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新・忘却の英雄 01※18歳未満は閲覧しないでください。


 あの目は一体何なんだろう。
 馬みたいに優しい瞳。いつも壁や天井に現れる。黒くて大きくて、深く静かな眼差し。
 小さい時、死にそうになるといつもその目が現れるから、見守られているような気がして、少し嬉しかった。守護神か何かと思っていた時もあった。でも違う。あの目はただ見ているだけで何もしない。死ぬのか生きるのか、じっと観察しているだけ。ただ優しい眼差しで、死にそうな私を見つめているだけ。
 そしてまた現れた優しい瞳。死ぬことを期待しているのか、あるいは生きることを望んでいるのか。一体どちらなのだろう。



 白い髪が黒い髪を支配すること約四百年。白い髪の劣悪な支配の限界はすぐそこにまでやってきていた。この国、クウェージアでは王族貴族は全て白い髪で、黒い髪は市民の位すら与えられなかった。
黒い髪の反乱が頻発し、彼らは白い髪の国外追放を要求した。
元々白い髪は隣国スミジリアンの王家であり、四百年前の国王が双子であったことで起こった、王位継承戦争に敗れた王子が亡命してきたことから白い髪の支配が始まった。つまり長い歳月をかけて国が乗っ取られたことになる。元の国に帰ってほしいと黒い髪は主張した。
 頻発する黒い髪の反乱を抑えるため、白い髪は最も有能な黒い髪を宮廷に招くことを約束したが、結局は招かれた黒い髪のエメザレは宮廷で悪しきものとして扱われただけだった。
さらに白い髪の王子がエメザレを庇ったがために、王子へ悪影響を与えたと国王の逆鱗に触れ、結果としてはそれが原因で酷い拷問を受けた。
両脚と右目を失い、左目の視力もだいぶ落ちた。顔にはかつての面影などは微塵もない。左手はもう動かない。
エメザレは孤児であり、そして軍人でもあった。
この国クウェージアは貧困でいつも黒い髪の農奴は飢えていた。育てることのできない黒髪の子供を国がわずかな金で買い取って、女児は海外に売り払い、男児は死ぬまで戦い続ける軍人にした。クウェージアはそんな孤児たちを『愛国の息子達』と呼んだ。
 軍人としてエメザレは有能だった。そして、かつてのエメザレは綺麗だった。
十人が十人、誰が見ても、彼にどんなに否定的でも美男子であることだけは認めただろう。親しみの持てない顔。浮世離れした整いすぎた顔立ち。
黒い髪と黒い瞳、髪の毛は何もしなくても常に潤いを持っていて細い直毛だった。当時二十四歳だったが、肌は今生まれかたように艶やかだった。昔から華奢な体形で、それでも誰よりも強かった。
頭も良い。シクアス語もダルテス語もほぼ完璧に話すことができた。軍事教育所ガルデンで、歴代最高の成績を持っているのはエメザレだった。最も有能な黒い髪に、最もふさわしかっただろう。
 だから黒い髪たちはエメザレに期待した。規格外に美しく賢く、軍人として過酷な環境で生き抜いてきた強さを期待した。
 だが、かつて英雄と呼ばれ、たくさんの人々の希望であったエメザレの名は一瞬にして失墜し、全ての失望を彼のせいにした。黒い髪たちは彼への興味を失い、まるで最初からいなかったかのように忘却した。


エメザレは王宮を追放されたのち、しばらくは軍事病院に入院していたが、不名誉除隊が決定したため一般病院に移転しなければならなくなった。あと半年の軍期を終え、二十五歳になれば、十六歳から二十四歳までの兵役に対する恩給が支給されるが、エメザレはまだ二十四歳半であり、不名誉除隊の場合は貰えない。つまり無一文の状態でガルデンを追放されることになる。
 そうなると一般的な設備の病院へ行くことはできない。無償で入れるのはエルド教系の教会病院しかなかった。
だが教会病院では適切な処置をしてもらえない。無償なので誰でも入院できるが環境は劣悪そのもので、死んでも数日気付かれないことすらある。臭いがひどくなり蛆が沸いてから、やっと死んでいることに気付いても貰えるのだ。
