top text

劣化の日々 後編


身体を起こしたのは何ヶ月かぶりだろうか。アスヴァリンの手により、私はなんとか起き上がることができた。
なんの変わりもなかったが、いつもと違う視点で見る部屋は新鮮で懐かしくもあった。

しかし息子リバンの姿は部屋のどこにもない。
傍らにはアスヴァリンと、彼の部隊が運んできた豪華な黒い棺が広い寝室の真ん中に置いてあるだけだ。

「エメザレのところへ連れて行ってくれ」

私は身体を支えているアスヴァリンにしがみついて言った。

「仰せのままに」

アスヴァリンはしっかりと私の身体を抱え込み、ベッドから降ろした。
二度と歩くことなどないと思われた私の足は、力なく床に付きアスヴァリンに身体のほとんどを預けながらもゆっくりと、一歩一歩その棺に歩み寄っていく。

足を踏み出すその度にエメザレとの思い出が蘇り、また蘇り、私の気持ちは逆行し若返って、まるで頑強な戦士のように背を伸ばし闊歩しているような気さえした。
頭の中で展開される記憶たちはどれも、かつては想像もしなかったであろうほどに輝きを放ち、ただ若いという、それだけの美しさで煌々としていた。

棺の蓋は開いていたが、エメザレには白い布が掛けられていて姿を見ることができない。

今にでも駆け寄ってその布を取り払い、彼を抱きしめたいのに。


その思いで私はようやく棺の前にたどり着き、力尽きて半分崩れるように床に座り込んだ。

黒い石の棺は美しく反射して側面に私を映し出していた。
そこに映る私の老いた顔。その昔、壮麗と称えられた面影はもうない。疲れ果てやつれてやっと息をしている私の顔。

「布を…」

息絶え絶えに私が願うとアスヴァリンは丁寧に布を取り払った。

瞬間、懐かしい少年に返り、あの時の全てを跳ね除けて無邪気な顔で私は笑った。

「よく帰ってきたね」

エメザレは約束どおり、私のところへ帰ってきたのだ。
少年の私からは、もう何年も感じることのなかった荒ぶる感情が溢れ出た。
なぜならば、エメザレは私の人生を肯定するように棺の中で美しいまま微笑んでおり、それが恐ろしく幸福で私はただ嬉しくて、一生懸命に笑いかけていた。
なんと懐かしく、愛しい香りだろう。
私はエメザレの細い指に触れ、腐敗しない頬を撫で、冷たい胸に顔を埋めてしばらく泣き続けた。

「アスヴァリンよ。私の愛は不浄だろうか」

私の後ろに黙って立ち続ける彼にそう問うた。

「愛は不変に美しいものです。どのように破滅的であろうとも」

アスヴァリンの声は確信めいていた。
そして私は今までの自分をひどく恥ずかしく思った。
私はなぜ堂々としてエメザレの名を口にする事ができなかったのだろう
。なぜ今まで押し込めて隠してしまおうと思ったのだろう。
まるで恥ずかしいことのように、その事実から目をそらして生きてきた。
私はアスヴァリンの言葉に救われ、最後に私らしく幕を閉じる機会をもらって決意した。
私は言おう。せめて死ぬ前に。エメザレを愛していたのだと。

何日が経ったのかわからない。ずっと夢を見ているようだ。
私の意識は途切れ途切れで、ぼんやりと霞んだ世界に溶けてしまいそうなほどに曖昧だった。
寝室の高い天井はただ白く、今はそれがなぜかとても美しいように思えて、私は不思議な充実感に包まれていた。

傍にはおそらく私の息子と、アスヴァリン、そして何十人もの家臣達がおり、私の帰らぬ遠出を悲しみながら見送っているのだろう。
しかし私の視界はぼやけ、目に映るものを理解できない。

「どうかエメザレを私の隣に葬ってほしい」

私はなぜそんなことを言ってしまったのだろう。止まり行く思考の中で無意識に口が動いた。
誰に向かって願ったのか知れない。

「なにをおっしゃるのです!これ以上、母を愚弄しないでください。そんなことを言わないでください」

とてもすぐ傍で、愛しい息子は泣いているのだろう。もうその顔をしっかりと捉えることはできないが。

「私は答えた」

私は必死に口を動かした。声が出ているのか自分でもよくわからなかった。

「お願いします。父上!母をより愛していたと言って下さい。お願いです」

「エメザレを私の隣に」

高い天井は白く、ただ白く、世界もまた白に包まれていく。
自らが放った「エメザレ」の響きは私の曖昧な脳を揺れ動かし、私の最後の瞬間を祝うかのごとくに、驚くほど鮮明に彼という存在を映し出した。

「父上!一言、一言でいいんです。それでわたしも母も救われる」

「どうか、エメザレを隣に」

彼は今私の目の前で微笑んでいる。あの時のまま。優しいまま。少しも変わらなかった。

私はエメザレを愛したことを一度だって後悔したことはない。
ずっとさらけ出したかった。胸を張って大声で言いたかった。
恥ずかしいことではないと。愛していたのだと。私はずっと言いたかったんだ。

エメザレは私が形成し、私はエメザレによって形成された。
高め合う存在であり、無名の国の王として最終的に私を完成させたのはエメザレの存在である。

「どうか隣に」

私は微笑む彼に言った。
そしてエメザレは私を優しく抱きしめ、その温度を噛みしめながら強く彼を思った。

「必ずや元帥様を陛下のもとへ」

その言葉を耳にした時、融合して私たちは最高の幸福を手にしたので、私は悠然と旅立つこととなった。

「ありがとう」

最後に私の口は動いた。


前へ 次へ】


text top

- ナノ -