top text

古の女王01


 彼は初めて世界が広いことを知った。
 クウェージアで過ごした十四年、彼は常に白い色の世界に住み、それが「世界」だと信じてきた。無論、クウェージアの小ささもその外に国があることも知っていたが、別次元のように思えて実感などわかなかった。
 牢獄に似たクウェージアの生活は苦痛と狭さに満ちていたが、奇しくもついにそこから解き放たれた世間知らずの彼には外の世界はあまりに広すぎた。

 それはまるで恐怖だった。ただ一人、知らない道を駆け抜けるというのは、彼にとって、いつ岸に辿り着くのか知れない大海をあてなく泳いでいるに等しく、途中で溺れないだけマシではあるが、もし町に辿り着けなければ野たれ死ぬ可能性もあるのだから、彼にしてみれば同じような試みであった。

 幸い、彼はただ一人ではあったが独りではなかった。エメザレが乗り付けてきた馬がいた。もしこの馬がいなければ、彼はとっくに進むのを諦めてエメザレの横で死を待ったかもしれない。
 しかし馬も長い旅に疲れ果て、馬とは思えぬ緩やかな速さで進みながら、苦しそうに息を荒げていた。水も餌も三日与えていない。いつ息絶えてもおかしくなかった。

 そんな馬の背中の上で、馬の苦しさを察する余裕もなく彼はずっと泣いていた。

「オルギアってどこにあるの?」

 もちろん馬は答えない。
 弱々しい太陽の光は西へ傾き、静かな夜の気配が立ち込めてきている。

「ぼくたちは北に向かっているよね? スミジリアンにちゃんと着くよね?」

 馬は鼻息を荒く噴出すばかりだった。

 北に進めばスミジリアンに着くというエメザレの言葉を信じ、三日、馬を走らせている。
 彼のお粗末な計画では一日目の夕方頃にスミジリアンの領土に入り、末端の町か村かで宿泊しオルギアの情報を集めて三日目の――すなわち今日の朝にはオルギアに向けて発つ予定だった。しかしこの有様だ。
 太陽を見る限りでは北に向かっているのはずなのだが、町らしきものは一向に見えない。

 彼はとにかくクウェージアの外についてはほぼ無知であり、地図上の国々のなんとなくの位置を知っているのみ。スミジリアンはクウェージアの隣国で国交も盛んなため、舗装された道が繋がっているのだが、その道がどこにあるのかわからない。
 戦争で何度も国外に出て地理に詳しいエメザレはもっと近道を知っていて、そこからスミジリアンに行くつもりだったのかもしれないが、道を大きく外れた道なき道はただ広い草原で、目印になりそうなものはなにもない。まるで草原の海だった。

 孤独に恐怖し罪を後悔し未来を恐れ、それら全てに涙して緑の海を進み続けた。なにせクウェージアに彼の居場所は残されていないのだし、第一戻る道がわからない。止まれば死が待っている。進む以外に希望に繋がりそうな道はなかった。

 三度目の夜が訪れようという頃、ついに馬は力尽き地面に横たえて動かなくなった。かろうじて馬はまだ息をしていたが、死が迎えに来るまで、あといくばくもないだろう。

「死なないで……!」
  
 横たわる馬を抱きしめるように覆いかぶさって彼は願った。それは快適な移動手段を失う悲しみ以上に、孤独を恐れて言った言葉だった。
 彼は何度も願ったが、馬が立ち上がることはついにないまま無情にも夜の闇が訪れ、そこで夜を明かす以外になくなった。火を起こす道具など持ち合わせていない彼は限りない闇に恐怖しながら、まだ暖かい馬の身体に身を寄せ縮こまり、わずかな温もりにすがって夜が明けるのを待った。

「おい! 大丈夫か!」

 という声と共に激しく揺さぶられて翌朝彼は目を覚ました。
 夢にかすむ瞳の前に現れたのは白い髪の男だった。三十に届くか届かないかくらいの歳の頃で、そのくせなんとなく少年の無邪気さを捨て切れていないような顔立ちをしていた。
 イウを覗き込む男の顔はひどく必死の形相であったので、イウは驚いて一瞬身を硬くした。

「ダルテスにやられたのか?」

 イウの驚きに全く気付いていないらしく、男はさらに激しくイウを揺さぶった。

「ダルテス……? いや、ぼくは……ぼくはクウェージアから来たんだ」

 言いながらイウはさりげなく無骨な男の手を払った。男のすぐ後ろには、男が乗ってきたのだろう栗毛の馬の姿がある。
 辺りはまだほの暗く、朝は明けきっていないようだ。寒さに彼は小さく身震いした。

