11



「体が痛い……脚がガクガクする……」

季節は、夏。
あたしはこの上なく気だるい体を起こし、浴室へと向かった。

全身をシャワーで洗い流しながら、昨晩の出来事を反芻する。

(なんだか、いろいろとすごかった……)

口にお湯を含ませてうがいをすれば、チクリと走る僅かな痛み。
――ムカつく野郎に殴られた痕。

けれど今では、衝撃で切れた口の中が少し痛む程度で、さほど気にはならなかった。

頬……そして唇、唇の端、口内。
あたしに覆い被さる『彼』は昨夜、それらをやんわりと撫で、唇を落とし、あるいは優しく舐め上げてくれたような――

「いやいやいや、」

思い返した瞬間ぶわりと全身に熱が蘇り、あたしは濡れた頭を掻きながら唇を噛んだ。

(照れる……)

鏡を見れば、首筋や胸の数ヶ所に赤い痕が残っている。

狂乱の中で、もっと吸ってだの噛んでいいよだのとち狂ったことを口走ってしまったような気がするのは、どうか夢であって欲しいのだった!


当のバクラは、あたしと交代でシャワーを浴びに来た。
それを尻目に、衣服とベッドのシーツをまとめて洗濯機に放り込むあたし。

まな板の上で放置されていた切りかけの野菜は勿体ないので朝食に回し、居間のラグに刺さったままの食器の破片は掃除機で吸い込んだ。

全て、元通り。
昨晩の喧騒の跡は、こうしてあっさりと片付いたのだった。


それからあたしは、あらためてバクラと向き合う。

昨日と同じ部屋、同じ風景。
けれど、『生まれ変わった』気持ちで。

体を重ねて互いの関係が変わるなんて、月並みではあると思うけど、でも仕方ない。

あたしは生まれ変わった気持ちで、浴室から出てきたバクラを見つめていた。

「ご飯出来たよ」

さて、では彼の目に映るあたしの姿は、昨日と同じなのだろうか?

「ああ、」
とだけ応えたその表情からは、彼の心情は伺えなかったのだった――

(お風呂上がりの彼はとても色っぽい!)



「これあげる」

遅い朝食を終えた後。
あたしは昨日の『戦利品』の中からそれを抜き出して、彼に差し出した。

昨日――バクラが、元彼ヤツから巻き上げた『慰謝料』。
無造作にそれを放って情事になだれ込んだ彼は、結局戦利品の全てをあたしに寄越してきたのだ。
……数枚のお札とICカードを。

あたしはそれらを受け取り、現金の半分を彼に渡そうとして――
1枚でいい、と告げた彼の殊勝な(?)反応にビックリしつつ、ならばと1万円札とは別に、ICカードを差し出した。

元彼が持っていた、無記名のICカード。
いくら入っているのかは分からないが、確かチャージ上限が数万円かそこらだったはずなので、大した金額は入ってないだろう。

「このロゴが掲示されてる店でなら、普通にお金みたく使えるよ。コンビニとか。
いくら入ってるかは、レジの人に聞けば調べてくれる。
名前がないタイプだから、元の持ち主と違うとか、変な風に足がつくことはないから大丈夫だよ。

……元はそれ、電車に乗るための道具なんだよね。いわゆる交通系ICってやつ。
いくら入ってるかにもよるけど、電車なら500円もあればけっこう遠くまで行けるから」

あたしはそうペラペラと、彼にカードについて説明する。
そういえば、彼と一緒に電車で出かけたことはまだ無かったっけ……。

「電車……」

ポツリ、と口にしたバクラ。
記憶を辿るように黙り込んでいるところを見ると、電車の存在は知っているが乗ったことは無いという感じなのだろうか。

「今日も仕事休みだしさ。
良かったら、電車で出かけてみる?」

何の気なしに切り出したあたしの言に、バクラは素直に頷いたのだった。



身支度を済ませ、二人で家を出る。

そこであたしは忘れ物をしたことに気付き、「すぐ行くから向こうで待ってて」とバクラを階下へ追いやると、ダッシュで家の中へと戻った。

それから忘れ物を取り、家を出て施錠。
急いでバクラの後を追おうとした瞬間、ちょうどお隣から出てきた奥さんと目が合った。

「ぁ……、こんにちは」

隣の人を無視するのもあれだと思って一応挨拶を告げれば、――

「……、こんにちは」

返された一言には、心なしか妙な間があった。

それは気のせいではなかった。
お隣の奥さんは、あたしが挨拶を返した直後から、あたしの方をじっと凝視していたのだ。

そこには明確な悪意は宿っていなかったが――
どこか、値踏みするような。
あたしの顔から足元までを上下に流れた視線は、確実に『意味ありげ』だったのだ。

(え……、)

