浴室で、モコモコとボディタオルに石鹸を泡立たせながらマホはフゥ……と溜息を吐いた。

帰って来てくれた……

嬉しく思えば思うほどに、胸がズキリと傷む。

“どういう事だ……これは”

そう言ったのは最初の一度きりで、それ以降、リヴァイがマホを責める様な事は一度も無かった。
それどころか、他の男の痕跡が残るシーツを綺麗に洗い、何も無かったかの様にまた次の壁外調査までの日々を共に過ごしてくれる。
こんな事を繰り返してもう1年。
“待たないから”
と言い続け、他人の腕で違和感に抱かれながら、心の奥ではずっと待ち続けてる。
心も身体も全てが彼のモノだと、全身が震える様に訴えてくる事が幸せだと思うのは、心が歪んでいるからだと、それはマホも分かっていた。
けれども、その病んだ呪縛からどうすれば解放されるのか、それが、分からないのだ。

泡まみれのボディタオルで丁寧に全身を擦りながら、マホはぼんやりと過去の事を思い出していた。

それは、リヴァイと出逢うよりも更に前で……


シガンシナのごくごく平凡な家の一人娘としてマホは産まれた。
一人っ子ではあったが、特に過保護にされる事も厳しくされる事も無く、不自由も不満も無い生活がマホは幸せだった。
二十歳を越える頃には、両親に「そろそろ嫁の貰い手を」とそれとなく打診される様にはなったが、口煩く言われる程でもなく、のんびりと過ごしていた。
そんな日々が崩壊したのは突然だった。
母に頼まれて、父親の好きな酒を酒屋に買いに行った帰り道、光と轟音に地面が揺れ、その衝撃でマホは地面にドスンと尻もちをついた。
何が起こったのか、と考える間もなく、再び轟音が鳴り響き、壁の方から飛んできた破片が近くの家々にぶつかり、あちこちから悲鳴が沸き上がった。

「か、壁が壊された!!」
「巨人が……巨人が街に入って来る!!!」

そう叫ぶ声が耳に届き、マホはそこでようやく今の状況を理解した。
割らずに守った酒瓶を抱えて急いで立ち上がり、逃げ惑う人々を掻き分けながら自宅へと急いだ。
その時のマホの頭にあったのは、家に居る母親と一緒に逃げようという事で、仕事で出ている父親はきっとすぐに合流出来ると、そう、思い込んでいた。
それは当たり前の様に訪れる事だと思って、自宅に通じる角を曲がった瞬間、マホは目の前の光景に瞳を見開いて足を止めた。
そこにあったはずの自宅が、砂埃に覆われてぺしゃんこに潰れていた。

「お……かあ、さん?」

震えた声でそう告げると「う……」と微かなうめき声が、瓦礫の中から聞こえた。
その小さな声を頼りに駆け寄ってみれば、瓦礫の下敷きになっている母親が埃と傷でドロドロになった顏で力なく瞼を閉じて震えていた。

「マホ……?」
「お母さん、待ってて、今助けるから!!」

そう言って、母親の上に覆い被さっている瓦礫を退けようとするも、マホの力ではビクともしなかった。

「お母さん、お母さん、絶対大丈夫だから……」

半分は自分を励ます為に叫んだ声は、届いているのかいないのか、瞼を閉じたままで母親はもう何も言葉を発しなかった。それでも、必死で瓦礫を持ち上げようとするマホの背後に走り寄ってくる足音が聞こえたかと思うと、肩をガシッと掴まれた。

「マホ。大丈夫か!?」

仕事場から走って帰ってきたのだろう、息を切らした父親が血走った瞳でマホを見下ろしていた。

「お父さん、あの、家が……お母さんが」

父親は崩れた家と、瓦礫の下敷きになっている母親の姿に、悔しげに眉を寄せて、決意を固めた様に大きく頷いた。

「大丈夫だ。マホ。お母さんはお父さんが助ける。だからお前は先に逃げなさい」
「何で?私も一緒に……」
「マホ!分かってるだろ?巨人が街に入って来てる。モタモタしてる暇は無いんだ。すぐに追い付くから、お前は先に逃げてお父さん達が来るのを待ってなさい」

普段、怒る事の無い父親がその日ばかりは、厳しい口調でハッキリとそう言ってくるのが、マホには酷く恐ろしかった。
それでも、1人で先に逃げるのは嫌で、何とか父親を説得しようとした時、パシュンッとワイヤーを巻き取る音と共に1人の男がマホと父親の前にやってきた。
マホも顔馴染みの、父親の呑み友達である、駐屯兵団の男だった。
崩れた家と、瓦礫の下敷きになっている母親の姿に、キュッと下唇を噛んで、男は父親を見つめた。父親は男に告げる。

