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帝立オペレッタ03(死の穴)



 誰がいつから言い出したのか、その場所はサロンと呼ばれていた。しかし実際は談話室や社交場というよりただの広間で、華やかさやらは一切ない。つまり一階のど真ん中にある、地味な開けた空間をサロンとおしゃれに呼んでいるだけである。一応、多目的広場というのが正確な名称らしいが、エスラールはそう呼ばれているところを聞いたことがなかった。

 ちなみにサロンには椅子すらないので、比較的自由に使うことができる貨物入れ用の木箱を椅子や机の代わりに使っている。それでもゲームをしたり、ケンカ試合を勝手に開催したり、食堂から適当に食料を持ってきてみんなで食べたりと、なかなか快適な娯楽空間なのは間違いなく、しかもサロンの天井には大きなランタンが一つぶら下がっているのだが、ありがたいことに夜通し点きっぱなしになっている。暇な夜を潰すのには素晴らしすぎる場所であった。

 で、エスラールはそんなサロンの端っこからエメザレの姿を眺めていた。一緒に行くよと言ったものの、エメザレに一人で行くからついてくんな的なことを言われ、冷たくあしらわれたので、こうしてストーカー気味に遠くからエメザレを見ているのだった。

 どうなることかと心配したが、まだ時間が早いこともあり、サロンに集っていたのは一号隊の中でも穏やかな連中だった。エメザレが挨拶して微笑むと、彼らは少々戸惑いながらもぎこちなく、雑談の輪の中にエメザレを入れようと努力してくれた。

 その中にはあの若干憐れな存在のラリオもいて、持ってきたらしい本のページをしきりに指差し、エメザレに向かって何かを熱く語っていた。エメザレはふんふんと頷きながら、時々笑っている。その様子を見て、エスラールはほっと胸をなでおろした。

「友よーーー!!」

 と、そんな大声がどこからともなく近付いてきたかと思うと、背中に、がしっと何者かが抱きついていきた。振り向けば、そこには鼻水と涙を垂れ流してエスラールの上着に顔をくっつけているヴィゼルの姿があった。

「友よっ!!」

 エスラールはヴィゼルの鼻水に臆することなく、その愛らしい不細工な小熊のような顔のヴィゼルをひしと抱きしめ返した。適度にごつごつとした男っぽいヴィゼルの体躯は、エスラールの腕に丁度よい心地よさを与え、途端にヴィゼルが愛しくて仕方なくなった。

「エスラールよ、僕の愛しいエスラール。どうして僕を置いて出て行ってしまったんだい! 僕は寂しくて悲しくて、こうして泣かずにはいられないよ! ああエスラール、愛してるっ」
「俺も愛しているよ、ヴィゼル! 君以上に愛しい男はこの世に存在しない。君を置いて出て行かなくてはならない時がこようとは、俺だって思いもしなかったさ!」

 エスラールは鋼のように硬いヴィゼルの短髪を、まるで道端のタヌキでも愛でるかのように優しく撫で回しながら言った。

「ところで鼻は大丈夫だったかい? あの時どれだけ僕はエスラールに駆け寄って抱擁してやりたかったことか! 愛しい友の鼻が陥没したらどうしようかと、僕は気が気ではなかったよ」
「案ずるでない。俺の鼻はあれごとぎで陥没などしないのさ! あれだけの鼻血を噴出しながらもただの打撲で大事無かった」
「ところで」

 ヴィゼルはエスラールの胸から顔を上げ、上着のポケットからハンカチを取り出すと、鼻汁をかんで言った。

「エメザレとはうまくやっていけそう?」
「びみょー。なに考えてるのかよくわかんないし。冷たいのかと思うとちょっと優しかったり、気を使ってるようなそうでないような。でもなんとなくいい奴な気がする」
「そう? 僕はあんまりいい奴には思えないけどな。だってめっちゃ凄まじい噂の数じゃん。一つや二つならまだわかるけど、数えるのが大変なほど膨大なんだよ? そんなふうになるのには、やっぱり何かしらの理由やら実情やらがあると思うんだが」