彼女の思惑が分からないあたしは、「あたし何かしましたか?」とでも言おうと、喉元まで出かかった。

が、それより一歩早く、ハッと我に返った隣人が、曖昧な笑みを浮かべて足早に階段の方へ去ってしまった。

意味が分からない。
が、あたしも彼を待たせている以上、一刻も早く階下へ降りて建物の入口付近で待っているだろう彼と合流する必要がある。

あたしは隣人を追う形で階段を降り、その先で遠目に白い頭を確認するとホッと息を吐いた。

あたしの先を歩いていた奥さんが、アパートの敷地の入口で佇んでいるバクラの横を通りすぎる。

――その目は、通りすぎる瞬間、たしかにバクラの顔を覗いていた。

「……っ」

そのまま歩を止めず、出掛けて行ってしまう隣人。
特に言葉を交わしたわけではない。
ただ、それだけだった。


「…………、」

奥さんが去った方向とは別の方向へ歩き出しながら、あたしは頭を捻って考え込む。
隣ではバクラがあたしの歩く速度に歩を合わせてくれていた。

「……ねぇ、さっきすれ違った人――
お隣に住んでる人なんだけど、バクラのこと見てなかった?」

ああ、と彼は即答する。あたしの言を肯定する形で。

そして、直後に放たれた彼の『推測』に、あたしは後頭部を殴られたように固まってしまう。

「隣の住人だったのか。
……オマエがあんまり騒ぐから、お盛んなことで、とでも思われたんだろ」

「……ッッ」

言葉を失うとはこのことだった。

――だからか。
だから隣の奥さんは、先程あんなにあたしをジロジロ見てきたのか。

いや、ううん、それだけじゃない。
あたしはすっかり忘れていたが、昨日は他でもないアパートの廊下で、元彼を加えて散々激しいやり取りを交わしたではないか。

――隣人視点で考えてみよう。
隣の部屋に来客があったと思ったら、聞こえてくる女の怒鳴り声。

ややあって、ガシャガシャン!! という食器類の割れる音。
それから、乱暴にドアが開かれて、男の叫び声が廊下にこだまし――

その声は涙混じりで、謝罪や命乞いを繰り返している。

しばしの後、ようやく訪れた静寂。

――かと思ったら。
再び家の中から女の声が聞こえてくる。

その声は、何事かを叫んだ後……
やがて、やがて…………

大人なら誰でもすぐ『わかる』、あられもない声になって――――

興奮しきりの女は、声を抑えることも忘れ、何度も再来する快楽に身悶えながら本能に喘ぎ――

(うわあああぁぁぁ!!!!!)

あたしは思わず道端で足を止め、頭を抱えこんだ。

自己保身なく純粋に隣人目線で言うならば……さしずめ。

『隣のカップルの痴話喧嘩と喘ぎ声がうるさい』

……そういうことだった。

「ごめんお隣さん……めっちゃごめんなさい……」

あたしは頭を抱えたまま情けない声で呟く。
隣では、あたしの異変に気付いたバクラが「ハッ」と鼻で笑っていた。

「ていうか……!!
バクラのせいだもん……!!!
あ、もちろん元彼に絡んだあれこれはあたしのせいだしバクラには感謝しかないけどさ。

そうじゃなくて、そのあと……!
あんなに……あんなに激しく何度もされたらさ、無理じゃん……!
女の身体構造わかってるよね?
アレの行為って中から内臓ぐっと押されるのと同じだから、自然に出ちゃうから声! めちゃくちゃ!!」

羞恥で狼狽しながらまくし立てるあたしは、トコトンお馬鹿で、滑稽だ。
そんなことは十分わかっているけれども!!!

……けれども。

あたしの穏やかならぬ心中などまるで考慮しない彼は、ごく自然に爆弾を投げつけてくるのだ。
それによってあたしがどれだけ、呼吸を失ってしまうかも知らずに。

「……なら、次は外でやるか?」

真っ赤になってしまったあたしは、頭を抱えたまま小走りで駅へと向かうのだった。



駅。

自動改札機の仕組みを簡単に説明したあたしは、バクラに先んじて自動改札を通る。

直後に振り向けば、ピッとICカードを翳した彼が改札を通り抜けていた。

「残高見た? いくら入ってた?」

「8,960円。しばらくは『電車』に乗れるな」

「おー」

あたしは、ICカードに入っていた微妙な金額に、微妙な声を上げた。

「何処へ行くつもりだ?」

彼が駅の中をキョロキョロと見回しながら尋ねてくる。

あたしは目的地を告げ、
「軽く買い物でもしようかな〜って。
よく行くお店で今、セールやってるみたいだし。
2駅だからすぐ着くよ」
と繋げてから、ホームへと続く階段の方へと足を向けた。

