、こんな風に接してくるのだろうか。こんな風に見つめてくるのだろうか。
「……気のせいだよ」
それはリヴァイに向けているようでいて、その実、 自惚れにクギを刺した言葉だった。
「ならいいが。カップは俺が片しておく。早く業務に戻れよ」 「うん。ごめんねリヴァイ、ありがとうー」
両手を合わせてそう言うと、マホはソソクサとその場を離れて行った。 その場に残されたリヴァイは、手の中のカップを睨みつけて眉を寄せる。
「嘘が下手だな」
それは、愛慕が滲んだ声色だった。
今夜が満月で良かった、とマホは誰もいない屋上に座り、傾けたグラス越しに映る丸い月に瞳を細めた。 月が出てなくても、三日月でも、どんな夜空であっても酒は美味い。 けれど気分が塞ぎ込んでいる時は、丸い月の下で酒を呑める方が嬉しい。 塞ぎ込んでいると認めてしまうのも嫌だったが、休憩後の業務の間もぼんやりと考えてしまうあたり、自分の心が相当なショックを受けてしまっているのは否めない。
例えばあと10歳、いや5歳若ければ……
そんな風に思ってしまうのは、もう何度目だろうか。そしていつも、その思いの渦の中心にはリヴァイの存在がある。 恋愛も結婚も、とうの昔に諦めたはずだ。 調査兵団の兵士として、国に心臓を捧げる身だ。余計な感情はいらないのだ。 それなのにどうしてこの歳になって、気持ちがわがままになっていくのだろうか。 それはきっと、もうとっくに……
ボトルの酒をトポポッとグラスに注いで、遣る瀬無い溜息を零した。
「リヴァイのことなんて、とっくに……」
夜空に綺麗な満月が浮かんでいることなんて、とっくに頭から消えていた。 グイッと一気にグラスを空けては、また、溜息を零す。
「とっくに……好きなんじゃん」
いくら誤魔化しても、隠そうとしても、素直な気持ちはこれなのだ。
「お見合いなんて、しないでよ」
本人を前にして言えるはずもないセリフを、ボソリと呟いて、ゴロンとその場に寝転んだ。 視界の先の夜空には、真ん丸い月が浮かんでる。
「そうだそうだ。満月だったね。ほんと、綺麗だなぁ」
伸ばした手で空(くう)を掴むと、ストン、と力無く落とした。屋上のヒンヤリとした石畳が手の平に伝わる。 気が付けばいつも見守ってくれている存在は、綺麗で眩しくて、それでいて手が届かない。 それで充分、それ以上は望むべきでは無いのに……
「おいっ!風邪引くぞアンタ!屋上でうたた寝するなと何度言や分かるんだ」
微睡みかけた意識が、乱暴に肩を揺すられたことで戻される。
「寝てないって……」
言って薄っすらと瞳を開けると、思った以上の至近距離にリヴァイの顔があり、バッとマホは体を反転させてから起き上がった。 マホの真隣に腰を下ろしていたリヴァイは、彼女の反応を少しだけ不服そうにしながらも、気を取り直すように目の前にドンと酒瓶を置いた。
「うぇ?」
マホの酒盛りにリヴァイがやって来る事はそう珍しくもないが、彼が酒を持参してくるのは滅多にない事で、思わずマホの瞳は真ん丸くなった。 その上彼が持参した酒の銘柄は、マホの見知らぬ物だったから尚更だ。 どうしたの、これ?とマホが問う前に、リヴァイが気だるげに言う。
「王都に行く用があって、帰りに酒屋で買った。新商品だそうだ」 「ミットラスに?」 「ああ。今帰ってきたところだ」
言って、フワ……とリヴァイは小さく欠伸をする。 どうりで、昼の休憩以降リヴァイの姿を見かけなかったわけだ……と、納得したと同時に、1つの疑問が浮かんできた。その疑問を、マホが頭の中で整理するよりも早く、言葉となってスルリと口から零れていた。
「お見合い?」
数秒の間の後、不思議そうにリヴァイが口を開く。
「……誰かに聞いたのか?」 「聞いたっていうか、そういう噂が兵団内に広がってるみたいだよ。私が何か知ってるんじゃないかって逆に聞いてこられたんだよね。まぁでも兵士長様だしね。イイ歳だしね、あってもおかしくないし……」
澄んだ夜の空気に響く自分の声が、思った以上に上ずってしまっている事に、マホは焦りを覚えていた。取り繕うように言葉を紡げば紡ぐほど、どんどんとメッキが剥がれ落ちていく気がして、それでも何とか会話の着地点を見つけようと必死だった。
「まぁでもリヴァイなら引く手数多ってやつか。調査兵団の若い女の子達もリヴァイに憧れてる子多いもんね。貴族の娘さんだったら、調査兵団への寄付金とかも期待できそうだけど、人類最強の遺伝子を残すなら若くて健康な女性兵士ってのも……」
「マホ」
ペラペラと捲し立てるマホを制止したのは、自分の名を呼ぶ声だった。 言葉が止まったからといって、冷静を取り戻せるわけではない。いや寧ろ、普段の彼からは出ない呼称に、余計に心の余裕は無くなっていた。
「なぁアンタ……」
リヴァイの声に、耳にジン……と熱がこもる。
「昼間に元気が無かったのは、その話を聞いたからか?」 「な、何言ってんの!?そんなはず……」
咄嗟に否定しようとした言葉が、抵抗するように喉奥に引っかかる。
「……っ」
さっきからずっと、心臓がドクドクと煩い。 それは、自分らしからぬ感覚で、顔を俯けると悔しげにキュッと下唇を噛み締めた。
「まぁ、そんなことはどうでもいい」
その声が耳に届いた直後、ガッシリとした腕がマホの体を強く抱き締めていた。 その腕の温もりに、鼻を掠めるリヴァイの匂いに、全身の熱がカッと上がる。 ずっとこうしていてほしいと、思ってしまう心を断ち切るように、腕の中でブンブンと大きく首を振った。
「リヴァイ!何してるのあんたって子はっ……」 「アンタが馬鹿だからだ」 「ば、馬鹿!?」 「見合いの話は確かにあったが、すぐに断った」 「そ……うなの」 「少なくとも、アンタを看取るまでは、引き受ける気はねぇよ」 「看取るって……」
こんな不毛な関係は良くないと、分かっているのにどうしてもマホは、その腕から逃れることが出来なかった。 リヴァイの立場を考えれば、若い女性と結婚をして子を作ることが一番だ。 それを分かっていながらも、わがままになっていくのだ。 身分の高い貴族の娘にも、若くて健康な女性兵士にも、渡したくないと、そう思ってしまうほどに……。 抱き締められた腕の中から見上げた夜空に浮かぶ丸い月に、マホは秘かに願うのだった。
どうか、こんなわがままな感情は、明日になれば消えていますように……。
だから今宵は、彼の腕の中で−…。 -end-
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