「クウェージア? お前一人で? クウェージア移民の受け入れ先はヴルドンって町でずっと東の方だぞ。ここはカルテニっていうド田舎の村の果てでお貴族さんが来るようなとこじゃない」

 クウェージアの名を出すと、半分冗談のようにも見えるが男は嫌そうな顔をした。イウの服を見て貴族だと思ったのだろう。白一色の服はクウェージアの宮廷でこそ映えるものの、外に出てしまえば――特に田舎などでは、舞台衣装のままで歩いている変人にしか見えない。

 男はクウェージアの移民をこころよく思っていないのか、貴族の類が嫌いなのか。
 そういえば男の着ている服は安っぽい布でできている。デザインもとりとめのない量産型であることからして、考えずとも男が農民であることはわかった。

「ぼくはヴルドンに用はないんだ。どこでもいいからスミジリアン内の町に行きたかったんだけど……道が…わからなくて……」
「ああ、つまり道に迷ったのね」

 男は気の抜けた声をだした。

「そのカルテニって村まで連れてってくれない?」
「そりゃもちろん連れてくよ。野垂れ死にされたら夢見が悪いし」

 男は悪意のなさそうな顔で言って笑い、それからイウの後ろに目をやった。あまり振り向きたくはなかったが、イウも後ろの存在に目を向けた。
 案の定、夜までは暖かかったはずの馬は冷たくなり息絶えていた。幸い、馬に苦しんだ様子はなく眠るようにして召されたらしい。少し不謹慎ではあるが数時間、馬の死体に寄り添って寝ていたのだと思うと小気味が悪くなった。

 しかし、この馬がいなければ確実に彼はここまで来ることはできなかった。三度の夜は馬の温もりに助けられたし、孤独を紛らわせることもできたのだ。

「……馬、残念だったな」
「ごめんね」

 すぐさま、小気味が悪いと思ったことを詫びるようにして、イウは冷たくなった馬を抱きしめ安らかな目元に口づけた。

 それから男は立ち上がり首からさげていた笛を吹いた。高い音が響き渡ると、しばらくして馬に乗った男が現れた。

「デミング! こっちだ!」

 男は遠くに見える馬に乗った男に向かって手を振って言った。

「ダルテスか!」

 やって来た、デミングと呼ばれた男は、辺りを見渡し警戒した様子で血相を抱えている。

「いや、標的にされそうなガキを拾ったんだ。危険だからカルテニまで届けてくる」
「拾った?」

 デミングは馬に乗ったまま怪訝そうに聞き返し、イウをちらと見た。そしてイウの後ろに横たわる馬の死体を見つけ、ますます如何わしそうな表情をした。
 二人のやり取りからして、男とデミングは同い年くらいなのだろうが、若い印象のする男に比べてデミングはたいぶ老け込んで見えた。おそらく目の下に広がる濃いクマのせいだろう。

「そ、道に迷ったんだそうだ。そういうわけだから今日は俺、帰るわ」
「おい! ただでさえ人手が足りないというのに! そのうえまだ早朝だぞ。早引けにしても早すぎる!」
「こいつが一晩明かせたってことは、ここいらにダルテスはいないんじゃないのか?」

 男が言うとデミングは押し黙った。その隙を見て男はイウに馬に乗るよう目で促すと、自分も馬にまたがった。

「そういうわけだから、な!」

 言うが早いか男はイウを乗せ、馬の腹を蹴り上げて走り出させた。

「おい! 待て! セウ=ハルフ!」

 後ろでデミングが叫んだが、男は振り返らなかった。かわりにイウが振り向き、男の腕の隙間からデミングと横たわる死体の馬を見送った。だんだんと小さくなっていく馬の死体を見ながらイウはエメザレのことを思い出していた。

 馬と同じく、エメザレの死体を埋葬できなかったことが悔やまれた。いや、できなかったというよりしなかった。土に中に埋葬しようと思えば、恐ろしく手間はかかったろうが、できただろう。
 ただ、死んだエメザレはあまりにも美しく不変であるように思えたので、白い肌を土で穢したくなかった。かわりに森に生えていた花で花束を作り死体に持たせ、エメザレの周りを花で敷き詰めた。
 それはいつの日にか育った花がエメザレを包み込むという妄想めいた幻想を抱いてしたことであったが、実際、摘まれた花は根付くことなく死体と共に朽ちていくことだろう。
 それでもイウには土に埋めるよりそちらの方がエメザレにはふさわしいように思えた。