 ヴィゼルは鼻汁をかみ終わったべしょべしょのハンカチで、今度は顔中に散らばった涙粒を拭きだした。

「俺はそういうの信じないよ。全部嘘なんじゃないかって思ってる。エメザレが嫌われるように誰かが意図的に噂を流してるんじゃないかって」
「誰かって誰さ」
「誰かは誰かだよ。悪い誰か」
「なんだそりゃ。エスラールは能天気だなぁ。何事もいいように捉えられるのは長所だろうけど、ひとを信じすぎるのもどうかと思うね。エメザレって大護院時代にシマ先輩を半殺しにしたらしいし。ほら、シマ先輩のあの顔、君も見たことあるだろう。あんなにしたのエメザレらしいよ」

 と言ってヴィゼルはそのカオス状態のハンカチを丁寧にたたむと、元あったポケットに何ごともなかったかのようにしまった。

「そういえばエメザレはシマ先輩と同じ大護院出身なんだっけ」
「そうだよ。シグリオスタ大護院だったと思う」

 大護院というのは愛国の息子たちが幼少を過ごす、学校に近い施設でクウェージアの各地に点々とある。エスラールとヴィゼルはカイドノッテ大護院というド田舎の大護院出身だったが、シグリオスタは都市部にあるクウェージアで最大級の大護院でとにかくでかいらしい。都市部とド田舎では色々違いはあるのかもしれないが、具体的な違いについては知らなかった。

「でもシマ先輩の顔って火傷の痕じゃないの? 俺、そう聞いたけど」

 エスラールはシマの顔を思い浮かべてみた。
 エメザレとは反対の意味で顔が目立つ。一度見れば忘れられない顔だった。二号隊にいる二歳上の先輩で、ただでさえ素行が悪く、恐れられているのだが、なによりその崩壊しかかった顔が見る者に慄然を与えるのだ。

 まず中央にあるべき鼻が左に大きくずれている。生まれつきではないように思う。鼻が折れたときに適切に手当てをしなかったのだろう。変形したまま固まってしまったように見えた。
 そして右の頬を中心に右半分がただれ、ケロイドに覆われていて、そこだけ皮膚の色が赤黒くなっている。その肉の色味の違いは、まるで違う生物がシマの顔に寄生しているかのような奇怪な印象をもたらしていた。ずっと火傷の跡だと思っていたのだが、言われてみれば皮膚が剥がれて抉れた跡にも見えなくはない。

「違うって。シマ先輩に強姦されかけたエメザレがブチギレてやったんだって」

 エスラールはシマと話したことはなかったが、見た目の印象から考えると有り得ない話でもなさそうだった。

「てか、強姦されかけてキレた奴が、なんで今は誰とでもやるんだよ? 変だろ、それ。それにその話が本当だったとしても、シマ先輩は自業自得で強姦する方が悪いんだから、エメザレだけを責めるのはおかしいだろ」
「まーそうかもしんないけどさ、でもエメザレは今回の殺人事件にも絶対なんかヤバい関わり方してると思うんだよね。エスラールも殺されないように気をつけろよ。僕は一番それが心配だよ。今度は鼻の打撲だけじゃ済まないよ」

 と言ってヴィゼルはエスラールの鼻を指差した。

「大丈夫だって。エメザレはそんなことする奴じゃないよ。たぶん」
「なんだよそれ。根拠は?」
「ない! けど、今日エメザレの目を見てそう思った。目が生きてたんだ。どこかを真っ直ぐに見ていて、自分なりの強い意思があって、綺麗だったんだ」
「あのさぁ、エスラール。それ、まさか恋じゃないよね?」

 若干引いた感じでヴィゼルは聞いてきた。顔の造形とハンカチの所作のわりに、こういう話題には潔癖なところがある。エスラールはヴィゼルのそんなところに萌えを感じるのだった。

「恋? いや……恋ではない気がする。確かに顔は綺麗だし見つめていたいと思うけど、それは猫が可愛いくて見ていたいと思うのと同じ気持ちだし、特にやりたいとかキスしたいとか思わないし」
「恋を肉欲だけで推し量るのは浅はかだよ、エスラール。むしろ本当に愛しちゃったらその気持ちは肉欲を凌駕するものさ。もしかして無意識に惚れてるのかもよ」
「偉そうに肉欲を語るな。俺達は童貞だぞ」
「……うむ。そうだった」

 そして二人はしばらく沈黙し、無言で生ぬるく憐憫を分かち合った。

「てゆーかエスラールよ、童貞はまだ無事なのだな!」
「安心しろ。俺の童貞はまだ無事だ!」
「では『童貞は異性に奉納しよう連盟』から脱退しない方針か!」
「そうとも! ヴィゼル。童貞は異性に奉納するのだ!」
「おお、最高の友よ!」