上り線と、下り線。
ふとバクラが足を止めた気配を感じ振り返れば、あたしが向かう方向とは逆方向の階段を彼がじっと見つめていた。

利用者に見せつけるように、でかでかと番線の数字が書かれた案内板。
そこにあった、童実野町方面という記載。

「童実野町……」

ずき、と胸が痛くなる。

その街の名前は、あたしが忘れたくても忘れられない名称だ。


童実野町。

あたしが青春を過ごした町。
あたしの青春そのものである、バクラと過ごした町。

その青春は、甘くて、けれども苦くもあって……
まるで、糖分たっぷりの極甘ケーキを、濃厚なブラックコーヒーで流し込んだような味わいの日々だった。

あれから何年が経っただろうか。

高校を卒業し、妹を連れて実家を出て、その後一人になって引越しをしたあたしはもう童実野町には住んでいない。
思い出したくもない母親だって、今は童実野町を離れ別の町で男と宜しくやっているらしい。

「…………良かったら、買い物終わったら行ってみようか」

思わず口をついて出た言葉に、バクラがあたしを振り返った。
発言の理由を問うようなその視線に、あたしは案内板を見ながら簡潔に答えることにする。

「昔住んでたんだ。童実野町。
懐かしいし、バクラとなら久々に行ってみてもいいかなって」

彼の名前を声に出した瞬間、その名が持つ二人分の意味ダブル・ミーニングが脳裏に浮かび、あたしは後悔を覚えた。

バクラ、とバクラ……
面識もなく人種すら違い、本来出会うはずのない二人・・の存在を図らずも近付けるような行動は、軽はずみであるとしか思えないからだ。

けれども。
あたしの迂闊な発言が持つ意味に気付くはずもないバクラは。

「ああ。いいぜ」

と、至って普通に提案を受け入れたのだった。




「荷物持ってくれてありがとう〜
夏物処分セールやってたからつい買い込んじゃった……
どうせこの感じだとお盆過ぎても暑いし、しばらくは夏物着れるしね!
あと、デザインによっては来年にも回せるからお得だし」

電車の中。
お礼を述べ、ついでに買い物の言い訳をぺらぺらと語ったあたしの横で、バクラは窓の外を流れる景色を無言で眺めていた。

あたしの話を聞いていないわけではない。
時折チラ、とこちらに視線を寄越して来るのは、聞いてはいるぞという彼なりのサインであることを、ここしばらく彼と過ごしたあたしはちゃんと知っている。

バクラ風に言うならば、『聞いてはいるから勝手に喋ってろ』という感じだろうか。

彼の手には、ショップのロゴが印字された袋が幾つか。
(一応言っておくとあたしが自分から彼に持たせたわけじゃなく、彼が持つと言ってくれたから何個か袋を渡しただけなのだ)

中にはお店で買ったばかりの、服やら何やら……だが、一応あたしの物ばかりじゃなくちゃんとバクラのものだってある。

バクラは正直かっこいい。
惚れた欲目もあるが、目鼻立ちの整った顔には精悍さと少しあどけない少年ぽさが同居しているように見えるし、何処で鍛えたのか分からない体躯は全身引き締まっていて露骨に言うなら『いい体』をしている。

強いて言うなら右頬に大きく刻まれた謎の傷跡が目立つには目立つが、不思議と彼の雰囲気に馴染んでいるような――まるで、それ込みで『バクラ』だと言わんばかりのような……
上手く言えないが、とにかく頬の傷跡は妙にバクラに似合っているような気がするのだ。

身長だってそれほど高くないが、話す時に目線が近いのが個人的には心地よかったりするのでむしろ嬉しい。
つまり、何もかもが――今のバクラの外見の一切合切が――あたしにとっては魅力的にしか思えないのだ!

というわけで、そんなかっこいいバクラには服が何着あっても足りない、というか経済力さえ許せば色んな服を代わる代わる着せ替えファッションショーさせて、目の保養をしたいななんていう気持ちさえあったりするわけで……!!

