本部から数十キロ離れた、一見廃墟にも見える古城。空いていた厩舎の1箇所に馬を繋いで、マホはその手に持っていた長細い筒を大切そうに両手で握り直した。
最近手入れされたばかりなのだろう、厩舎から古城の正門まで、綺麗に雑草が刈り取られている通路をサクサクと歩き進んで、進入を拒むかの様な立派な扉の前で足を止めて、マホはどっしりとした石造りの建物をおずおずと見上げた。その瞳は、建物内の物々しい雰囲気に怯えている様にも、逆に羨ましそうにも見えた。

特別作戦班、通称リヴァイ班。
巨人になれる新兵エレンと、それを守る為にリヴァイから直々に選ばれた精鋭中の精鋭。

その限られた人員のみが、現在この大きな古城の中で過ごしている。
団長や分隊長という立場の人間ならともかく、本来ならマホの様な一般兵がノコノコとやって来て良い場所では無いのだが、多忙であるハンジとその周りの人間も手が離せないとの事で、リヴァイへ渡す書類がマホに託された。
別にマホが適任という事でもなく、たまたまハンジ達の側を通りがかった暇そうな兵士、という位置付けなのだが、どちらにせよ拒否する事など出来ず、彼女にとっては最速で馬を走らせて此処までやって来た。
そして、この建物の威圧感に現在完全に気負いされていた。
まず、勝手に入って良いものなのか、そして、リヴァイに何と言って書類を渡せば良いのか。
もしも「誰だお前、見ない顏だな」なんて言われてしまったら、ショックでそのまま石造りの壁に埋もれてしまうかもしれない。
それほどまでにマホはリヴァイに心酔していて、そしてそんな不安を抱くほどに自己評価は低かった。
兵歴は4年。巨人の討伐数6体。討伐補佐数17体。
その数字は決して悪くは無いし、少し前まではマホも自分の実力に自信を持っていた。
リヴァイが率いる特別作戦班が構成されるという話を耳にした時は、ひょっとしたら自分の名前も挙がるのでは無いか……と秘かな期待を抱いた程だ。勿論そんな期待も虚しく、マホが配置されたのは、今までと変わりのない索敵班だった。
リヴァイ班の構成メンバーと自分との実力の差、その越えられない壁に、今まで少なからず持っていた自信も胸の奥でぽしゃん、と音を立てて消えて行った。
頭の中に浮かんできた“彼女”の姿が、更に胸を軋ませる。
例えば“彼女”と同期じゃなかったら、“彼女”が女じゃなかったら、もう少しマホにも幹部の目が届いたかもしれない。
その嫉妬にも近い感情を抱く度、マホはつくづく自分の事が嫌になった。


「あれ、マホ?」

まるでマホの頭の中から飛び出してきたかの様に突然姿を見せた“彼女”に、慌てて取り落としそうになった筒をガシ、とマホは抱え直した。
突然、とはいっても、“彼女”が此処に居る事は何の不思議でもない。
この古城に留まる事を許可されている兵士の1人なのだから―…。

「ペトラ……」

ぎこちなく笑ってみせるマホとは対照的に、太陽の光を全て吸収した様な明るい笑顔で“彼女”、ペトラ・ラルは対応する。

「水汲みから戻って来たら扉の前でヌッと立ってるんだもん。ビックリした。用事があって来たんでしょ?早く入ったら良いのに」

言いながら、全くたじろぐ様子も無くペトラは、物々しい扉をすんなりと開き、マホにも入る様に促してくる。
先程までマホをたっぷりと威圧していた扉も、急に柔和な空気を醸し出してきた様で、促されるままに建物内へと足を踏み入れた。

カツカツと2人のブーツの足音が石造りの床に甲高く響く。
同期であり、同じ19歳であり、共に闘う兵士であり、女性同士だ。
こんな風に2人で並べば、積もる話もありそうなものだが、マホとペトラの間に会話らしい会話は殆ど無い。
同期といっても、ペトラは精鋭中の精鋭、リヴァイ班の一員だ。本人が何とも思ってなくとも、マホからしたら雲の上の存在の様なものなのだ。
さっきだって、名前を呼んでもらえた事に秘かにマホはびっくりしていたほどだ。
ペトラにとって自分の存在など、視界の端にいれた事があるかどうかぐらいのレベルだろうと思っていたし、きっとペトラ自身、同期の兵士達からそれとなく遠巻きにされているのも気付いているだろう。
別にペトラが嫌われているというわけでは無い。どちらかというと高嶺の花という表現がふさわしいだろう。見た目は華奢で可憐な女性でありながら、兵士としての実力は同期生の中ではトップクラス。まだ、オルオの様に自慢気に自分の討伐数などをベラベラと話すタイプだったならもう少し親近感も持てたのだろうが、兵士としての心得をしっかりと持っているだけに彼女と周りにはどんどんと距離が出来てくるのだ。
それでも当然、出来る兵士としての上からの信頼は厚く、『リヴァイ兵士長の一番近くにいる女性』と秘かに囁かれはじめてからは、同期のみならず、後輩、先輩兵士からも一目置かれてる存在になり、リヴァイ班や幹部クラスを除いて、進んで彼女と仲良くしようとする兵士は殆どいなくなった。
それでもペトラはペトラであり、その所為で塞ぎ込んだりもしないのだから、ますます誰も、彼女には敵わないと思うのだ。