 しかし、本来ならばクウェージアの英雄として、国を挙げて盛大に弔われるべきである。寂しい森の中で朽ちゆき忘れ去られてしまうのは、あまりにも不憫だ。それがどうしても心残りだった。

 そして、それがただ三日前の出来事であったことが未だに信じられない。自分がしたことも、置かれている状況も。全く信じられない。

「それにしてもよく無事だったな。ここ一ヶ月、ダルテスがこの辺りを――と言ってもかなり広範囲だが、お前くらいの歳の少年を次々に襲撃してるんだ」

 追憶を切り裂くように、馬を快適に走らせながらもセウ=ハルフは言った。

 ダルテス種族はクウェージアから遠く東の地域に住んでいるはずだ。父から教えられた限りでは、ダルテスは野蛮で殺人と戦争を好み、横暴で頭足らず。筋肉と体躯こそ秀でて素晴らしいもののそれ以外に取り柄らしきものはない、とある。
 しかしそれはおそらく白い髪の選民思想と他種族蔑視による、偏った表現であるだろう。
 彼はダルテスの体躯が素晴らしく背が高いらしいことは信じていたが、全てのダルテスが殺人と戦争を好んでいるとは思っていなかった。

 わりと近くのラルグイムという国にもダルテスは少数住んでいるそうだが、クウェージアは他種族の立ち入りを拒絶していたので、実際見たことはなかった。

「こんなところにダルテスが? なんのために?」

 エクアフの国に無理してダルテスが来たところで楽しめそうな場所はない。スミジリアンも同じである。ましてこんな田舎に遥々やって来ても利益に適うものは得られないだろう。

「それが、なにが目的なのかわからんのよ。金銭目当てでもないし、というか金銭目当てなら中年か金持ちそうな年寄りを襲うだろうし、さらってどうにかしようというのでもなく、快楽殺人にしても全て一撃で殺しているからこれも違うような気がするし、ただ白い髪で十四、五くらいの少年ばかりを片っ端から殺しまわってる」
「なぜダルテス種族だとわかるの?」
「一人だけ即死じゃなかった奴がいて、死ぬ前にダルテスにやられたと言ったらしい。カルテニは絵に描いたように平和でのどかだったっていうのに、そいつのおかげで村全体が混乱状態だ。村の男衆は総出で見張りに駆り出され、こうして朝から晩までこの辺りを徘徊してるわけ。それがまた暇なんだ。なにせこの辺りは草しかないからな」

 一度黙ってから、思い出したようにセウ=ハルフはまた口を開いた。

「そういえば、スミジリアンの町ならどこでもいいとか言ってたが、目的地がないわけじゃないだろう。どこに行くつもりなんだ? それに家族は? というか名前は? なぜあんなとこで寝てた。単に国境を渡りたいなら八号線街道を通ればいいだろう。よりにもよって原っぱを突っ切るのは無謀すぎないか」

 セウ=ハルフの質問は多かったが、ごもっともな質問ばかりだった。

「ぼくは……名前はイウだ……。貴族の生まれだが、小さい頃両親を亡くして家族はいない。ぼくはオルギアに行きたいんだ。案内を頼んだ人がいて、近道を知っているらしかったんだけど途中ではぐれて……」

 どう答えればいいのかと考えながらイウゆっくりと言った。彼の身に起こったことは、おいそれと話せる内容ではなかったし、話したところで簡単に信じられるようなことでもない。
 それにイウがエメザレを殺したと知れれば、クウェージアでは間違いなく死刑。同盟を結んでいるスミジリアンでも極刑は免れないだろう。例え両国の王、または指導者から、どのように寛大な処遇が下されようとクウェージアの王族である以上、自由の身でいられないことだけは確かだ。
 おそらくこれが一番無難な答えだった。
 それにしてもクウェージアとスミジリアンを結ぶ街道を「八号線街道」と呼ぶことを彼は初めて知った。

「ふうん。オルギアねぇ。あんな遺跡、命がけで見てどうすんの? おたく考古学者でも目指してるの」

 嫌味には聞こえないがセウ=ハルフはふざけた調子だ。

「まぁそんなとこだよ」

 とりあえず、納得してくれたらしいセウ=ハルフに安堵して、イウは息を吐くように言った。


【前へ 次へ


text top

- ナノ -