【後】


もう半数以上の兵士とすれ違った気がするが、そこにマホの姿は無かった。
いや、マホだけでなくジュディ、それに持久力には大層自信を持っていたテッドの姿も見当たらない。
勾配のキツい山道、雨で悪い視界、その条件も手伝って酷く嫌な予感がリヴァイの鼓動を速めていた。
こういう時の嫌な予感は大抵当たる事が多いからタチが悪い。
更に進むスピードを速めようとしたその時、前方からリヴァイに負けない程のスピードでこちらに向かってくる人物に気付き、リヴァイはピタ、と足を止めた。
雨具のフードが捲れあがって、坊主頭を惨めな程ビショ濡れにして、こちらに走って来る人物の悲壮な顔を見た瞬間、リヴァイは嫌な予感の当たりを確信した。

「テッド!!」

雨風を打ち消す勢いで叫んだリヴァイの声に、走っていたテッドも立ち止まる。

「リヴァ……イ!?」

驚いた顏で目を白黒させた後、テッドはすぐに我に返った様子で頭をブンブンと振った。

「教官を呼びに行こうと思ってたけど、リヴァイっ!!助けてくれ」

持久力に自信があるテッドが、訓練でバテているところなど見た事がないテッドが、はぁはぁと肩を上下させている。

「マホか?」

それしか無いだろうと思いながらそう聞けば、テッドは軽く頷いて「説明してる暇はない!着いて来てくれ!!」と言いながら元来た道をまた走り出した。
雨水が目に染み、水を含んだ雨具はゆっくり着実に重みを増して体の動きを鈍らせる。
それでも足を止める理由等、2人には無かった。

ほぼ全速力で1`程走れば、勾配が急な上に道が狭くなっている箇所にジュディが座り込んでいた。上体をうつ伏せて、道になっていない、木の茂る斜面を覗き込んでいた。

「テッドッ……リヴァイ!?」

少し前のテッドと同じ反応で目を白黒させた後、ジュディは雨なのか涙なのか頬に伝っている水を手で拭って、震えた唇を開いた。

「マホが、足を滑らせて……」

ドクンッ、とリヴァイの胸が鳴る。
ほぅら、やっぱり……と自分自身が心の中で嘲笑した。

「アイツ、フラフラになってるのに休みもせずに進もうとしやがって……」

ガシガシとテッドが坊主頭を掻き回している。
ジュディが覗き込む斜面を同じ様に覗いてみても、真っ暗でマホの姿なんて勿論見えない。
リヴァイは、グッとその手に拳を握り、テッドとジュディを順に見た。
ゼェハェと息を吐くテッドと、真っ赤な瞳でこちらを見つめるジュディは、そのどちらも“らしくない”姿であり、それが逆に仲間を想う気持ちを見せつけられている様だった。

「お前等……よく自分達だけで動こうとしなかったな。良かった……」

もしテッドが呼びに行く事をせず、ジュディと共にこの暗闇に転がり込んでいたとしたら、その事実も知らぬまま、探し続けていたかもしれない。そう思うとゾッとした。
ジュディが肩をひくつかせて、言う。

「だって……私もテッドもっまだまだ半人前で……っ自分達だけで動いたらっ、共倒れになるかもしれないからっ……」
「助けられそうな人間に頼む方が、確実だと思ったんだよ……」

ジュディに続けてテッドが言い放った言葉に、リヴァイは深く頷いた。

「良い判断だ」

ポンポンと2人の肩に手を置いてから、リヴァイは斜面に片足を乗せ、そのぬかるみ具合を確かめた。数回足を滑らせてみてから、キッと三白眼の鋭い瞳を2人に向けた。

「俺が行ってマホを連れて帰る。お前等はこのまま進め」
「な、何言ってるのよ!嫌よそんなの!!」
「進めるわけねーだろ!何考えてんだ!?」

斬り込む様に言ってくる2人に、リヴァイは余裕染みた顏で口角を上げてみせた。

「なら、もうゴール地点にいるだろう教官を呼んできてくれ。急ぎで……だ」

そうリヴァイが言うと、2人は顏を見合わせて頷き、「すぐに呼んでくる!!」と告げてリヴァイの忠告通り“急ぎで”山道を進んで行った。
ハァッ……とひとまず安堵した溜息を吐き、リヴァイはぬかるみのマシな斜面を慎重に下って行った。