「頼む。マホを船まで連れて行ってくれ……」
「……ああ」

言って頷いた男の瞳は、先程大きく頷いた父親の瞳を同じ色をしていた。

「待って、私もお父さんとお母さんと……」

マホがモゴモゴとそう言ってる途中で、男はマホを抱え上げて、再び立体機動のアンカーを射出し、その場を離れて行った。
男の抱えられながら、マホは遠ざかって行く自宅を眺めていた。家のすぐ近くに巨人がノシノシと歩いているのが、遠ざかれば遠ざかる程分かって来て、それでもマホは父親の言葉を信じようと無理矢理自分に言い聞かせていた。

“お父さん達が来るのを待ってなさい”

人がギュウギュウに押し込まれた船に、無理矢理にマホを乗せると、男は「もう大丈夫だからここで待ってるんだ」と告げて、忙しそうにまた走って行った。
その後からも、避難する人達が次々と船に乗って来るが、何時まで経っても両親はやって来なかった。

「もうこの船は満員だ。出すぞ!!」

兵士の男の声に、マホは慌てて人群れの中を立ち上がった。

「待って、お父さんとお母さんが……」

周囲のざわめき、子どもの泣き声、それらに掻き消されたのか、それとも元々聞く気は無いのか、兵士はマホの方を見向きもせず、船を出航させた。


その後、ウォールローゼで多数の避難民と共に、食べ物の配給の列に並んでいたマホの元へ、父親の友人だったあの男がやってきた。
両親の事については何も男は言わず、マホも何も男に聞かなかった。
独身で家族も居なかった男は、独りになったマホを連れ、カラネス区内に家を建てた。
もの静かな男は滅多に喋らず、マホも滅多に男と話さず、それでも1つ屋根の下、2人は暮らしていた。
それから1年が経った頃、男が珍しくマホを呼び、いつになく真面目な顔付きで言った。

「領土奪還作戦に俺は参加する」

それは、王政が提案した人口の2割を費やして、放棄したウォールマリアを奪還するという大きな作戦だった。

「私も行く」

というマホに、男は首を横に振った。

「君は、この家に残って待ってるんだ」

そう言って、男はマホを家に残して出て行った。

マホと男の関係は、同居人であり、それ以上でも以下でも無かった。
そこに男女の甘い関係など無かったし、親子の様な信頼があったわけでもない。
それでも、独りになったマホの手を取って共に暮らしていた男だ。
居なくなっていい存在では無かった。

“待ってる”

という言葉を信じて、マホは広く感じる様になった家で、ずっと待っていた。
元々食が細い方ではあったが、その頃からは少しの食事だけで済ます様になり、捨てる事もせずに置いていた父親の好きだった酒を毎日呑むようになった。

それから数ヶ月、1人の駐屯兵団の兵士が家を訪ねてきた。
不思議そうにするマホに一枚の手紙を渡して、兵士は言う。

「先の領土奪還作戦で―……」

それは、余りにも突然すぎる男の死の報告だった。
渡されたのは、マホ当てに男が書いた最初で最後の手紙だった。
そこに書かれていたのは、帰って来れずに申し訳ない、という事と、男が恋した女性の話だった。その恋した女性は既に結婚しており、その夫は自分の友人で、叶わぬ恋だと諦めながら、ずっと過ごしていたのだと。その夫婦には1人娘がおり、とても幸せそうな家族を見る事がいつしか自分の幸せになっていたと。その夫婦が不幸にも命を落とし、残された娘を何としても救いたいと思っていたと。そして最後に、家の居間の床の下に、もしもの時を考えて閉まっているモノがあると、そう綴られていた。
手紙に示された位置の床を叩けば、その場所だけ床が抜ける様になっており、そこには袋にギッシリと詰まった金貨が入っていた。
それと手紙を抱き締めて、また独りになったのだと痛感して静かに涙を流すマホに、兵士は同情でもしたのか、その夜、その家に留まりマホを抱いた。
それからも、たまにひょっこりと顏を出しては、兵士はマホを抱き、マホはそれを受け入れた。
そこにあったのは、独りになった哀れな娘とそれを同情する兵士の姿で、けれどもそれは、少なからずマホを生かしてくれる灯になっていた。

「勤めに出ないか」

兵士の男が唐突にマホにそう告げたのは、男の死から3ケ月が過ぎた頃だった。
外にも殆ど出ず食事もまともに取らず酒を毎日呑んで過ごすマホの生活を心配しての事だろう。男が残した金貨も、まだ充分に残っているとはいっても一生が保障される程では無い。迷う素振りのマホに、兵士の男は少し躊躇った後、重たげに口を開いた。

