「……悪かったな」

レストランを出て、ポソリと兵長が呟くので何の事だろうか、と不思議に思って余り見ない様に心がけていたその綺麗な顔を見上げてみれば、今まで見た事ない様な複雑な表情をした兵長がいた。
こんな言い方はあれだけど、人間らしい顏をした兵長……という感じだ。

「へ……いちょう?」

プイ、と視線を道の端に向けて、小さな声で兵長は言った。

「本当は来たくなかったんだろ?」

その言葉に、胸が張り裂けそうに傷んだ。

もしかして、レストランで御馳走してくれたのも今日のお詫びのつもりだったのだろうか。
それなのに私は、嬉しそうな顔1つ出来ず、料理も殆ど食べずに……。
というかずっと、マトモに口も聞かずに、目も合わせずにいて、本当は兵長こそが私なんかと一緒に買出しなんて来たくなかっただろう。
だって私は、来たくなかったわけじゃなくて……。
この気持ちを、兵長に抱いてるしつこい恋慕を、気付かれたくなくて、自分で実感したくなくて、それだけで……。

「ち、違うんです……」
「違う?」

兵長がオウム返ししてきた事で、ハッとした。
違うって何だ……。何言おうとしてたんだろう私。

「す、すみません……」
「おい……」

兵長の呆れた様な声が耳に刺さる。
ずっと堪えていた気持ちが溢れてきて、目頭に熱が篭ったと思ったら、一気に視界がぼやけてきた。
こんな時に泣いたりしたら駄目、兵長がますます困るじゃないか……。
そう思うのに、引っ込みがつかなくなった涙がポロポロと頬を伝い出して、私は慌てて顔を覆った。

「ごめん、なさいっ……。すみません、ごめんなさ…………っ」

もし、兵長が1年前の事をしっかり覚えているなら、私が今もしつこく恋慕してる事も分かってしまっただろう。

「ごめん…………なさぃ……」
「落ち着け」

フワリと肩に乗ってきた手が暖かくて、落ち着くどころか余計に涙が溢れてきた。
手の平で覆った顔を上げられないままの私の耳に、兵長の穏やかな声が届く。

「少し移動するぞ。歩けるか」

返事の変わりに大きく首を縦に振れば、私の肩に手を添えたまま兵長はゆっくりと誘導してくれた。
移動……といっても本当に数歩で、道沿いに点々と設置されていた小さなベンチに私は座らされた。
肩に置かれていた手が離れたかと思うと、今度は手首を掴まれて、手の平に柔らかい布を乗せられた。
薄目を開けて確認してみれば、手の平に乗せられたのは淡い水色の綺麗に畳まれたハンカチだった。

「此処にいろ」

涙でぐしゃぐしゃの私にそう告げて、兵長は1人でスタスタとその場から離れて行った。
手の中にポツンと残った、淡い水色のハンカチをソッと目に当てれば、兵長をイメージさせる石鹸の香りがして、ズクンと胸が熱くなる。

私、最悪だ……。
きっと兵長は、泣いてる私にウンザリして1人で買出しの続きをしに行ったんだろう。
戻って来た兵長に合わす顔が無い。
いっそ、もうこのまま逃げてしまいたいとまで思ったけど、それだと更に兵長を困らせてしまう事になる。
書置きをして帰ろうか……いや、でも風で飛ばされたりするかもしれないし、それに、兵団の馬車で兵長と一緒に来たのにどうやって帰れるだろうか。その辺の馬車を掴まえようにも、手持ちのお金で運賃が足りるか自信が無い。
そんな事を考えている私の前を、何組ものカップルが楽しそうに通り過ぎて行く。そのカップル達から甘いチョコレートの香りがしてくるのは気のせいでもないだろう。
1年前に経験した傷みよりも更に強い傷みが胸を刺す。
ああ、それまでは毎年、今日という日は私にとってハッピーであったはずなのに。
これから毎年、今日を迎える度私は絶望を感じる様になるかもしれない。
よりによって何で……

「ねぇ君、1人?」

完全に悲劇のヒロインモードになっていたら、いきなり飛んできた声と共に、私の両隣にドカッと見知らぬ男が2人、座ってきた。

「えっ!?」

全くの赤の他人なのに距離感ゼロなその感じに呆気にとられて、逃げるタイミングを完全に失った私を男達はニマニマと笑いながら見つめてくる。

「泣いてたの?目赤いよ?」
「男にでもフラれた?」

如何にも遊び人な風貌でだらしなくシャツを着たその男のうちの1人の手が無遠慮に私の肩に回る。

「あ、あの、私……人を待ってて……」

男の手が肩に乗った事で、さっきまで僅かに残っていた兵長の手の感覚が消されていく。
振り払ってしまいたいのに、情けない事に私の体はこの状況に完全に怖気づいているらしい。