 手を取り見詰め合う二人の世界は瞬く間に燦然と輝ききらめき、強大な不可侵的オーラをそこかしこに解き放った。
 ちなみに『童貞は異性に奉納しよう連盟』にはエスラール、ヴィゼルに以下十三人の同志がおり、鉄壁の誓いを守り続けている。

「あ、バファリソンご一行だ」

 エスラールの背後に気付いたらしいヴィゼルがふと我に返った様子で呟いた。
 振り返ると、いつの間にやらサロンは賑わい出している。さっきまで中央付近にいたラリオ達は人だかりに追いやられたのか、遠くに移動していた。もちろんエメザレも一緒だ。目立たない位置にはいるのだが、それでも半数近くがエメザレの存在に気付いているようだ。
 そんなサロンの中へバファリソンとその他七名が、今まさに足を踏みいれようとしていた。

「ヤバいな。いかにもエメザレにちょっかい出しそうな奴らだ」

 バファリソンは喧嘩っ早い。粋がってる不良もどきの代表格だ。一号隊の内部はいくつかのグループになんとなくわかれているが、このバファリソンのグループだけはメンバーが固定されていて、他のグループに支配的だった。エスラールは最も注意しなければならない人物の一人にバファリソンを数えていた。バファリソンは常に自分の強さを誇示できる奴を探しているからだ。
 バファリソンを目で追っていると、早々にエメザレの姿を見つけたらしく、わき目も振らずにずんずんと近付いていく。

「俺、行ってくる!」
「ちょっと、エスラール!」

 後ろで叫ぶヴィゼルをとりあえず無視して、エスラールは飛び出していった。

「こんなところでなにやってんだよ淫売」

 だがバファリソン達はエスラールの到着を待つことなく、素早くエメザレを取り囲んでしまった。しかもその騒動に興味を持ったらしい野次馬どもが、バファリソン達をさらに囲むようにして集まってくる。この状況を待っていたのではないかと疑いたくなるほどあっという間に、エメザレとエスラールの間は二重の囲いに阻まれた。

「生意気にサロンでご歓談とはいいご身分だな。そうやって誰彼かまわず媚売ってるとこ見ると俺は虫唾が走るんだよ」

 バファリソンはさっそくとばかりにエメザレの胸倉を掴んだ。背が高く体格のいいバファリソンに比べ、エメザレは背が高くなくかなり華奢だ。いざとなればエメザレは古新武術で対抗できるだろうが、その図はあまりに穏やかでない。
 エスラールは焦ってどうにか野次馬をどかそうとするが、人だかりはどんどん騒動の中心に隙間なく集まっていく。

「別に媚を売ってるわけじゃない。友達を作ろうとしているだけだよ」
「友達だぁ? そんなもんお前に必要ないだろ。お前に必要なのは男なんじゃないのか」

 バファリソンは嘲るようにして笑んだ。

「僕にだって友達がほしいって気持ちはあるよ」

 エメザレがそう答えたところで、ついにエスラールからはエメザレの姿が見えなくなってしまった。中央突破を諦めたエスラールは仕方がないとばかりに腹を据えて床にへばりつくと、ほふく前進で野次馬の足の間をかいくぐり始めた。

「友達がほしい、か。ってことはお前、友達がいないのか。可哀想な奴だな」
「……そう。いないよ。僕に友達はいない。僕は嫌われ者だからね」

 エメザレの声の感じが変わったように聞こえた。おそらく怒っている。

「そりゃそうだ。どこの物好きがお前となんかお友達になりたがるんだよ。お前と仲良くしたがる奴はなぁ、ただお前とやりたいだけなんだ。でなきゃこんなクズと話したがるわけないだろう」
「じゃ、そのクズで淫売の僕に話しかけてきた君は僕とやりたいわけ?」

 ここまで辛辣な暴言を吐かれれば当然かもしれないが、エメザレの口調は攻撃的だった。

「なに言ってんだよ! バカか!」

 エスラールは野次馬の足元を進みながら怒鳴ったが、聞こえたのかどうかはよくわからない。とりあえず早くエメザレのところへ行かなければヤバそうである。彼は何度となく踏まれながらも、迅速なる芋虫のように這いまくった。

「言ってくれるじゃないか」

 バファリソンは下品な高笑いを響かせた。
 やっとエメザレのものと思われる足が見えてきたが、その足の周りを三人ががっちり取り囲んだ。どうやら羽交い絞めにする気らしい。エメザレの足が僅かに震えたのがわかった。

