触れ合う肌に纏わりつく汗の臭い、吐息に混じるアルコールが鼻をツンと刺す。
全部が全部違和感だらけで、それが私を昂らせる。
違和感の先に浮かぶ彼の姿に、愛おしさが溢れる……。
私の身体も心も、彼のモノなのだ−…


壁外調査から帰還し、報告書類を手早く片付けたリヴァイは、急ぎ足で兵団本部を後にした。
馬車に乗り込み、背凭れに体を預け瞳を閉じるその表情は、晴れやかとは言い難かった。
壁外調査の余韻と体が覚える疲労感、そこにこれから自分に待ち受けているであろう光景が重く圧し掛かってくるが、それでもリヴァイは真っ直ぐにその場所を目指す。

カラネス区の中心部。
同じ様な石造りの四角い家々が並ぶ路地を進んでいてリヴァイは、迷う事も無く一軒の家の前で立ち止まった。
窓から見える室内は薄暗い。
時刻は真昼時。建ち並ぶ他の家からは、美味しそうな匂いや、笑い声がチラホラと聞こえているのに、リヴァイの立っている家はまるでそこだけ取り残された様にヒッソリとしている。ゴソリ、とポケットを探り、黒い小さな鍵を取り出して、静寂を溜め込んでいるドアの鍵穴にスッと挿し込んだ。カチャリ、と鳴った音はどこか嬉しそうにも聞こえた。
鉄製の冷たいノブに手を掛けてドアを開けると、室内はやはりシィンと静まり返っていたが、それを気にするでもなくリヴァイは中へ侵入し、すぐに灯を点けた。
部屋の奥にある申し訳程度の小さな台所は綺麗に片付いているものの、中央のテーブルの上は空いた酒瓶が2本、ちんみりと残った燻製肉の欠片やパンが転がっているバスケット、2つ置かれているグラスの1つには中途半端に酒が入ったままだった。
眉間に皺を寄せてリヴァイは、グラスと酒瓶を台所の水場に運び、バスケットの中の残骸を捨ててテーブルの上を一掃すると、奥の部屋へと続く扉を少し荒っぽく開いた。
広いとは言い難い部屋の殆どを占拠しているベッドは、乱れたシーツが今にも外れそうになっていて、そこには一糸纏わぬ姿で薄い掛布団を抱きしめて乱れた髪でスヤスヤと寝息を立てる女性の姿があった。
シーツと髪の乱れが、この場所であっただろう行為の激しさを生々しく物語っている様で、リヴァイはチッと舌打ちをしながら、彼女の抱き締めている布団を乱暴に奪い取った。

「おいマホ。さっさと起きろ」

言って、白く透き通る様な肩を揺すれば、キュッと眉を寄せながらマホは薄らと瞼を開けた。
不機嫌そうに自分を見下ろしているリヴァイに、マホは色素の薄い茶色い瞳をパチパチと瞬かせた。

「リヴァイ……。帰ってきたの?」

のほほんとした声ではあったが、彼女が喜んでいる事はリヴァイには手に取る様に分かった。
今にも折れそうな細い腕がスルスルと伸びてきて、自分に触れて来ようとするのを、リヴァイはスッと体を引いて避けた。

「シーツを洗うからさっさとベッドから降りろ。そのまま風呂に行け」
「……はい」

素直にそう返し、マホは生まれたままの姿で、ペタペタと足音を慣らして浴室へと向かって行った。

「……クソが」

空になったベッドを睨み付けてそう呟くとリヴァイは、乱れたシーツと掛け布団、2個並んだ枕を抱えて洗い場へと向かった。
雲が殆ど出てない快晴で、陽も長い季節なら、昼から洗濯物を干してもその日にサッパリと乾いてくれる。
ズボンとシャツの裾をたくし上げ、泡が立ち上る大きなタライの中でゴシゴシと懸命にシーツを洗濯しながら、リヴァイはマホと出会った時を思い出していた。

随分と遠い昔な気もするが、振り返ってみればほんの1年前の事だった。

地下街に居た頃から共に闘ってきた仲間を失って2年、彼等と交わした約束を糧に前へと進み続け、気が付けば兵士長という役職を任される様になっていた。
元ゴロツキだろうが、訓練兵を経ていなかろうが、彼の並外れた強さを前にしてそこに意を唱える者など居なかった。寧ろ、彼を慕う人間がどんどんと増えていた。
そうなればなる程、自分の判断で失う命が増えて行く。
壁外調査は常に死と隣り合わせ、朝に言葉を交わした仲間がその日の午後に死骸となって転がっているなんて事は珍しくない。
けれど、自分の部下が目の前で喰われるというのは、何度経験しても慣れるはずがなかった。

例えばもし、違う判断を下していたら……
もっと早くに巨人の接近に気付き、対応出来たら……

今更だと分かっていても、後悔がリヴァイを責め立てる。

また、選択を間違えたのか……

思い切り叫びたい衝動、けれどもそんな事をしたところで何も変わらない。それにもう、そんな短格的な行動をしていい立場でも無かった。
心の中で己に必死で喝を入れながら気丈な態度を保ち続け、これ以上の被害が出ない様に尽くす。無駄死になど、させるわけにいかないのだ。
だからといってリヴァイの中にある葛藤が消えるわけでもなく、体は疲弊していても休む気にもなれず、その日、壁外調査から戻った夜に珍しく街へと繰り出していた。

別に運命的な出会いをしたとかそういうわけじゃない。
ましてや、一目惚れなどという情熱的なものでもない。
ただ、互いの心の隙間が上手く溶けあっただけだろう。

「お兄さん、いい身体してるね?」

フラフラと足を運んだ酒場で、見慣れない顏だったからかそう声を掛けてきたのがマホだった。
女を求めていたわけでも無く、そもそも1人でゆっくりと呑みたくてわざわざ馴染み無い酒場まで来たリヴァイにとっては、その声はただただ迷惑で、他人から“怖い”と称される目付きでその元を睨み付けようとしたが、その場馴れした様な口調からは想像も付かない程の幼い見た目を前にして、彼の眼差しから鋭さが和らいだ。