ピチャピチャとすぐ耳元で木の葉が水を弾く音聞いて、マホはゆっくりと意識を覚醒させていく。

冷たい……暗い……

瞳を開けて直後、頭に浮かんだ感情はその2つだった。
木々に覆われて前方を2.3メートル程しか視界が効かず、木の葉に遮られながらもその網の目を掻い潜る様に落ちてきた雨雫が横たわるマホの体を濡らしている。
頭がボーッとしている所為か、(ああ、足を滑らせて落ちたんだ)と、今の自分の状況を冷静に理解出来ていた。
ただでさえ苦手な兵站行進、その上雨で更に体力を削られ、足を滑らせた拍子にそのまま気を失ったのだろうか。
腹筋の力を頼りに上体を持ち上げてみても、体に違和感は無い。両手両足を曲げ伸ばしてみても、痛みは無い。

反射的に上手く防御を取れていたのだろうか、と考えれば瞬時に頭に浮かぶのは、リヴァイとの対人格闘だ。最初は派手に怪我をしたりもしたが、回数をこなすうちに多少の擦り傷はすれど、怪我は少なくなっていた。

「ま、負けてたら一緒だけど……」

自嘲気味に呟いて、マホはフゥ……と息を吐く。
大した怪我もしていないし、早急に元の山道に戻る必要があるのだが、どうにもまだ体力の消耗が激しい。
急降下したであろう斜面を再び登りきれるだろうか、と考えれば恐怖に身が縮こまった。

こんなんじゃ、調査兵団になんて……。

キュッと悔しげに、マホは下唇を噛み締めた。

幼い頃から夢見ていた世界。誰に何を言われても絶対に行くと決めている世界。
2週間前にあの男に出会った時、マホは夢に近付けたと思った。
だが、直後にそれを打ち砕かれた。
持久力はともかくとして、自分の運動能力にはマホはそれなりに自信を持っていた。
調査兵団でも充分に活躍出来ると信じていた。
それなのに、赤子の手を捻る様に簡単に自分は捻じ伏せられてしまったのだ。
悔しいと思い、そして同時に、もっと近づきたいと思えた。
それからは訓練の時はなるべく彼の動きを観察し、対人格闘の訓練では必ず相手をしてもらい、自主訓練にも励んだ。
自由の翼の、せめて羽一枚でも手が届いたらと、そんな思いで我武者羅に己を鍛えた。

けれど今のマホは無様に山中に転がっている。

パタパタと、やけに生温い雨粒が膝の上に置いた手に落ちてきたと思ったら、自分の目から零れ落ちる涙だったと気付いた時は、我慢出来ない嗚咽が喉奥から漏れていた。

あの人が来てから、更に夢への憧れが強くなっていたのに……
あの人の下で働ける日が来たら、命の限り尽くそうと心に決めていたのに……
あの人に「よくやった」と褒めてもらえる時が来るのを夢見ていたのに……

頭の中に浮かんでくる、無愛想で冷たい三白眼の灰色の瞳の、けれど熱い眼差しを持ったあの人の顏が、マホの胸を焦がし更に涙を煽った。

「うっひっうっ……リヴァッ…………イ」
「ビービ―泣いてんじゃねぇよ。体力を消耗するぞ」

ついに頭がおかしくなって、幻聴が聞こえだしたのかと、その時マホは本気でそう思った。
薄暗い視界の先から、ズルル……と何か引き摺る様な音がして、ようやくその姿を目に収めた時は、幻覚かもしれないと何度も瞬きをした。
けれども何度、瞬きを繰り返してもその仏頂面は消えなかった。
大して疲弊した素振りも無く、マホの前まで来たリヴァイは、視線を合わす様にしゃがみ込み、彼女の頬をスルリと指の腹で撫でた。