 ただ、横たわっている場所を与えてくれるだけという有様で、むしろ教会病院に入院した方が変な病気にかかりそうだった。食事は出るが自力で食べなくてはならないし、何をするにも介助はつかない。できなければゆっくりと衰弱して死ぬのを待つだけだ。
 つまり死ねということだ。
不名誉除隊が決まった時、エメザレは理解したが、不思議と恐怖や悲しみは抱かなかった。元々の予想通りだったので、むしろ少しおかしいくらいだった。
 エスラールを始めとする友人たちは、不当な扱いだとして激しく抗議したそうだが、無論そんなことでガルデンの決定事項が変わることはない。エメザレの冷静さとは反対に彼らは泣いて悔しがっていた。
 だが、そんな折、一通の手紙が届いた。差出人は慈恵愛養生病院。エメザレを無償で受け入れるとあった。そこにはエメザレに対する賞賛の言葉が添えてあったので、エメザレへの賛同者だと誰しもが考えた。
 ただ一人冷静なエメザレだけが不審に思った。白い王子がエメザレをかばったのは、日常的にエメザレが王子に媚び諂っていたからだと黒い髪たちは思い込んでいた。驚くほど世間はエメザレに対して冷酷だったのだ。そんな中に現れた救いの手が少し恐かったのかもしれない。
 しかしどの道、選択肢は残されていない。友人たちの後押しもあって有難く申し出を受けることにした。エメザレは友人たちと半年の別れを惜しみながらも、養成病院に送られることとなった。

 慈恵愛養生病院は寂しい場所に佇んでいた。首都、白い都市のすぐ真下、王の森と呼ばれる広い森林の中に、隠れるようにして、生い茂った森を背に鎮座している。おそらくは感染性のある病人や何らかの事情で隔離が必要な者のための病院なのだろうと思った。
 建物は白色だが、土埃のせいか少しくすんで灰色をしている。敷地は広く立派な庭もついており沢山の白い花が咲いて、建物内も清潔でところどころ装飾品も飾ってある。施設の中は常に甘い花の香りのするお香が焚かれていた。
 三階建てで全室が個室であり、一通りの物はそろっている。患者の数はわからないが、大半が女性だった。二十六人の灰色の髪の看護婦がいて丁寧に介助してくれる。
この国では珍しいことに車椅子も十台ほどあり、昼過ぎには車椅子を押して庭へ散歩に連れて行ってくれた。シルクの高級な白い入院着が支給され、二日に一度は入浴もさせてくれる。顔の傷を隠すためエメザレは髪を伸ばしていたが、その髪を丁寧に手入れまでしてくれるのだ。
教会病院に比べれば贅沢すぎる環境だ。
 そしてなにより驚いたのは白い髪の患者がいたことだ。この国では黒い髪と白い髪は病院であれ学校であれ教会すらわけられている。同じ建物内に住んでいることがかなり異常なことなのだ。
 礼拝堂がないのも考えられない。教会病院はもちろん一般病院も軍事病院も、小さくとも礼拝スペースがあるはずなのにここにはなかった。国旗を掲揚してもいない。なんだが別の文化の違う国にいるような気がした。
 週に一度は楽団が夕方くらいから庭にやってきて、夜通しの演奏会が催される。宮廷にいた時、聞いたことのある音楽ばかりだった。ボッティシーという音楽家の曲が多かった。ボッティシーは宮廷音楽家なので基本的には長調のはずなのだが、中途に短調を挟む構成は独特な世界観があると思う。華やかな音楽のはずが、何かを思い出せようとするように、途中で切ない旋律になるのだ。
 音楽に浸る時間など、これまでの人生には存在していなかった。そういった意味ではエメザレは今が一番優雅であった。
 この施設の支配人はどんな人物なのだろうと思った。支配人に是非お礼を述べたいと来て早々に申し出たのだが、彼は時々しか病院には訪れないとのことだった。
「お礼を言っても、あの方は喜ばないと思いますよ。お会いになればわかります」
そう言った看護婦の言葉が不思議だった。最初思っていた感染患者用の隔離施設でもなさそうだった。何のために作られた施設なのかがいまいちわからない。
 何よりも不可解なのは、明らかに違う人物なのに、看護婦の名前が全員レイテだったことだ。