「……お前、まだガキじゃねぇのか」

会話をするつもりも無かったのに、思わずそう尋ねてみれば、彼女……マホは、酒の入ったグラスを片手にフン、と胸を張って見せた。

「失礼ね!こう見えてもうイイ大人なのよ」

そう返す声は確かに大人ではあるが、全体的に線の細い身体はまだ成長過程といった感じで、顔立ちもどことなくあどけない。

「……なら、何か患ってるのか」

皮肉でも何でも無く、リヴァイには成人した女性だとは思えない彼女の姿に、何か病的なモノが潜んでいるのだと感じたのだ。そして、その言葉にマホは口元は綻ばせたままで眉だけをピクリと歪めた。

「……何、お兄さんお医者様か何か?」
「そんな優秀な顔に見えるか?」

学が無くとも、地下街という過酷な場所で育っていたら、自然にそれぐらいの観察力は身に付く。何せ、マトモに病院に通える人間など地下街には殆どいなかったし、身体的な病は勿論、精神を患った者も沢山見てきた。今目の前に居るマホは、何か患っているのだとしたらおそらく後者だろう。
そう思えたのは、リヴァイ自身も精神的に苦しい立場に居たからかもしれない。

「見えないね。」

言って、肩を竦めて笑うマホに、何故か救われた気がした。

助かりたくて、助けた……。

そんなつもりも無かったのに、肩を並べて呑み交わし、共に店を出て、まるでそうする事が決まっていたかの様に一夜を共にした。

抱いてみれば、彼女がしっかりと成熟した大人である事はすぐに分かった。
慣れた仕草と反応は、男を知っている女性だった。


「私はマホ。お兄さんの名前は?」
「……リヴァイ」
「そう、リヴァイ。そのベルトの痕……兵士なのね」
「……医者じゃなくて残念か?」
「ううん。でも、兵士は苦手かも」
「なら、これっきりだな」


後腐れなくそれっきりの関係で終わらす事も出来たのに、そうしなかったのは、リヴァイ自身が救われたかったからかもしれない。
一週間もしないうちに再び酒場を訪れて、当たり前の様にそこに居たマホが、自分にとって必要な存在だと思えたのだ。

休みなど滅多に取れない日々ではあったが、時間があればマホに会いに行く様になっていた。最初の数回こそ酒場で会ってから宿屋に、という流れだったが、互いにそれを煩わしいと思っていたのか、一か月もする頃には直接マホの家を訪ねる形になっていた。
関係が親密になればなる程に分かってくるマホの生活習慣は、健康的とはとても言えないものだった。
食事は殆ど取らず、家に常備してあるのは酒ばかりだった。
大酒飲みという程は呑まないものの、食事の量が乏しすぎる所為で体は痩せ細り、それが病的に見える大きな原因だという事も分かった。
だからリヴァイは彼女の家を訪れる時は食べ物を持って行くのが日課となり、とりあえず、リヴァイと一緒に居る時は少しずつではあるがマホも食事を摂る様にはなっていった。

「壁外調査……」
「ああ。しばらくは此処には来れなくなるがお前……ちゃんと飯は食えよ」

リヴァイからしたら、普通の報告のつもりだった。
会う日を決めているわけでもないとはいっても、週に1.2度は会う関係となれば、伝えておくのが筋だろう。
だが、その時のマホの反応はリヴァイの思っていたものとは随分と違っていた。

「それって……死ぬかもしれないって事だよね」
「……あ?」
「だって、死ぬでしょ」
「おい、死ぬ死ぬ言うな。まぁ、可能性はあるが……」
「私、待つ女じゃないよ?」
「あ?」
「死ぬかもしれない人の事、待ってたりしないから」
「…………なら、俺が戻って来たら、そこからまた始めりゃいい」

“待っていろ”とは、言えなかった。
確実に生きて帰れる保障なんてどこにもないのだ。
ただただ己の胸に“必ず生きて帰る”と誓いを立てる事しか、出来ないのだ。

そうして己に誓った通り“生きて帰った”リヴァイは、数週間振りに訪れたマホの家で、“待ってたりしない”の意味を知る事となった。

「おい、どういう事だこれ……」
「だから、待たないって言ったじゃない」

無造作に散らかった家の中、テーブルの上には2つのグラスと食べ散らかした残骸、寝室では乱れたベッドの上に裸で寝転がるマホが居た。
既に姿は無かったものの、明らかに感じる“男”の気配に、リヴァイは怒りというよりも、何故かマホに対する哀れみの様なものを覚えた。

「また、始めりゃいいって言ったのはリヴァイでしょ?」

マホの中にある深い闇に初めて触れた様な、そんな気がした。

「……とにかくシーツを洗うから退け。そのまま風呂で体を流して来い」

今、彼女から手を離してはいけないと、確かにそう思ったのだ。


あれからずっと、壁外調査から戻る度、同じ光景が待っていた。


物干し竿に真っ白いシーツを干してパンパンと皺を伸ばすと、リヴァイは真上に昇った太陽を見上げて眩しそうに瞳を細めた。
タライに残った泡が、ポスンポスンと名残惜しそうに消えていく。
再びしゃがみ込んで、タライを傾け中身を流せば、清潔感溢れる泡の匂いが全身を纏い、ムシャクシャした感情も洗い流されていく気がした。

また、始めりゃいい

リスタートは、いつもこの泡の香りで始まる。
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[mokuji]
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