「そんなのいいじゃん。俺等と遊ぼうぜ」
「暇なんだよ俺等」

これが俗に言うナンパというものなのだろうか。
同期の女の子が「この間街に行ったらナンパされちゃってぇ」なんて、嬉しそうに話してるのを耳にした事があるけれど、こんなの不快以外の何でもない。

「や、止めて下さ―……」
「おい、何やってる」

勇気を出して拒絶の言葉を口にしたその時、突然低い冷たい声が飛んできて、ビクっと私は条件反射で姿勢を正した。
男達がニマニマ顏を止めて不信気に前方を見遣り、私も男達を真似る様に前方に視線を向けた。
不機嫌がモロに分かる顏でジッとこちらを見ている鋭い瞳は、それでも私の胸をドクドクと高鳴らせる。
そんな条件を満たす人なんて、この人以外にいるわけがない。

「あ?誰だよお前」
「彼氏か?オッサンじゃねーの?」

このクソナンパ男達は、私の兵長に何て口の利き方をしやがるんだろうか。
さっきまで不快感と恐怖心しかなかったけれど、フツフツと怒りが込み上げてきて、私はキッと男達を睨んだ。
何か文句を言ってやろう、と意気込んでみたのに、スタスタと目の前まで歩いてきた兵長がグイ、と私の腕を掴んで立ち上がらせるので、何だか怒りもそこでプツ、と途切れてしまった。
兵長は、私を守る様に自分の背後に導いて、そのスムーズな動きにポカンとしている男達をギロリと睨み付けた。
そして、さっきよりももっと、低く冷たい声で、男達に言い放った。

「コイツは俺のだ」

兵長は大人だ。
こういう時にどういう対処が最適か、すぐに判断出来て、だからスラリとそんな言葉が出たんだろう。
案の定、さっきまで威勢のよかった男達も、兵長の凄味に気負いされて、というか殺気にやられたのか、慌てた感じで走り去って行った。
これは確かに一件落着……かもしれない、けれど……私の心臓と脳みそが現在進行形で大変な感じになっている。
去って行く男達を見えなくなるまで睨み続けてから、兵長はチッと舌打ちして背後に置いた私に振り返ってきた。

「ったく、何やってんだよお前は……て、おい?」

お説教モードの兵長の声が途端に焦った口調に変わる。

「大丈夫かお前、顏が真っ赤だぞ。熱があるのか」
「ち、違います違います!!!すみません、大丈夫です!!!!!」

心臓の方は全く大丈夫じゃなさそうだけど、兵長の手が私の額に触れようとしてくるので、慌てて私はそう言い放って、ブンブンと両手を振った。
これ以上兵長に近付かれてしまったら、本当に気絶とかしてしまうかもしれない。
一歩、後退りしてスゥと大きく息を吸い込んで、ペコリと頭を下げた。

「あの、有難うございます」
「……ああ。というかお前、あんなヒョロイ男2人ぐらい簡単に倒せるだろぅが。何呑気に肩なんて抱かれてやがる」
「すみません……」

確かにそうだ。毎日鍛えているんだから、何も怖気づく事なんて無かったのに、何であんなに怖いと思ってしまったんだろうか。情けない。
兵長もあんな情けない部下の姿にさぞかしガッカリした事だろう。
叱責されても仕方ないと思ったけれど、次の兵長の言葉は私を責めるものでは無かった。

「いや……。よく考えたらお前は泣いてたからな。弱ってる時に1人にさせた俺が悪い」

優しい人だから……。
ペトラに言われなくても、知ってたよ。
部下思いで、優しくて……だから、好きなんだ。
もっと訓練に励んで、立派な兵士になるから、心の片隅で貴方を想ってしまう事だけは許して下さい……。

「買出し……終わりましたか?」

一生懸命に作った“部下の顏”で、そう聞いたら、「……ああ」とどこか歯切れの悪い返答が返ってきた。
思ってたものが手に入らなかったのだろうか。というかよく考えたら兵長は手に荷物を持ってもいない。
不思議に思って見ていると、兵長は落ち着きなく辺りをキョロキョロしてから、ス……とジャケットの中に手を突っ込んだ。そして、まるで魔法みたいにフワリと優しく甘い香りを放つ黄色い花束を出してきた。

「え?は、花???」
「フリージアだ。2月の誕生花らしい」
「あ、そうなんですか……?」

まさか花を買ってたなんて思いもしなくて、その黄色い花弁を見つめたまましばし私はポカンとしていた。
しかし何で花なんだろう。兵団本部に花を飾ってる場所なんてないはずだけど……まさか、兵長の部屋に飾るのだろうか?
すると、兵長は花束を持った手をグイと私に向けて付き出してきた。

「…………?」
「何ボーッとしてやがる。受け取れ」
「あ、え……と、私が持ってたら良いですか?」
「お前に買ったんだ、鈍感が」

…………。
……?
兵長、今、何て言った??