自分がペトラの立場だったらどうだろうか……とマホは隣を颯爽と歩く彼女をチラリと横目で見遣った。
強い兵士であるが故に、人の輪から外れてしまう。
良くも悪くも噂の的にされてしまう。

ああでもそれでも、尊敬する上司の近くに居られるのなら幸せかもしれない……。

自信に溢れた様なペトラの表情に、チクリと胸が傷んだ。


「今丁度お茶の時間だから、皆食堂に揃ってるよ」

食堂の扉の前で、水の入ったバケツを持ち直しながらペトラはそう言って、マホの心の準備も待たずしてガチャ、と扉を開いた。

「おっせーぞペトラ!全く、そんなんじゃまだまだ俺の女房を気取るのは……」

即座に飛んできた声にキッとペトラは眉を吊り上げて、声の主を睨んだ。

「オルオ煩い。文句言うなら手伝いなさいよ」
「あ、ペトラさん!俺、手伝います!!」
「大丈夫だ。エレン。座ってろ。ペトラ、ご苦労様……と、あれ?」

スタスタとこちらに近付いてきたのは、マホ達の1期先輩になるエルドで、ペトラからバケツを受け取ろうと手を伸ばしたまま、マホの方を見てポカンとしている。
彼の反応を不思議に思ったのか、席を立ってこちらにグイと顏を向けてきたエルドの同期、グンタも「おお」と物珍しそうな声を上げた。
彼等の集まるテーブルの上座、このメンバーのボスであり、人類最強の男が、射抜く様な眼でジッとこちらを見据えていて、ゴクン、とマホは喉を鳴らした。
ツンツンとペトラが肘でマホの腕を突き、何か話せと促してくる。
彼女が手に持つ水の入ったバケツに顏を突っ込みたいぐらいの喉の渇きを感じながら、マホはスゥと大きく息を吸って、ペコリと頭を下げた。

「し……失礼します。ハンジ分隊長から頼まれた書類をお持ちしました」

余りの緊張で自分の名を名乗るのを忘れた事を、口を閉じた後で思い出し、今から付けたし様に名を告げるべきか、だがそれは余りに間抜けではないか……とバクバク鳴る心臓で考えていたら、マホが何か言うより先に、彼女に向かって低い声が飛んできた。

「マホ。こっちに持って来い」

バクバクと煩かった心臓が一瞬、ピタリと音を止めた。
自分の名を、名乗りもしてなかった自分の名を、まるで当たり前の様にすんなりと告げてくれた声は、紛れも無くリヴァイ兵士長その人のもので……。

「は、はい……」

冷静を装おうとしても、再びバクバクしだした心臓は先程よりもグンと勢いを増していて、立っている場所の感覚も上手く掴めないままに、一歩一歩、覚束ない足取りでリヴァイの方へと近付いて行く。
顏なんて見れるはずがなく、視線は足元に置いて、震える手で握り締めた筒をおずおずとリヴァイに向かって伸ばした。
全ての音が遮断された気がして、耳がキィィンと唸っている。
スッと受け取られた筒が、自分の手から滑る様に離れていくその感覚でさえも、間接的にリヴァイと繋がっていると思うと、どうしようもない緊張がやってくる。
それはマホにとっては長い長い時間、周りから見ればたった一瞬だったのだろう。
実際は数秒の間の後、リヴァイは決して自分の方を見ようとしないマホを、チラリと見てから、何でもない事の様に言う。

「わざわざご苦労だった。丁度茶の時間だ。マホ、お前も一服していけ」
「はい!!……は、はい?」

条件反射の様に大きく返事をして直後、遅れて理解した言葉の意味に思わずバッとマホは顏を上げた。
自分を見つめる灰色の瞳とカチリ、と目が合う。

「何だ?急ぎの用でもあるのか?」

狼狽えるマホに、そうと勘違いしたのか聞いて来るリヴァイに、プルプルと小さく首を振った。

「い、いえ……」
「なら兵長の言う通り少し休んでいくと良いよ。お茶の席に女性がいると華やかだしな」
「ちょっとグンタ。私も一応女性だけど?」

わざとらしく拗ねた声と共に、トンとペトラはカップの乗った盆をテーブルに置いた。
リヴァイが提案する前からそのつもりだったのか、カップは7つ用意されていて、どれもに、夕焼け色をした紅茶が注がれていた。
そのうちの1つを手に取って、自然な動きでペトラはそのカップをリヴァイの前に置く。

