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王、沈黙の時06 背の高い古木が生い茂る広大なファイマールの森の、物流の道より大きく逸れた、文明のかけらも感じられないほどに深い森の中を、アンヴァルクは何かに引き寄せられるように、寸分の迷いもなく進んでいった。
もうずいぶん前からメルヴィトゼンは森のどの辺りを走っているのかわからなかったが、全力でしかも恐ろしく正確に馬を飛ばすリアスの後ろを、その硬質な樹木に何度も激突しそうになりながらも、なんとか付いていくのが精一杯で、声を発して質問するような余裕は全くない。
しかし周りをのんびり見渡せる速度ではなくとも、目の端に映る空の色は赤味が差していることから、日は沈み始めていることはわかった。先ほどまで頭上で確かな存在感を放っていた攻撃的な日差しは勢いを弱め、今は木と木の隙間から鬱陶しい光線を真横から放ってくる。
一体いつまで走り続ける気だ。
いい加減に一度馬を止めようか、と思ったとき、彼を少し引き離して走っていたリアスの背中が止まるのが見えた。
「ずいぶんと遠かったな。ここはどこだ」
「ここには誰も来ない。ずっとお前に見せたいと思っていた。私の庭だ」
と微笑んでリアスは馬を降りて歩き出したので、彼も馬から降りると早足なリアスの後を追った。
そこには小さな小さな青いルーノリアの花畑が広がっており、可憐にも己の存在を最高まで誇示するようにして咲き晴れていた。花畑はほぼ正円で中央が最も青が深く、外側に向かって段々薄い色のルーノリアが植えられている。花々は大地に根を生やしていたが、ここまで滑らかな濃薄を作るのにそれなりの時間を費やしたに違いない。
なぜ、ここまで美しく育てておいて、誰も来ないような森の中に庭を作ったのか、彼は不思議に思うと同時に残念にも思った。偶然にもこの場所を見つけた者は、森の中にぽつりとある奇妙な庭を生涯忘れられないことだろうに。
「お前の庭? まさか、この花の手入れをお前がしたというのか」
「そうだが、おかしいか」
「ああ、おかしいね。アンヴァルクがガーデニングとは」
「ここだけではない。私の庭は世界中にいくつかある」
「いくつも作ってどうする? 庭を作る意味は?」
「世界を美化している」
なるほど、いかにもアンヴァルクらしい答えだ。リアスは花を愛しんでいるわけでも、もちろん植物を育てることに心癒されているわけでもない。ただ、花が美しいことを理解して、美しいものを世界中に置いただけなのだ。
アンヴァルクらしい答えしか返ってこないことを知っているくせに、なぜか妙な期待をして理由を聞き、そして何度も失望する。聞かなければよかったといつも後悔し、しかしまた期待してしまう愚かな自分がいる。
この諦めない性格は、あの恐ろしい姉に似ているのかもしれない。
「そうか」
メルヴィトゼンは哀しく微笑んだ。
「お前の死にふさわしい場所だろう?」
「そうだな」
と答えたが、心の底では寂しかった。
偉大王はこの花畑でアンヴァルクに看取られるのだ。自国を愛し、民を愛し、言うなれば悪の女王アシディアから世界を救った偉大王は、誰も来ない花畑で、心のないアンヴァルクを一体そばに置いて、誰かに悲しまれることもなく、死を悟られることのないようにと、静かに死んでいく。これが数万年の人生の終焉なのだ。
「お前が、悲しいと思っているがわかる」
リアスは呟いた。
「……ああ」
もう否定はしなかった。もうすぐ死ぬ。嘘などついても仕方がない。元よりリアスはアンヴァルクなのだ。気を使う必要などない。
「私がアンヴァルクだから、心がないから、私に看取られても悲しいだけだと思っている。最後にそばにいるのが、愛する人ではなくアンヴァルクで、お前は虚しいと思っている。そうだろう?」
「そうだよ。お前の言うとおり」
「私は……お前の友ではないのか?」
アンヴァルクはヴェーネンのように悲しい顔をした。
そんな顔をしなければ彼の心はもっとずっと穏やかだったに違いない。他のアンヴァルクのように無慈悲で理性的で、感情とは無縁で残酷なほどに冷静だったなら、こんなにも心がかき乱されることはなかった。
「お前はアンヴァルクだ。リアス。友情なんてものは理解できない。いくらお前が望んでもヴェーネンのようにはなれないだろう」
「私はお前を友人だと思っている。私はお前達を理解したい。共感したい。一緒に楽しんだり悲しんだりしたい。確かに私に心はないが、だがそれでも分かち合いたいと思っている。それは間違っているか?」
「間違いではないが、どうやって心のない相手と真の友情を築けと言うんだ。心情が理解し合えない以前にお前には心がないんだろう」