「俺の妻がもうすぐ出産を控えていて、勤めていたパン屋を辞める事になった。店主が代わりの働き手を探してる」
「……結婚、してたの」

思わずポロリ、とマホが言った言葉に、兵士の男は気まずそうに視線を反らした。
別に、愛の言葉を囁かれたわけでもないし、同情から始まった関係だったのはマホも理解していた。
それでも裏切られた気分になるのは、何故なのだろうか。
“待ってろ”と言って、そのまま戻って来なかった、両親や男の姿がグルグルと頭を駆け巡る。
あの男も兵士の男も、マホが憎くてそうしたわけじゃない。
救おうとしてくれたのだという事は分かっていた。
けれどもそこに、愛は無いのだ。
両親と引き離されてからずっと、独りだったのだ。
虚無感と脱力感は一周回って逆にマホを吹っ切れさせた。
兵士の男の提案に頷き、マホは勤めに出る事を決めた。
兵士の男は、その夜にマホを抱いたきり、もう家にはやって来なかった。
それからマホは昼間はパン屋で働き、夜には酒場を訪れて酒を胃に流し込み、寄ってくる男に体を許す日々を送る様になった。
後腐れもなく一夜限りの関係が殆どで、たまに妙にマホを気に入り、その後も何度か体を重ねる男はいたが、それも長くは続かなかった。

そんな日々の中で、リヴァイと出逢ったのだ。
思わずマホから声をかけてしまったのは、服の上からでも分かる逞しい肉体に惹かれたのもあるし、リヴァイの眼がひどく絶望的に見えた所為でもあった。
マホがリヴァイに感じたモノと同じモノをリヴァイもマホに感じたのだろう。
お互いがお互いの境遇を口にはせずともぶつける様に、体を重ねた。
素肌に生々しく残る傷跡とベルトの痕に、リヴァイが兵士であるという事を知り、自分を救おうとしてくれた2人の兵士が重なった。

多分きっとまた、独りを痛感する……。

そう思いながらも、何度もリヴァイを受け入れ、そしてその度に心が満たされていく事に気付いた。

それでも“待たない”と言わなければ、マホは“待てない”のだ。
他の男に抱かれ、その腕の中でリヴァイの存在を強く感じる事が、独りじゃない証だった。

全身に湯をかけて泡を流しながら、マホはその清潔感溢れる香りを思い切り吸い込んだ。

リセットはいつもこの泡の香りから始まる……。


「おい、何時まで入ってやがる」

そう言ってリヴァイが欲室の扉を開ければ、マホはバスタブにたっぷりと張った湯に体を沈めて、リヴァイの方に顏を向けていた。

「ねぇ、リヴァイも、一緒に入ろう?」
「あ?何で俺も一緒に……」
「ね、入ろう?」

食い下がるマホに、チッと舌打ちしてリヴァイは脱衣所に衣服を脱ぎ捨てた。

兵団本部で風呂に入ってはいたが、一応綺麗に体を洗ってから、リヴァイはバスタブに体を沈めた。
元々が小さなバスタブは2人が入れば窮屈なぐらいで、たっぷりと入っていた湯も浴室の床に滝の様に溢れ出た。
マホはそんな事は気にもせず、リヴァイの肩に顏を寄せて、甘える様にスリスリと頬を擦り付けた。
そんなマホに眉を寄せながらも、リヴァイは優しく彼女の頭を抱き寄せた。

「リヴァイは……本当にちゃんと、帰ってくるんだね。“待ってろ”とも言わないのに……」
「“待たない”って言ったのはお前だろぅが。まぁ実際、確実に帰って来れる保障も無いからな」
「……あのね、本当は“待ってる”って言いたい。きっとリヴァイなら大丈夫だって思うんだ。でもね、私……でも……」

そこで、マホはグッと言葉を詰まらせた。
これまでの事、自分がこうなってしまった事、それを全てリヴァイに話せたら、きっと変わる事が出来るのだろう。
それなのに、いざ口にしようとすれば、胸の奥が締め付けられる様に震えて、視界がぼんやりと滲むのだ。
チラリ、とリヴァイはマホの表情を見遣ると、彼女の頭を抱き寄せていた手をソッと頬へと移動して、言葉が出ずに震える小さな唇にソッと口付けた。

「黙ってろ」
「リヴァイ……でも、私は……」
「笑って話せる様になったら聞いてやる。だから、そうなるまでお前は今のままでいい」

そう言って、リヴァイは今度は深くマホに口付けた。
甘く激しく、角度を変えては喰らい付いてくるキスに、パシャッと湯船の水が跳ねた。
僅かに残る石鹸の残り香と、抱き締めてくる強い腕、浴室内に響くリップ音が、マホの心を満たしていく。

揺れるバスタブの中、ずっと、ずっと、溺れてる……。
/―END―
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