誰より優しく不器用な人


それは、リヴァイが調査兵団にやってきて半年が過ぎた頃だった。
ジメジメとした空模様の続いていたある日、リヴァイやマホを含む数名の兵士が、カラネス区の壁の修繕工事の手伝いに駆り出されていて、それも無事終わり、皆が順に本部へと馬を走らせだした頃は、まだ日暮れ前だというのにどんよりと空は暗くなってきていた。

「チッ……雨が降りそうだな」

ボソリと呟いたリヴァイの声に、すぐ隣を走っていたマホが不安気に空を見上げた。

「あー……。私今日雨具積んでないや。早く帰らないと……だけど、もう駄目だ。限界っ」

そう言うなり、前を走る兵達に「先に行ってて」と告げて、すぐ近くにあった広場の馬繋場に馬を置き、公衆トイレへと一目散に駆けて行った。
そんな彼女を若干白けた目で見送っていたリヴァイは、再び空を見上げて気難しげに眉を寄せた。


「ゲッ……」

無事に用を足して、スッキリとしていたマホの表情が、空からポツポツと降り出した雫を感知して一気に悲愴に変わる。
まだポツポツではあるが、何処を見ても灰色に覆われている空はこれから次第に雨脚が強まっていく事を残酷なまでに教えてくれていた。
「先に行ってて」と言ったから当然なのだが、他の兵士達の姿は何処にも見当たらず、若干の心細さを感じながら、マホは深緑色のケープのフードを羽織って馬繋場へと戻った。
その間にも徐々に強くなる雨雫が容赦なくケープを濡らし、体にも染みてくる湿気にギュンと心が折れそうになる。
このままだと、本部に帰る頃には完全に濡れ鼠だ。
いっそ何処かで雨宿りをしてから帰ろうか、だが、余りに遅いと心配をかけさせてしまう事になる……。
脳裏に、エルヴィンの心労そうな顏が浮かび、それは駄目だとマホは軽く頭を振った。

「もしかしたら、雨具を持って来てたなんて事、ないよね……」

入れた記憶が無いのだからそんな事はあるはずない、そう分かっていても希望は捨てきれず、マホは馬の背に積んでいたバッグを降ろし、まるで宝箱を開けるかの様な緊張した手付きで、使用感のある草臥れたバッグの口を開いた。

「あ、あれ!?」

瞬間に素っ頓狂な声を上げて、ガバっとマホは大きくバッグの口を開く。
記憶が無い。本当に記憶は無いのだが、まるでずっとそうしていましたよ、とでも言う様に、バッグの一番上に、見慣れた兵団指定の雨具が綺麗に畳まれて入っていた。

「……おかしいな、入れてたっけ???」

記憶には無いものの、とりあえず今目の前に雨具がある事は紛れも無い事実で、徐々に強くなる雨脚がマホの思考を妨げて、今すぐ雨具を着ろ、と命令してきていた。
もうすでに雨に濡れてはいたが、惨めな濡れ鼠で本部に帰る事は避けれそうだ、と少しホッとしてマホは雨具をスルリと羽織った。
早く帰りたそうにしている馬の首をトントン、と叩いてから、しっかりと雨具を装着して馬に跨った。

ここのところ天気が悪かったから、気付かないうちに自分で入れてたのかな……。

とりあえずは今はそういう事で解決して、なるべく早く帰れる様にと馬を急かした。


「ああ、でも、君は雨具を持って行ってたんだね。良かった」

本部に戻るなり、心配そうに出迎えてくれたエルヴィンにそう言われて、湿気の不快感も忘れて有頂天になっていたマホには、次いで入ってきたエルヴィンの声はもうそれだけで満足で、内容までは深く考えようとしなかった。

「皆雨具を持ってたんだが、リヴァイは忘れてたみたいでね。ビショ濡れになって帰ってきたんだ」
「あ、そういえば『雨が降りそう』って嫌な顔してた気がする。リヴァイは災難だったね」

自分も災難な事にならなくて良かったと、その時のマホはそう思う事しか出来なかった。



「……ねぇ、リヴァイ。随分前の話になるんだけどさ……」

リヴァイの部屋で、窓に伝う雨をぼんやりと眺めながら思い出した様にマホはポツリと呟いた。

「あ?何だいきなり」
「いや、あのさ。まだリヴァイが調査兵団に来て半年ぐらいの時、駐屯兵団の手伝いでカラネス区の壁の修繕をした事があったでしょ?その日、帰りに雨が降ってきて、私、雨具を忘れたと思ったんだけど、何故かバッグにちゃんと入ってたんだよね」
「……入ってたなら入れてたんだろ」
「私もそう納得したんだけど、自分の部屋に雨具は置いてあったんだよ。とりあえずよく分からなかったけど、使った雨具は物干し場で乾かしてて……それもいつの間にか無くなってたんだよね」
「……誰かが間違えて持って行ったんじゃねぇのか。他のヤツの雨具も干してあったんだろ」
「……その日、リヴァイは雨具を持ってなくてビショ濡れで帰ってきたって」
「…………そんな昔の事覚えてねぇよ」
「よく考えたらリヴァイって、そういう準備は人一倍ちゃんとしてる人間だったよね?雨具を忘れるなんてまず考えられないんだけど……」
「……馬鹿言え。俺は元々結構忘れる」

そう言って、誤魔化すみたいにグイッと後ろから抱きしめてきた強い腕に、フフッと声を殺してマホは笑った。

今だったらすぐに分かるのに、あの頃の私はいつも違う人を追掛けていたから、まだ気付けていなかったんだ……。

「ずっと、リヴァイに助けられてるね、私……」
「……最初に“助けて”と言ってきたのはお前だ」

これからもずっと、誰よりも優しく不器用な恋人の、“助けたい”存在でいられる様にと、マホは星の見えない泣き虫な空に祈るのだった。

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