「だが、ヴェーネン同士でも完全に分かち合っているわけではない。上辺はそうできても、腹の底で何を考えているかわからないのではないか? ことによれば憎しみや殺意を抱いているかもしれない。しかし、それが知られなければ、えてして友情は成立する。ならばお前と親しくなりたいと言っている事実以外に、否定的な意図はないのが確実な我々アンヴァルクの方が、よほど無害な友情を築けると思わないか」
なんとアンヴァルクらしい冷たい言葉だろう。しかし誤っているわけではない。ただ数式の解のように整っていて、それが数字ではないものにも容赦がないのだ。
「確かにお前との友情ごっこは心地よかった。お前にだけは本音が言えた。でもそれはお前が無条件に頷いてくれる人形だったからだ。
おれが泣いたとして、お前はおれに失望することも哀れむこともない。お前はおれが『泣いている』という事実以外なにも思わないだろう。なにも思われないのはおれにとって、都合がよかったし、神のように崇拝されるよりましだった。
だからおれは長く友情ごっこを続けてお前に頼ってきたんだ。だが、あくまでも言葉遊びの延長線上にある『友情』だよ。お前が言っているのはただの言葉、ただの理屈だ。心は数式じゃないんだ。矛盾だってたくさんある」
「そんなことはわかっている。しかし我々には理屈で友情を理解する他に方法がない。ならば理屈で友情を表現するのはどうすればいいのだ? どうすればお前に私の友情を理解してもらえる。どうすれば私を友人だと認めてくれる」
いつまでもわからないリアスに腹が立った。
その悲しそうな顔。死を前にした友人に裏切られ、さも己は憐れであろう、というような表情をこのアンヴァルクは正確に漂わせていた。リアスの感情表現はぎこちない部分もあったが、時折見せるこの繊細な表情にはなにかを掻きたてるものがあった。
それは友情に似たなにかだったり、あるいはもっと深いものだったりしたが、今は怒りを掻きたてられた。
「友人だと。笑わせるな、アンヴァルク!」彼は怒鳴った。「 お前に、お前なんかに何がわかる。おれの、像にすら頼りたくなるような惨めな気持ちがわかるのか! もしお前がアンヴァルクでなかったらと――いつも愚かにも期待して何度も失望して、それでもまた期待して、自分のばかさ加減に腹が立って、どんなに叶わないことだと承知していても、それでもどうにもならないこの心の哀れさが、ほんの少しだってわかるものか」
「私がアンヴァルクでなかったら? アンヴァルクでなければ、まず私は存在していないと思うが」
「そういう意味じゃない」
と返したが、自分でもどういう意味で言ったのかよくわからなかった。どうにもひどく頭が混乱しているようだった。
「メルヴィトゼン。私はお前をいつも、いつまでも友人だと思っている」
「おれと友人でいたいなら……、それなら、おれと死んでくれるか。リアス」
彼は言った。口が勝手に動いたように思えた。それでもリアスの瞳は冷たく深く穏やかな海底に似た静かさだった。
「アンヴァルクは死ねない。アンヴァルクは存在し続ける」
そしてアンヴァルクはまたお決まりの台詞を言ってのけた。
「そうだな。リアス。だが、今おれはこれを持っている」
残酷な気分で微笑みながらそう言うと、メルヴィトゼンは隠すように着けていた首飾りを取って見せた。くたびれた茶色い紐に付いている、小さな白い宝石を。
「――アルトの石。なぜお前が持っている」
メルヴィトゼンが嘘をついたことに、なんの怒りも感じていない、驚きすら含まれていない無感情な声だった。
「おれはデネレアとの最後の戦で、アルトの石の譲渡を条件にアシディアを逃がしたんだ。そしてずっとおれが守ってきた。」
このアルトの石さえアシディアの手元からなくなれば、易々とアシディアの勢力は復興できないだろう。アンヴァルクの遺産の力を行使するという脅威さえなくなれば、殺す必要はなくなる。いや、殺さなくても済むと。彼はそう考えた。残念ながら、それは完全なる過ちではあったが。
静かな顔で話を聞くリアスを置いて、さらにメルヴィトゼンは続けた。
「確かにアンヴァルクは機構が望む限り何度でも復活する。だが、機構が望まなければ、機構との規約を破り機構がお前を削除すれば、お前は死ぬ。そしてアンヴァルクはアンヴァルクの遺産の所持を認められていない……。言っていることがわかるか、リアス」
リアスは答えずに長い瞬きをした。
「これを飲み込め。リアス。おそらくアルトの石は体内で完全分解されずにお前の一部になる。アンヴァルクがアンヴァルクの遺産と融合するというタブーを犯せば、確実にお前は削除される。いや、運がよければアシディアのように機構が削除できない存在になれるかもしれない。もしくは全く違う何かに変化して、ことによれば心を持てるかもしれない。どうなるのか、おれにはわからないが……。リアス、おれと死ぬのは嫌か」
「それが、お前の答えなのか。メルヴィトゼン」
相変わらず、深い海色の瞳にはなんの感情も宿していない。
「それが最後に望むことか」
リアスはもう一度聞いた。
「そうだ」
メルヴィトゼンはうつむいた。