「お望みなら今ここで俺達が可愛がってやるよ」

 バファリソンの言葉は冗談に聞こえない。

「邪魔だ、どいてくれ! てか、なんで黙って見てんだよ。バファリソンを誰か止めろって!」

 しかしその言葉に賛同するものは現れなかった。エスラールはなんとかエメザレが見えるところまで這ってきたが、なんと今度は野次馬の足の間にケツが挟まって立ち上がれない。だが皮肉にもエメザレの状況だけははっきりと確認する事ができた。

 エメザレは三人に押さえ込まれ、自由が奪われている。エメザレは嫌そうな顔をしているが、暴れるような気配がない。しかしエメザレは抗えるはずだ。完全勝利とはいかなくとも、全力で戦えば逃げ出せるはずなのだ。それなのにエメザレは動かない。じっと感情をこらえて唇をかみ締めているだけだ。これでは好きにしてくれと言っているのと変わらない。

「エメザレ、なにやってんだよ! そんな奴とっとと殴れよ!」

 エスラールは声を張り上げた。しかしエメザレは動かない。

「なんだよ。お前、抵抗しねぇのかよ。今日エスラールをぶん投げたくせに、こういうことされるの本当に好きなんだな」

 その様子が可笑しかったらしいバファリソンは、野次馬に知らしめるように大声で言うと、エメザレの上着を乱暴にめくりあげた。上着のボタンがいくつか飛び散りエスラールの顔の横を掠める。

「……ぅ」

 エメザレは小さな悲鳴をあげた。注意して聞かなければわからないくらいの、かみ締めていた口の端から空気がもれてしまったような声だ。

「お前、なんなんだよ……」

 それと同時にバファリソンは手をとめた。しかしそれはエメザレの悲鳴のためではない。現れたエメザレの上半身には、いざ強姦せんとしていた奴すらドン引いてしまうほどの、凄まじい量の鬱血痕があった。どう控えめに解釈してもあれは夜の行為の痕である。そそられるとか色っぽいとか、そんな可愛いレベルではない。ただ言葉を失うほどに汚いのだ。

 あれに似た身体を前に一度見たことがある。大護院時代の話だ。
 エスラールが十歳の頃、大護院で黒死病が大流行した。クウェージアでは孤児一人当たりにかけられる治療費が決まっていて、治療費を使い切ってしまうと、あとは一銭たりとも支給されない。よって身体の弱いものは死んでしまうことになる。黒死病の大流行の時もそうだった。

 ついこの間まで元気に走り回っていた奴が、高熱にうなされ身体中に出血斑ができて、満足に手当てもされないまま一週間もしないうちに死んでいった。
出血班は、死に近付けば近付くほどどんどん黒ずんでいく。まるでカビが繁殖していくように身体中が病に侵されて皮膚が嫌な色になっていくのだ。仲間の死体は死んで間もないはずなのに、ずっと死んでいたみたいに全身が黒くなっていた。

 その時エスラールはこの黒い点々が彼らの命を奪ったのだと思った。あれは魂の穴なのだと思っていた。袋の穴から空気が抜けるみたいに、身体の黒い穴から魂が抜けていってしまったのだと。

 エメザレの身体もそうだ。あれは穴だ。あの痕は心の穴なんだ。あれを塞がなければ、空っぽになってエメザレは死んでしまう。

「帰る。どいて」

 凍りついたサロンにエメザレの声が響いた。先ほどまで羽交い絞めしていた三人は、もう誰もエメザレに触れていない。生ゴミに触ってしまったみたいに、一歩退いて唖然としている。バファリソンすら固まったままだ。

 そんな中をエメザレはなんでもないような顔で通り過ぎていく。野次馬もエメザレが歩き出した途端に慌てて道を開けた。誰も何も言わない。囁き合いもしない。
 エスラールの立場的には最悪すぎる結末だ。バファリソンに殺意さえ覚える。

「余計なことすんじゃねぇ! このアホ!!」

 やっとこ野次馬の足の間から脱出したエスラールは、仮にも先輩であることを無視してバファリソンの頭を追い越しざまに引っ叩き、エメザレの背を追った。
 二人が去った後もサロンはしばらく静寂に包まれていた。