「はい。兵長。どうぞ」
「ああ。悪い」

言って、リヴァイはペトラに給された紅茶のカップを静かに上から掴んだ。それを確認してから残りの班員も各々カップを手にし、席に座り直す。

その一連の流れを目の当たりにして、リヴァイという男によって形成されているルールと、そこにはどうしたって入り込めないだろう疎外感に、マホはキュゥと奥歯を噛みしめた。
そんなマホの様子に思う事ぎあったのか、盆にまだ1つ、残っていたカップを取ったのは、班の中で一番下っ端でありながら一番重要である人物、気遣わしげにマホを見ていたエレンだった。
手にしたカップを自分の隣の席に置いて、遠慮がちに笑う。

「あの、マホさん。良かったらここ、どうぞ」

今日この古城に来てから初めて、マホを安心させてくれた言葉だった。

「ありがとう……、えっと、エレン」

きっと、マホが抱いた疎外感に気付いてそう声をかけてきたのだろう。
それはおそらく、彼自身もこの班の中でそう感じた事があったからだと、そんな気がしていた。

確か噂では、反抗期の塊みたいな子だって聞いたのに……。

現在マホの隣で、紅茶を啜っているエレンからはそんな雰囲気は微塵も感じられなかった。どちらかといえばその逆で、周囲をよく見て相手を気遣う事も出来る、良く出来た少年だ。

「何だ、エレン?年上が好みだったのか」
「なっ……何言ってるんですか!エルドさん!!」

その行動を早速からかうエルドに対して真っ赤な顔で反論するエレンの姿を、リヴァイ以外の皆が声を立てて笑い、その様子を見守るリヴァイも何処か満足気に紅茶を啜っている。
エレンをフォローする事も、一緒になって笑う事も出来ず、彼の隣で静かに座っていたマホの目に映ったリヴァイ班は、温かくて穏やかで、とても巨人殺しのスペシャリストの集団には見えなかった。

もしかしたらエレンは、この班の中で変わっていったのだろうか……。

皆の噂のエレンと今のエレンの間にある違和感の謎がスルスルと解けていく気がして、マホは小さく1人、頷いていた。


「御馳走様でした。長居してしまってすみません」

茶の時間が終わり皆が作業に入りだした頃合いを見計らって、マホもリヴァイにそう言って頭を下げた。

ようやく自分には不似合いなこの古城を後に出来るはずなのに、後ろ髪を引かれる思いがするのは何故だろうか……。

その答えは頭で考えるよりも早く、ドックン、と騒いだ胸が教えてくれた。
視線の先、今でも顏をちゃんと見るのがやっとなほどにマホには眩しい相手が、静かな灰色の瞳をジッとこちらに向けていた。
その手にはマホが書類を入れていた筒が握られていて、それがス……とマホの前に突き出される。

「……中に、ハンジに渡す書類が入ってる。頼まれてくれるな?」
「りょうかい、です……」

今から本部に帰るのだから、ハンジへの届けを任されるのはごくごく自然で当たり前の事なのだが、“リヴァイ”から直々に頼み事をされるという事に、震える程の喜びを感じずにはいられなかった。
筒を受け取ろうとする手が、無意識に震えている。それは人目に見ても明らかで、目の前のリヴァイの眉がピクンと歪む。

「……おい。お前、大丈夫か?」
「ひゃっい!!」

パッと掴まれた手首に、体を仰け反らせるレベルで驚いたマホから、上擦った声が漏れる。それにますますリヴァイの眉が訝しげに歪んだ。

「具合でも……」
「い、いいえ!!大丈夫です!!!し、失礼します!!!!」

顏から火が出る程の熱を感じながら、マホは叩き付ける様にそう言葉を吐いて、まだ震えの止まない手で、リヴァイから強引に筒をもぎ取ると、彼の方を見ないままに、バタバタと来た時とは大違いの賑やかしい音を立てて食堂を出て行った。
石造りの廊下に響く、カツンコツンという足音が聞こえなくなるまで、リヴァイは不安そうに食堂の扉を眺めていた。

「……アイツ、ちゃんと帰れるだろうな?」

それが要らぬ心配だったとリヴァイが知るのは、翌日、再び筒を手にしたマホが古城を訪れた時だった。
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