なんと残酷なことを言っているのだろう。そしてアンヴァルクにそんなことを言う自分は、なんと甘く弱く恥さらしでかいぎゃく諧謔的なのだろうか。彼は情けない自分を心の中で嘲笑った。返ってくるであろう答えをほとんどわかっていたので、リアスの長い沈黙が苦しかった。
しかし――
「いいだろう。お前が望むなら」
間違いなく、リアスはそう言った。
幻聴かと疑うような答えが返ってきて、彼は驚き顔をあげると、そこには優しい顔のリアスが微笑んでいる。微笑んでいるのは顔だけで、何の感情も感じられないリアスの瞳が、今この瞬間だけはなにか素晴らしいものを含んでいるような気がした。
その言葉を疑うよりも先に、メルヴィトゼンの中で全ての執着が消え去り、物質を超えた奇妙な感情が爆発するように心を満たしていくのがわかった。
彼は今までメルアシンダの像や並べられた人物絵画との友情など成立しないと思っていた。おそらくそれは当然の答えで正しくもあるが、しかしもしこちらの思いに答える物質があるのなら、それが紙であれ靴であれ、それは確実に存在する可能性があるのだ。
考えてもみれば、自室の山のような思い出の品たちは彼にいつも強さを与え孤独を和らげ続けてきた。それが、彼が物質に与えてきた愛情に対する返しであるならば、交友関係はしっかりと成立していたのである。もちろんそれを否定するのは簡単なことだが。
しかし、たとえば、実在しなくとも正しく優しく絶対的な存在が、その概念だけで多くを救う事ができるように、心ない物質が彼を救えない理由もどこにもなかったのだ。
「嘘だよ、リアス。冗談だ」
思い切りリアスを抱きしめてメルヴィトゼンは言った。
「冗談? ヴェーネンの冗談はよくわからない」
「お前はおれの友人だ。一番の友達だ。アンヴァルクらしく永遠に生きていろ」
そこには今までのような上辺だけの言葉ではなく、数千年ぶりに思い出した強い感情が含まれていた。
「メルヴィトゼン、アルトの石と融合すればアシディアのように永遠に生きられるのではないか? ここで死ぬ必要はなくなる」
ひらめいた様子でリアスはそう言ったが、メルヴィトゼンの答えはずっと前から決まっていた。
「おれはアシディアがしたことを正しいと思わない。いつだってあの女がしてきたことを負い目に感じてきたんだ。同じことはしない。おれはアシディアのようにはならないよ」
「そうか」
リアスは悲しそうな顔をしてうなずいた。
「リアス、最後の頼みがある。おれはアルトの石をこの庭に隠す。いつかアシディアはアルトの石を欲するだろう。なにしろこの石には機構の法則を変えられる強大な変則能力がついているんだ。これは絶対にアシディアの手に渡してはならない。だからお前がこのアルトの石を守ってくれ。それがおれの最後の願いだ」
「お前が望むなら守ってみせる。絶対に」
これでもう、思い残すことはない、と彼は安堵に包まれ僅かに微笑んだ。
その時。強烈な、立っていられないほどにひどく深い眠気がメルヴィトゼンを襲った。初めは昨日寝ていないせいだと思ったが、尋常ではない眠さにぼんやりと死ぬことを理解した。身体中の力が抜け意識がみるみるまどろんで行く。倒れた自分をリアスが受け止めたのがわかった。
「許してくれ」
アンヴァルクがそんなことを言った。
「許……す?」
「そう。私がアンヴァルクであることを。許してくれ」
リアスの胸に埋もれるように抱かれたメルヴィトゼンは、最後にもう一度リアスの顔を見たいと思ったが、掲げられた右手はリアスの顔に届くことなく地面に落下した。
鼓動しない胸、脈を打たない手、生物の匂いもしない。冷たい静物のようなアンヴァルクに抱かれて、しかし今はそれに安らぎを感じている自分がいる。幸せだと思っている自分がいる。輪郭の定まらない不思議な感情を、彼は尽きる前に確かに肯定したのだった。
だが、ふと彼は思った。これが機構の用意した己へのシナリオだったのではないか。全てはいかにも機構らしい、美しい演出だったのではあるまいか。でなければ絶対的な機構の使者であるアンヴァルクが、一個人のために自殺に値する行動をとると思えない。
ああ。
彼は音にならない息を吐いたが、それはけして絶望ではなかった。
そして、数万年孤独の中で生き続けた寂しい彼の瞳が最後に映したのは、己の手の中で燃え尽きる流れ星のように光を放つアルトの石だった。
「偉大王メルヴィトゼン。お前の偉業は未来永劫語り継がれることだろう」
アンヴァルクは静かになったメルヴィトゼンを抱きしめて言った。その姿は悲嘆にくれるヴェーネンのように見えたが、アンヴァルクの乾いた瞳が僅かにも潤うことはなかった。
そしてリアスは声を上げた。悲鳴のような奇声のような声だった。だが泣くことの叶わないアンヴァルクの悲痛なその声は世界の誰の耳にも届くこともなく、やがて何もなかったように消えてしまった。
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