「おい」

「!」

唐突に遮られるやましい思考。

彼を思い浮かべてうわの空になっていたあたしを現実に引き戻したのもまた、同じく彼の声だった。

扉の開いた電車。
着いたぞ、降りるんだろ……そう言いたげなバクラが目線で外を示している。


数年ぶりの童実野町。
ホームに降り立った瞬間、胸の中がざわめくような感覚があった。

人の流れに従い、バクラを連れて改札へと向かう。
元々童実野町在住で、同じ地区内の童実野高校に通っていた当時のあたしは電車通学をしていたわけではなかった。

けれど、それでも。

改札を出て、外へと続く通路を歩き――
駅の建物を出て、目の前に広がった見覚えのある風景を目の当たりにした時。

あたしの胸は、やっぱりドクリと高鳴ってしまったのだった。

それはまるで、かつての記憶を思い起こさせるスイッチの音のようでもあり――



「懐かしいな……とは言ってもさ。
ここ数年で随分変わっちゃってんだよね、童実野町。
あの海馬瀬人がこの街を支配してるとかなんとか……噂じゃここに住むには、デッキ登録が必要らしいよ。ありえないよねー」

「当時も駅前は結構賑わってたけど、なんかさらに都会になってる……
あっ、見てこれ、このモニター……!
『ウェルカムトゥー ドミノシティ……』だって!
ウケる、海馬社長がドヤ顔して出迎えてくれてる!」

「私が住んでた地区も近くにあった童実野高校も、こんな繁華街じゃなくてもっと静かな住宅街だよ。
歩いても行けなくないけど、バスに乗って行くと早いんだよね〜
ほら、あの路線バス。あれは当時と変わってないや……」

懐かしい街の駅前を二人で歩きながら、あたしは隣のバクラに向かってひたすらベラベラと喋り続けた。

「放課後にさ。
カードショップ行ったり……ていうか連れて行かれたり、とかあったよね。
ほら、ここの通りを行くとあってさ。
結局あたしはカードゲームの基本ルールを覚えたくらいで、今でも全然分かんないけど。

あとは学生割引のあるカラオケ行ったりとか。
バーガーショップでダラダラしたりとかも……
懐かしいな」

同性の友人達と過ごした思い出。妹と過ごした思い出。それだって大切な思い出たちだ。

けれども……
あたしの『思い出』の中にはいつだって、重く、大きく陣取って、決して動かない重要な存在がある。
言わずもがな、今隣にいる人間と同じ名前の相手だ。

当時のあの人と過ごした思い出……彼と一緒にいた時間。
童実野高校で出会ったあたしと、獏良了を『宿主』と称していた彼……

「ねぇ、あのさ、ドミ高……」

あたしが通っていた童実野高校を見に行ってみないか
無意識にそう言おうとして、咄嗟に口をつぐむ。

行ってどうなる。
『バクラ』と過ごした思い出が詰まった学校を、今の『バクラ』と今更見に行って何になると言うのだ。

あの・・バクラとこの・・バクラは別人だ。

隣の彼は、今あたしの傍にいるバクラ・・・だ。
あたしにとってはもうバクラとは、この褐色肌をした彼なのだ。

だから……今更、これ以上は……

「ごめん、なんでもない。
……ちょっと歩いて疲れちゃったな。暑いし。
少し休んで行かない?」

あたしは気を取り直して、少しだけ大袈裟にそう告げた。
視線の先にはカフェがある。童実野町の繁華街には何でもあるのだ。

だが。

あたしの独りよがりのノスタルジックも、繊細な想いも何も知りはしないバクラは。

あたしの言葉に、一瞬黙り込んだあと。
不意にニヤリと不敵な笑みを浮かべ。

「お誘いありがとよ!
で……どこの店にする?」

と、含みたっぷりの声色で返して来たのだった。

彼の視線は到底カフェの方など向いていなかった。

そう。
彼は、大人向けなホテルが立ち並ぶ路地の方に目を遣ったあとに、じっとり熱っぽい眼差しでさらに囁いてきたのだ。

「オレはどこでもいいぜ……!」
と。

「ッ……ばか! そういう意味じゃない!!」

思わず言い返したあたしの心臓は、まるで思春期の少女のようにドキリと跳ねていた。

昨日散々恥ずかしいところを見せあったのに、今更ラブホに誘われたくらいで狼狽えてしまうなんて!


……そう。
この街でかつて思春期女子高生だったあたしは、もうとっくに高校生ではない。

今や大人になってしまったあたしは。
けれど、少女のように少し照れながら、当時を過ごした街にあるラブホにこうして入っていくのだ。

あの頃の相手と同じ名前を持つ、『彼』の手を取って。

指を絡めて繋いだ手の温もりは、いつだって変わらない、たしかな人間の温度だった――


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