◆◆◆

「ねぇ、大丈夫?」

 エスラールはエメザレの腕を掴んで言ったが、エメザレは答えずエスラールの手を振り払って歩き続け、サロンから見えないところまで来ると、急に走り出した。

「ちょ、どこ行くのさ」

 今日はひたすらエメザレを追いかけてばかりいるな、と思いながらもエスラールはエメザレの後に続いた。どこに行くのかと思いきや、着いた先は二〇二号室で、エメザレは早く部屋に戻りたかっただけらしい。

「ごめん。俺がついてたのに」

 二人きりになった部屋でエスラールが謝ると、エメザレはやっと振り向いた。

「謝る必要はないよ。僕が君についてくるなと言ったんだ。君はちっとも悪くない。僕の方こそ君の立場を悪くさせてしまった。一号隊と仲良くやっていくのはもう無理そうだね」
 
 エメザレは悲しそうに笑っている。
 エスラールはエメザレが急に部屋まで走ったのは、泣きたいからではないかと思ったのだが、そうではないようだ。取り乱しそうにも見えない。あんなことをされたのに笑っているのだ。逆に違和感があった。
「あのさ、どうして抵抗しなかったの? エメザレだったら頑張れば勝てたはずなのに」
「僕には無理だよ。抵抗できないんだ」
「なんで?」
「どうしても。もう僕は抵抗できないんだ。エスラールも僕の身体見たんでしょ。これで僕がどんな奴かわかっただろ」

 その口調はエスラールを諭すようだった。

「でもそんな痕なんかすぐ治るじゃん。二号隊でどんな生活してたのか知らないけどさ、一号隊で俺と一緒に暮らしてればきれいになるよ。清く正しい生活態度を心がけて二ヶ月もすれば、きっと悪口だって言われなくなるって! 大丈夫!」

 エスラールがそう言うと、エメザレはちょっと驚いた顔をして、しばらく考え込んでから、拳を口に添えて噴出すように笑った。今までの笑顔と何も変わらないのに、エスラールにはエメザレが初めて本当に笑ったように思えた。

「エスラールってさ、すんごいポジティブなんだね。それってすごいね」
「そうかな。ありがとう」

 褒められているのか微妙だったが、エスラールは一応お礼を言った。

「そういえばさっき、友達がいないって言ってたけど、俺はエメザレと友達になりたいよ?」

 エメザレはその言葉を聞くと、急に悲しそうな顔をした。

「気を使わなくていいよ。僕のこと迷惑だと思ってるんでしょ? 僕と無理して仲良くしてもいいことなんてないし。僕は別にエスラールのことが嫌いなわけじゃない。でも適当な距離を保っていた方がお互いのためだと思うんだ」
「まぁ、ぶっちゃけ迷惑だよ。十年一緒に住んでた仲いい奴と離れちゃったしね。迷惑だけど、でも俺はそのままなのは嫌だ。どうせなら、エメザレと一緒の部屋になれてよかったって思えるようにしたいじゃん。ずっと迷惑なまま、微妙な気持ちで一緒に暮らすなんてなんか損じゃん。人生ってやつは楽しむ努力をしないと楽しめないんだよ! もしエメザレが困ってるんなら力になるから、絶対助けるから、だから俺のこと友達だと思ってよ」
「……エスラール」

 とエメザレは呟いて一切の表情が消え去った。虚像が消えたのだと思った。これが本当のエメザレだ。空っぽに近いエメザレの顔だ。

 ふいにエメザレはエスラールの胸に倒れ掛かかってきた。エスラールはどうすることもできず、ごく自然にエメザレの身体を受け止め、頼りなく薄っぺたいその背中を抱きしめた。エメザレの身体は冷たかった。ヴィゼルの身体とは全然違う。抜け殻みたいに弱々しくて、悲しみが伝わってくるような冷たい身体だった。

「ごめんね。エスラール」

 エスラールの胸に顔を埋めてエメザレは小さく言った。

「どうしたの?」
「エスラールはいいひとなのに、こんな目に合わせてごめんね」
「なんでそんな悲しいこと言うんだよ。別に君が悪いわけじゃないんだから、俺に謝んなくてもいいよ。それよりさ、その痕、早く治したほうがいいよ。そういうの、きっと身体によくないと思うよ」

 だがエメザレはエスラールの言葉には答えず、腕の中で僅かに震えているだけだった。

 “あのさぁ、エスラール。それ、まさか恋じゃないよね?”

 先ほどのヴィゼルの台詞が頭をもたげたが、どうしてもエスラールにはこれが恋だと思えなかった。


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