プスンと回線が途切れた私の脳に追い打ちをかけるみたいに、再び兵長の声が直に届く。

「お前の誕生日だろうが。今日。」

人ってパニックになればなるほど、どこか冷静な部分が顏を出してくるらしい。私の思考は完全にショートしてるのに、目だけはしっかりと鮮やかな黄色い花を捉えていて、それが19本ある事まで確認していた。

「は……あ、え……買出し……は……」
「掃除用品だけ買いにきたわけじゃねぇと、言っただろうが」

確かに言った。言ったけれど、それは買出しの備品の話じゃないのか。

目の前に甘く優しい香りを放つ19本のフリージア。
真剣な眼差しでジッと私を見つめてくる兵長。
部下思いの優しい、兵長。

「あ、の……こんな事、困ります」
「あ?」

ピシリと兵長の眉間に皺が寄って、ビクツいてしまうけれど、これは言っておかないと、またこんな事されてしまっては、心臓が幾つあっても足りない。

「兵長、1年前の事、覚えてますか……?」
「……物覚えは良い方だが」
「だ、だったら、こんな事、しないで下さい。兵長が部下思いの優しい人なのは知ってますけど、こんな事されたら……もっと、もっと兵長の事、好きになってしまいます」

きっとペトラとかなら、同じ事を兵長にされたとしても「有難うございます」って嬉しそうに笑うんだろう。兵長を尊敬している彼女の心に邪まな思いなどないから。
だけど、私は違う。
失恋しても兵長の事が好きで、だからせめてこれ以上好きにならない様に距離を置いて、考えてしまわない様に訓練に励んで……。
どうしたってやっぱり兵長が大好きで……。

せっかく止まった涙がまた溢れてきそうで、慌ててバッと下を向いた。
甘く優しい香りが、フワフワと鼻孔を擽る。
ウフフアハハと笑うカップルの声が耳を通り抜けてく。

そんな私の肩に、また兵長の暖かい手が乗ったかと思うと、それを拒絶する隙も無くグイッと兵長の胸に体を押し付けられた。

「へいちょ……」
「好きでいい」
「何言って……」
「違うな。そうじゃない。好きでいてくれ」

…………
……?
また、兵長の発言が上手く脳に入って来ない。

スキ デ イテクレ

それはつまり、どういう事なのか。
プスプスと途切れていた回線を何とか繋ぎ合わせて、その意味を理解しようとしていた私の体をギュゥと兵長が包んできた。

「へへへへへいちょ……」
「1年前、新兵のお前があんな事を言ってきた時は、色恋にうつつを抜かすなと確かに思った。当然だろう。新兵のお前には兵士として学ぶ事が沢山あった。けど、俺の言葉にショックを受けていたお前を見て、何も感じなかったわけじゃない」
「え……」
「キツイ言い方をした事も謝ろうとずっと思ってた。だが、お前はその日以降、俺を避け続けて、殆ど口も聞いてくれなくなったからな。気になって仕方なかった。」

この1年間、兵長がそんな事を思っていたなんて、どうして想像が出来るだろうか。

「お前が壁外で功績を上げる度、嬉しかった。あの時の俺の言葉で、恋愛という意識を捨て去って強くなってるのだと。だが、それと同時に後悔もした。俺自身が拒絶した所為で、もうお前の中には俺の存在なんて微塵も残ってないのかと。未練がましくお前の事を調べて、今日が誕生日だと知った時は愕然とした。俺は、お前の生まれた日に、酷い言葉をブツケてしまったのかと。嫌われてしまっても仕方ないと……」
「そ……んなわけ」
「だから俺は、今日に賭けたんだ。もし、まだお前が俺の事を少しでも想ってくれていたなら……1年越しの返事をしようと」

私の誕生日。
女性が男性に想いを告げる日。
1年前、絶望に押し潰されたその日が、たった今最高の記念日に変わる。

「俺もお前が好きだ」

甘い甘い香りが、胸の中いっぱいに広がった。
―END―
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