生まれた町の名も、子供が二人いて母親と夫と住んでいることも、好きな食べ物さえ同じであり、全員三十歳だった。中にはどう見ても十代と思しきレイテもいる。そして彼女たちはこちらから話しかけない限り、事務的な会話以外はけして話をしないのだ。プライベートにお互い介入することを避けているような気がした。
 看護婦レイテの設定があり、なぜか全員でレイテを演じている。患者たちは散歩ですれ違う程度で、顔を合わせるということは滅多にない。合わせないように管理しているようだった。
 だからと言って何か実害があるわけでもなく、少し不気味なだけで、有難い場所であるのは確かだった。

 三週間ほどが過ぎた。エメザレは病室のベッドで身体を起こし日課の読書をしていたが、ドアが開く音がしたので顔を上げた。人物はかなり大柄のようだが外からの光で顔がよく見えない。そもそも視力がだいぶ落ちている。エスラールや愛国の息子達ではないだろう。卒隊までまだあと約半年はある。
 その人物は遠慮することなく、ずかずかと入ってくると、見下すようにしてエメザレの前に立った。近くまで来て、やっと顔がわかった。そして沈黙した。
 なんだか不思議だと思った。何も思わないのだ。二人は見つめあったまましばらく沈黙していた。
「意外だな。もっと怖がるかと思ったのに」
 拷問師ジヴェーダが先に口を開いた。エメザレを拷問した張本人。クウェージアで最も有名な拷問師であり、黒い髪と白い髪の混血児でありながらその邪悪すぎる性質ゆえに唯一宮廷で働くことが許された悪の象徴。
 軍人だった、かつてのエメザレより遥かに立派な体躯している。いつも何かを否定しているような顔で、世の中の不条理を笑っている。
 混血児は灰色の髪と呼ばれていたが、ジヴェーダの髪の色は純潔な白い髪と並ばなければ気が付かれないほど白かった。髪の潤いは相変わらずなく、ぱさぱさで、世の中のすべてを破滅させたいような、退廃的な雰囲気は沁みついて離れないようだった。灰色の瞳は常に人を見下して、冷徹な光を放っている。
 ほんの三カ月前、エメザレの身体をこんな風になるまで破壊した。残りの人生の全てを奪ったと言っても過言ではない。もう二度と歩くことはできないし、顔ももとに戻ることはない。あの時の痛み、毎日毎日鞭で打たれ殴られて屈辱された。痛みで眠ることもできず、寒さで凍えそうだった。
もっと恨みや怒り、もしくはジヴェーダの言う通り恐怖が湧き出してもいいはずだった。
「だってもう逃げられませんから」
と言ったがジヴェーダが聞き取れたかはわかない。拷問で声がかすれて、耳をそばだててくれないと聞き取れないほど、小さな声しか出せなくなった。ついでに言うなら耳も聞こえづらくなった。耳の中に水が入った時のように、薄い膜に音が遮られているようだった。
 声があまり出せないことに気付いたのか、ジヴェーダはエメザレのそばに来ると耳を傾けた。
ジヴェーダは宮廷にいる時、常に白い宮廷着を着ていたが、今はかなりラフな格好をしている。上はゆったりとした白いシャツだが、ズボンは黒だった。黒い色の服を着ていることは、少し意外だった。
「なんの御用ですか。私を殺しに来ましたか」
 エメザレは聞いた。例えそうだったとしてもむしろそれでいいような気さえした。だから怒りも恐怖もわかなかったのかもしれない。
「いいや」
 ジヴェーダはほくそ笑んだ。
「お前が俺にお礼を申し上げたいっていうから来たんだがね」
 エメザレは驚きで目を瞬いた。言葉が思いつかずにジヴェーダの次の言葉を待った。
「ここは俺が建てた俺の施設。言っておくが慈善事業じゃないからな」
「なら、なんのための」
「趣味の悪い言い回しをすれば、作品の保管だな」
「作品?」
「そう。お前もその一つ。俺が拷問して作り上げた異形の作品。その異形である部分に、そうだな……時には愛おしいという言葉すら間違いでないものを感じる」
 ジヴェーダは背を向け窓のほうを見た。窓からは森が見える。深く生い茂る木々。憩いというより不気味な森。仄暗くていつも霧がかっている。
「ここは言うなれば美術館さ。俺が鑑賞して楽しむための」