「まぁおかげで、何処に転がってんのか分かったが……」
「あ……えっ……リヴァイが、なんでリヴァイっ……?」

上擦った声でそう言ってキョロキョロと視界の悪い周囲を見渡すマホに、「落ち着け」とリヴァイは告げて、彼女が膝の上に乗せている手の上に自分の手を乗せた。冷えた手に重なったリヴァイの温かい手の平が、ジィ……ンと甘い痺れを伝えてくれた。

「テッドが俺を頼ってくれた」
「テッドが……?」
「ああ。ジュディも俺を信じてくれた」
「あの……2人は?」

不安……を伝える様にマホの眉がハの字に下がる。
何となく想像が出来た。
周りから遅れをとるマホの隣を付き添う様に共に歩くジュディと、その周りをしつこい虫の様にマホをからかいながら共に歩くテッド。
そして、自分のスピードに2人が合わせている事に心苦しくしているマホ。

そんな彼女を安心させる様に、リヴァイはマホの背中に手を回すと、ソッ……と自分の方へと倒れるように背を押して、しっかりと胸で抱き留めた。

「大丈夫だ。先にゴール地点に行って教官を呼んでくる様に頼んでる」

リヴァイが告げた言葉に安心した様にマホは体を脱力させた。
ズシ……と重みを増した温もりに、リヴァイは安堵の表情を浮かべ、ギュッと強くそれを抱きしめた。

俺は、探していたのかもしれない。
信じてくれる人間を
頼ってくれる人間を
共に行きたいと思う人間を
失ってしまったものを、探していたのかもしれない。

マホの体を支えながら、山道へと戻れば、すでにそこには教官とテッドとジュディの姿があった。
泣きながら駆け寄るジュディと、怒りながら駆け寄るテッドと、その2人に向かって体を2つ折りにして謝罪するマホという図は、そこにある絶対的な絆を教えてくれていた。

実質、マホは途中棄権という扱いだったが、今までに受けたペナルティは皆無な為、開拓地送りにはならなかった。
そしてリヴァイには、『1週間後に調査兵団への復帰』の命令が下った。


「もう、戻っちゃうんだね……」

調査兵団へ戻る日の朝、隣に並ぶリヴァイの方を見ずに自分の爪先に視線を落としながらポツリと寂しそうにマホは呟いた。
朝食時の僅かな自由時間。それを狙った様にマホに呼び付けられて、人気の無い裏庭に連れて来られた。
彼女が何故、2人きりになれる場所を選んだのか、そんな事を聞くのは野暮だろうとリヴァイは思い、壁に背を持たせて「ああ」と短く答えた。
爪先に落としていた視線を上げて、マホは不安そうに瞳を揺らし、リヴァイの横顔を見た。灰色の冷たい瞳は、もう遥か先を見つめている様で、キュウと胸が締まる。

「リヴァイ……私の事とか、簡単に忘れそう」

何言ってやがると笑うつもりでマホの方を見れば、寂しげに揺れる瞳とぶつかって、緩みかけた口元が停止する。

「俺が、そんなに薄情に見えるか」

そう言って、桜色の頬をムニと摘んでやれば、「だって……」喋り辛そうに眉を寄せるので、フン、と鼻で笑って、摘んだ頬を離してやった。

「調査兵団に戻ったら、毎日が忙しくて此処で過ごした事なんて思い出す暇も無さそうだし……」
「忙しいのは事実だが、思い出さなくても忘れるわけねぇと思うが……」

呆れた口調で言うリヴァイに、「そうかな……」と疑心的な瞳をマホは送り続けている。

「何だ?お前は卒業したら調査兵団に来るんじゃねぇのかよ?」
「そ、それはっ……そう、だけど」
「なら、その時に俺がもしお前を忘れてるような事があれば、その時に散々文句を垂れろ。今は辛気臭い面すんのは止めろ。」
「うっ……」
「戻るのが、惜しくなる」

これが大人の男だと言わんばかりに、スルリとリヴァイがそう言ってのけた事で、マホは蛇に睨まれた蛙の様にピクッと身体を硬直させた。
カァッと一気に耳まで赤く染まりだしたマホに、思わず笑いそうになる。
こういう初心な、恋を知ったばかりでまだその本質すらよく分かっていなさそうな、そういう反応の女を見る事自体が新鮮で、今更になってリヴァイの中の嗜虐心がチラチラと姿を見せ始める。

