チェックメイトだな。


「先生、私、今日ちょっと体調が悪くて……」

マスクをして大袈裟な程にゲホゲホと咳込むマホを見て、初老の医師は困った顔で口元に蓄えた白い髭をスルリと撫でた。

「困ったなぁ。今日はリヴァイ兵士長が診察に来るのに……」
「そ、そうですね。あの、患者さんに遷るといけないので、接触は避けたいのですが、雑用とかは全然出来ますので!!」
「体調が悪いんだろう?雑用でも辛いんじゃないか?」
「い、いいえ!と、とにかくリヴァイ兵士長には他の看護師に付いてもらえたらと……」

そこまで言ってから、思い出したかの様に眉を寄せゲホゲホと咳込むマホを見つめて、医師はしょうがないな、と頷いた。
何とか納得してもらえた様子に、マホは、マスクの下で秘かに安堵の息を漏らした。

処置に使われた器具等を洗浄しながら、先程までのつっかえが取れた安堵感で思わず鼻唄を歌いだしそうになり、慌ててゴホゴホと咳き込んだ。
相変わらずマスクスタイルではあるが、マホの表情は健康そのもので、それもそのはず、“体調が悪い”というのは丸っきり出まかせだった。
先日、診察にやってきたリヴァイと、処置室の中で起こってしまった痴態。そして診察室を出る時にニヤリと笑ったリヴァイ。
それから逃れる為の苦肉の策での仮病なのだ。
幸い、滅多に風邪等引かないし、常日頃真面目な勤務態度を取っているおかげか、怪しまれる様子も無く体調不良は信じてもらえた。
マスクに咳という演出効果もあっての事だろう。
実際、“嘘”の咳を繰り返すのは、マスクで口と鼻が覆われてるのも手伝って、息苦しく、喉も変な感じになる。だが、そんな不自由よりも、リヴァイと対峙する事の方がマホには酷く恐ろしかった。
それは勿論、またリヴァイに手籠めにされてしまう事への恐怖もあるが、何よりも恐いのは自分自身だった。
前回、無理矢理にリヴァイに犯された形ではあったものの、それを嬉々として受け入れている自分がいた。
目を覆ってしまいたくなる状況だったのに、指の隙間から目を覗かせてワクワクしている自分がいた。
きっと今日、リヴァイと対峙してしまったら、またそんな自分がいそいそと姿を見せて来るのだろう。

今だって……その時を思い出すだけで……

ハッと我に返り、頭から煩悩を追い出すと、マホは掃除用具を手にパタパタとトイレへと駆け込んだ。

思い出すだけで、体が疼く様に熱くなるなんて、これじゃぁまるで、自分が変態みたいだ……

幸い誰も人が居なかった男子トイレで、大きく溜息を1つ零して、便器に勢い良く洗剤をぶちまけた。
ブラシでゴシゴシと便器を磨いていけば、徐々に心の乱れは和らいでいって、綺麗に磨かれた便器がツヤリと輝き出した時には、マホの心も清々しい気持ちでいっぱいになった。

「〜〜〜♪〜〜〜♪」

それはもう、自然に鼻歌なんて口ずさんでしまう程で、決して爽やかとはいえない男子トイレが、一気に華やかさを帯び出していた。
本来マホは掃除が好きだ。やり始めると止まらない性格で、夢中になりすぎて周りが見えなくなるなんて事もしょっちゅうだ。
医師や先輩看護師からは「マホの掃除は丁寧だし徹底してるけど、没頭しすぎだ」と注意を受ける事もしばしばあった。
綺麗好き、というか、汚れている箇所が綺麗になっていく過程が好きなのだが、特にトイレ掃除はマホにとってかっこうの掃除場所であり、人が入って来たのも気付かぬ程、完全にそれに気を取られていた。

「随分機嫌が良さそうだな」

突然に、頭上から降ってきた聞き覚えのある声に、ビクッとマホは飛び上がり、手に持っていたブラシまでが驚いた様に、床に転がった。
しゃがんでいた体勢から飛び上がったのに、床に尻餅を着く事が無かったのは、真後ろに立っている人物の足が背凭れになってくれたからだろう。
だがその人物こそが、マホにとっては絶対に会ってはならない相手で……

「は……あ、の……」
「『風邪を引いてる』と医者から聞いたが、鼻歌を口ずさむ元気はあるのか」
「…………は、げ、ゲホゲホ!!」

何も言い返せず、無理矢理な咳を取り繕うマホの頭にポンと手が乗る。
その手の平だけで、生気を吸い取られたみたいに、マホは顔面を蒼白させてカタカタと震え出す。
頭に乗った手は、流れる様に移動して、マホの額を包んだ。

「……熱は、ねぇみたいだが」
「…………さ、下がったのかもしれません」
「ほぅ、ならもう元気か」
「…………っゲホ、ゴホ!!」

再び無理矢理な咳をすれば、チッと舌打ちと共に、マホの真横に同じ様にしゃがみこんできた、端整な顔が並んだ。

「ワザとらしい咳してんじゃねぇぞ。てめぇ……」
「リヴァイ兵士長……あ、あの、遷るといけないので」
「フザけんな。風邪なんて引いてねぇだろーが。元気に掃除してたぐらいだしな。だが……まぁ、お前の掃除の仕方はなかなか、悪くない」

これからどんな報復が待ってるのかとビクついていたマホだったが、唐突に掃除を褒め出したリヴァイに、肩透かしをくらった気分でそろーっと彼の顔色を伺った。
てっきり酷く怒っているか、サディスティックな眼でこちらを見ているかだと思ったが、リヴァイの視線は目の前の便器に注がれていて、しかも感心した様にしげしげとそれを眺めている。
よく分からないものの、とりあえず今、リヴァイはマホより便器に興味を示している。
額に置かれてある手も、軽く触れている程度で大した力も加わっていない。
この好機を逃すな!という脳からの命令に従って、マホは額に置かれたリヴァイの手を振り払うとバッと勢い良く立ち上がった。

「あ?」

すぐに低い声が飛んできて、マホの脳内は“逃げろ”の3文字で埋め尽くされる。
人間というのは不思議なもので、焦っている時ほど状況判断能力というものが低下する。
“逃げろ”に従ってマホが足を踏み出した方向は、トイレの出入り口とは正反対で、走って数歩でトイレの最奥の壁に身体がぶつかった。

「何やってんだお前……」

呆れた声と全く急ぐ様子なくテクテクと歩いて来る足音に、更に焦ったマホが穴にでも隠れたい思いで飛び込んだのは、トイレの個室だった。
開いたままの扉以外の全てが壁に囲まれた狭い空間で、ゴクリ、と喉を鳴らした時、何の躊躇もなく同じ様に個室に入ってきたリヴァイの手で、開いたままだった扉もカタンと閉められた。
四方は壁、目の前にはリヴァイ。前回の処置室の個室よりもうんと狭い密室。

「こんなとこに誘い込んで、どうしたいんだよ?」

ニヤリと吊り上がった口元から放たれる意地悪な口調に、マホの身体が一気に危険信号を放ちダラダラと冷や汗が背筋を流れて行く。

「ち……違……」

必死で否定しようとするものの、マスクの奥でぷるぷると震える唇では上手く言葉が紡げない。
そんなマホをジッと見据え、リヴァイは彼女の口元を覆っているマスクにクイッと指を掛けて引っ張り上げた。

「チェックメイトだな」
「は……」

久々に直に空気に触れた口元が冷たい、と思ったのは一瞬で、すぐに唇が塞がれ、マホは期待に高鳴りだした自分の胸に、“チェックメイト”の言葉の意味を痛感するのだった。

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