優しい嘘


「よぉ」

「え……あ、あれ?」

目の前に現れた男に、慌てて私は今日の記憶を振り返った。
朝早くから此処にいたし、居眠りなんてした記憶も無い。
この男が現れる日の合図、あの鐘の音を絶対に聞き落としているはずはない。
それに、大体この男が来るのは月に1度ぐらいで、前回此処に来たのはほんの1〜2週間前だ。
まぁそれでも来てくれた事には変わりないし、私もいつもの仕事をしようと、スケッチブックを抱え持って、椅子に座るその男をジッと見つめた。

ゾクリとする程に鋭い彼の瞳は、何度見ても慣れない。
そして、心の顏も……。

前回、足を引き摺ってまでして来てくれた時、彼は私に言った。

“いつの間にかお前に半分背負わそうとしてたみたいだ”

と。

“お前に描いてもらえないと、俺はもう耐えられそうにない”

と。

冷たい人形の様な表情を崩してまで彼が告げた言葉だ。

きっと私の所に来る時は、絶対に何かあった時なのだろう。

スケッチブックにペンを走らせようとしたその時、男が片手を上げてそれを制した。

「いや……今日は描かなくていい」
「え?」
「少し時間が出来たから寄ってみただけだ」
「そう……ですか」

男の心の顏は、“寄ってみただけ”とは思えないほどに悲愴感が溢れていて、逆に「描かなくていい」と言われた事に少しホッとした。あのまま描いていたら、また前回みたいに泣いてしまいそうだ。

「此処は、静かだな」

そう言って、彼は少しだけ顏を空の方に向けた。
何処へ向かっているのだろう、二羽の鳥が青空の下を悠々と飛んでいる。
静かな、穏やかな昼下がりだ。
それはいつもの風景で、だから、男のその言葉が妙に引っ掛った。
そういえばここ数日、前を通り過ぎて行く人達の会話が物騒だった。

“ウォールシーナに巨人が出た”
“ウォールローゼ南区に巨人が出た”

その会話を除けば、此処は普段と何ら変わりない。
実際目で見たわけじゃないし、本当かどうかも分からない。私からしたら耳を軽く通り抜けていく程度の、信憑性の無いふわふわした会話だったけれど、“此処は静か”だと言う男が、その会話達と深く関わっているんじゃないかと、そう思えたのだ。
とても強いこの人が、心の中に深い悲しみを閉じ込めるこの人が、何者なのかも私は知らないから……
そして、他人の事を知りたいと思った事も初めてだったから……。

「あの……」

パタンとスケッチブックを閉じてからそう切り出した私に、男は空に向けていた視線を戻した。
その眼差しの鋭さに気負いされつつも、私は声を絞り出した。

「貴方の、名前は……」

誰かが蹴ったのか捨てたのか、路地の向こうの方から缶の転がる音が響いてきた。
カランカラン、というその音が止んだ時、スゥと男が息を吸った。

「……リヴァイ、だ」
「リヴァイ?」

自分に関係無い事には興味を示さない為に、周りから世間知らずだと言われる私でも、その名前には聞き覚えがあった。
壁の外の巨人と闘う調査兵団。
そこの兵士長で、人類最強。
そんな程度しか知らないし、年齢も顔立ちも、全く知らない。
とても強く、そして深い悲しみを背負うこの人が、自分の名を言うまで、本当にそんな人がいるのだろうか……と、いうぐらいの認識でしかなかった。

「兵士長……さん、ですか?」

もし本当にそうなら、心の顔が深い悲しみに溢れているのは、これまでに沢山の死を……

「……そんな不安そうな顔をするな。名前が同じだけだ」

その人が吐いた優しい嘘は、また心の悲しみを深くさせていく。
寝かしていたスケッチブックを再び抱えて、私は言う。

「やっぱり、描かせて下さい」

ペンを握り締めた私を、もう男は制する事をしなかった。

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