「なぁマホよ。そんなに不安なら、忘れねぇまじないでもしとくか?」
「えっ?」

そんなのあるの?と、マホが聞く前に、リヴァイの薄い唇がマホの柔らかいあどけなさの残る唇に触れていた。
それは一瞬の事で、例えば目を閉じていたら、何が起こったのかさえ理解出来なかったかもしれない。
余裕ぶった表情で、口角を上げてリヴァイがこちらを見つめてくるので、途端に押し寄せてきた羞恥心に、マホは熱くなった頬を両手で押さえた。

「酷い……」
「何が」
「だって、軽い男みたいだよリヴァイ。私の、は、初めてのキスなのに……」
「そう思ったから貰ったんだが……」
「は!?何それ最低っ!!」

羞恥と怒りの入り混じった顏で、腕を振り上げて向かってきたマホを、やんわりと躱して逆にその身体を抱き締めた。
こうして胸に抱き留めるのは2度目だ。つい1週間前の出来事が、甦り、リヴァイは彼女を守る様に、グッと抱き締めた手に力を入れた。

「リヴァイっ……?」

くぐもったマホの声に、安心させる様に彼女の金色の髪を撫でてやる。

「マホ、お前……」
「は、はい……?」
「必ず、来いよ。調査兵団(こっち)に……」

マホの返事は無かったが、リヴァイのシャツの胸元を、ギュッと握る温もりを感じた。


「マホ―!?リヴァイ―!?」

少し離れた場所から飛んできたジュディのよく通る声に、パッとリヴァイとマホは同時に身体を引き離す。
ポーカーフェイスのリヴァイとは対照的にマホは、火照った頬を冷ます様に、指の腹でトントンと軽く頬を叩いていた。
ザッザッザッと2人分の賑やかな足音がこちらに近付いて来る。

「やっぱり此処にいたー。マホ、もうすぐ訓練始まるよ。リヴァイは……教官が探してたけど」
「な、何してたんだよお前等2人で!!怪しすぎるじゃねーか!!!」

ポワンポワンと揺れるポニーテールも、太陽の陽射しを浴びて光る坊主頭も、もう見れなくなるのかと思うと、名残惜しいとリヴァイは思った。
建物の中へ戻る途中、両掌を組んで頭の後ろにやって伸びをしながら、テッドがリヴァイに言う。

「リヴァイ。俺、所属兵団の希望、変えるかもしれねーよ」
「希望を?」

意外そうにリヴァイが聞けば、フンっとテッドは鼻を鳴らした。

「待ってろよ、リヴァイ。いつかお前より強くなってやるからな」

ニッと白い歯を見せて笑うテッドに、リヴァイは片眉を下げて僅かに口元を緩めた。

「あ、私もね、信頼できる上司の下に就きたいって思うんだ。」

ニッコリとこちらを見て柔らかく笑んだジュディのポニーテールが嬉しそうに揺れている。
無言で頷いてみせたリヴァイに、内緒話でもする様に両手を口の端に置いて、ジュディは言う。

「それにね、知ってた?リヴァイが此処に来てから、希望兵団を変更した兵が増えたって。来期の調査兵団入団希望者は、グンと多いかもね?」


随分と俺は弱い人間だと、リヴァイは思った。
慕ってくれる人間がいれば死にもの狂いで生き様とする。
それを失えば、たちまち生への執着すら捨て去りそうになる。
だが、そんな自分に従属したいと思う者がいて
そうして俺はまた死にもの狂いになれる。


「なぁ、リヴァイ。来期にウチに来てくれそうな兵士はいたか?」

調査兵団の本部で、戻ったばかりのリヴァイにそう聞くエルヴィンに、フンッとリヴァいは笑った。

「ハナからそれが狙いだったのか?お前は」
「両方だな」

自分より遥かに背丈の高いその男の青色の瞳が満足気に細められるのを見て、心底敵わないと思うと同時に、リヴァイの中で絶対的な従属心が芽生えるのだった。

1年たったら、どんな風にアイツ等を迎えてやろうか……。
その頃には俺は、もっと強くなれてるだろうか……。
/―END―
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