 そういう趣味嗜好はよくわからない。だが、自分のように助かる者もいるだろうから、いくら理由が悪趣味であっても悪いことではないと思った。事実、エメザレは教会病院の待遇を考えれば、ここではまるで夢のように丁寧な扱いを受けていた。
「失礼致します」
 ノックとともに看護婦が入ってきた。看護婦はカートを引いている。しかも貴族が使うような綺麗なカート。乗っていたものは果物を盛った皿と、グラスがいくつかと水と酒だった。
 それだけ置くと看護婦は一礼して去っていった。
「お前も飲むか」
 ジヴェーダはさっそくグラスに並々酒を注いだ。水では割らないらしい。さらにもう一つのグラスにも酒を注いだ。おそらく強い酒だろう。軍事病院では、というか普通、病院では酒は出ないので酒を見るのもかなり久しぶりだった。
「飲めよ。内臓は問題ないんだろ」
 ジヴェーダはグラスを半ば強引に手渡した。外はまだ少し明るい。一瞬どうしようかと迷いはしたが、まぁ確かに内蔵は元気なのでせっかくの機会に頂くのも悪くないと思った。
 この奇妙な再会を祝して、二人は静かな乾杯をしたのだった。
懐かしい味がした。香辛料の強い、南の隣国ラルグイムのラム酒と同じ味だった。愛国の息子達は十六歳になると、ラルグイムに遠征に行くことになる。それまでは軍事施設に閉じ込められて訓練漬けの日々を送るが、遠征で初めて外の世界に解き放たれる。
自由の国ラルグイムでは、みんな昼から酒を飲んでいた。浅黒い肌色で、性差の少ない小柄なシクアス種族は、男も女も念入りに化粧をしていて、きつい香水の匂いを振り撒きながら、男同士だろうが女同士だろうが、公共の面前で堂々と愛を語り合っていた。
それでも、エクアフ種族である愛国の息子達に、彼らなりに気を使い、遠征場所にたくさんの光輝く娼婦を招いて、褒美として充てがった。エメザレに充てがわれたのは、エメザレと同じくクウェージアの孤児で、ラルグイムに売られたエクアフ種族の女性だった。
むせ返るような香水の香りと、その時ついでくれたラム酒のことを思い出した。
「イウ王子は大丈夫でしたか?」
 特に語り合う話題もないもない二人は黙って酒を飲んでいたが、エメザレが口を開いた。
 ジヴェーダは来客用のソファに寝転がり、自室で寛いでいるような姿勢で行儀悪く飲んでいる。クッションを枕代わりにし、背が高いのでソファに対し半分足が飛び出ている格好だ。
 庭では先ほどからボッティシーの旋律が流れている。
「大丈夫ではないな。お前は本当にえらいことをしてくれた。今でもお前を英雄だって喚き散らしてるよ。誰の言うことも聞かない。だから今はお仕置き部屋に閉じ込められている。親子関係は史上最悪。全部お前のせい。ちなみに俺は王子の前に姿を現してはいけない邪悪なる存在だから、俺にどうにかしろとか言われても無理だな。以上」
 エメザレは自分をかばったばかりにひどい目に合っている不憫な白い王子のことを想った。どうして自分なんかをかばってくれたのだろう。一体どんな部分が彼の気持ちを動かしたのか。王子とはほとんど話していない。というより一度しかない。それもたった少しの時間だ。
 エメザレは宮廷でジヴェーダと同じく悪しきものとして扱われただけだったのだ。何をしていたのかと言えば、片付けと掃除をしながらジヴェーダに殴られ鞭で打たれていただけだ。憧れる要素があるとすれば屈しない姿勢だろうか。
「王子はあなたが私にしたことを、どこまで把握しているのですか」
「俺がお前を犯していたことは知らない。まだ十歳だから勘付いてもいない。だが、このままの状態が続けば、いずれ言うことにはなるだろうな。陛下の命が下れば、俺が言うことになるだろう」
 自分のことをもっと王子が知ったら彼は一体どう思うのだろう。きっと綺麗な部分しか彼には見えていない。隠された部分を知ったら、英雄なんてもう言わないだろう。
 エメザレはそんなことを思いながら、ジヴェーダと酒を飲んでいた。
 ボッティシーの旋律は切なかった。

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