番外編T-2



「オマエは『人間』そのものだな。
ちっぽけで、視野が狭くて、激情に振り回されて……
ククッ、だがおかしなもんだ。それがどこか懐かしい」

「え……?」

バクラから発せられる言葉は、どれもあたしの理解を超えている。

でも言いたいことを言い切って気持ちがどこかスッキリしていたあたしは、もう少しバクラと訳の分からない雑談に興じていても良いと思った。

立っているのか、浮いているのか、よく分かんないこの空間で。

「懐かしい……? どういうこと……?」

あたしは聞き返す。

「……さあな」

バクラはいつかのように、薄く嗤って目を伏せた。

そう、彼はいつだってこうして、あらゆる真実をあたしから遠ざけたのだ。

「……お互いもう死んでんだから、いい加減教えてくれたっていいのに。

変な話だけどさ。
あたし、あんたが獏良クンの二重人格じゃなくて、どこかホッとしてるんだ。
普通の人間には理解出来ないモノ……本物のオカルトなんでしょ? バクラって。
あたし、最後の最後まで完全には信じて無かったんだけどさ。
今となっては、やっぱそうだったんだなって」

「…………」

「3000年前の魂……みたいなことを、一度あたしに言ってたじゃん。
現代で宿主を得たとか何とか……
『バクラ』って、3000年前に死んだヒトなの? 幽霊……みたいな?」

「ナマエ」

あたしのまとまりのない質問タイムは、唐突にバクラによって打ち切られた。

それから彼は、あたしに一言「イイもん見せてやるよ」と告げると、その場でくるりと踵を返し、あたしに背を見せたのだった。

「え……何」

背中まで伸びた白銀の髪。

背後からでもわかる、スタイルの良い体躯。
その身体はかつての同級生、獏良了のものでしかないのだが――

あたしはその身体が好きだったのだ。

けれども。

「イイもんて何?
なんで後ろ向いたの??
まさか化粧でもするとか? あはは」

「……オレ様をよく『視て』な、ナマエ」

バクラはあたしに背を向けたまま、そんなことを言う。

「え……だから、見てるって。
背中と頭しか見えないんだけど。
ていうか、その顔、女よりキレイすぎて化粧とか全然いらないよね。羨ましいー、ていうかずるい」

軽口を叩くお馬鹿なあたしは、バクラのまとうコートの裾が音もなくたなびいて、白い髪がふわりと揺れた時に、ようやく『異変』に気付くのだ。

すなわち。

「え……」


風もないのに揺らいだコートの裾。

たった今まで黒かったはずのそのコートが、まるでインクに浸した紙のように、裾からじわじわと赤色に変わっていく。

背中まで伸びていた色素の薄い髪は、毛先を散らすように広がり心なしか短くなって、あたしが見たことのないシルエットを作っていた。

そして袖口から覗いていた彼の白い肌が、まるで日に焼けたように濃くなって――

現実味のない光景。

というか、ここは既に現実じゃないし、バクラが言う通り『視覚』なんてのももはや曖昧なのだろう。

視神経がどうとか脳味噌がどうとかじゃなく、あたしの魂はバクラの魂に触れる。
改めて、『バクラ』を、認識する。

赤く染まったコート――
肘のすぐ下で折られていた袖は今や手首まで伸び、手首を飾っていた現代的な多重巻きのブレスレットは消失し、代わりに金色の派手なブレスレットが輝いていた。

色素の濃くなった肌色の指にはリングが嵌められ、気付けば彼の脚まで素足になっている。
靴すら馴染みのない形状のものに変わっており、あたしは彼の足先から後頭部まで、驚きと訝しみを持って何度も視線を往復させる羽目になった。

「……『視えた』か? ナマエ」

『バクラ』の声が、背中越しに発せられ、あたしは咄嗟に曖昧な返事をすることしか出来なかった。

「……なに、それ……どうなってんの、一体……」

あたしに背を向けたままのバクラは恐らく『バクラ』のはずだ。

でも、心なしか身長さえちょっと小さくなった気がするこの体は、一体どういうことなのだろう……?

もっとも、もはや『体』と表現することすら正しくはないのだろうが。

バクラがゆっくりと振り返る。

あたしは息を呑んで、『バクラ』であるはずの彼を凝視する。

そして。

「…………っ」


日本人である獏良了とは明らかに違う褐色の肌。
頬には大きな傷跡があり、あたしを見つめる眼の色さえ違っている。

髪の色こそ似てはいるが、長さも形も異なっていて、あたしの知っている彼のものではなかった。

惜しげも無く晒された胸元に、パンツスタイルとは違う異国情緒たっぷりの裾の短い服。
これまた堂々と露出している脚は筋肉で引き締まっていて、どこか暑い国の異民族を想起させた。

そして、一番のアクセントとなっているのは、丈の長い真っ赤な上着で――

どこかの王様のような派手なコート……ガウン? ローブ? よく分かんないけど、とにかくあたしには全く馴染みのないモノだった。

そして、顔立ちは……
あたしの知っている『バクラ』とは違うが、不思議とどこかバクラに似ているような気がした。

「……えー…………」

あたしは掛ける言葉が見つからず、ただ目を見開いて立ち尽くす。

『バクラ』であろう彼は、薄く嗤いながら黙ってあたしを見つめていた。

「えっと…………バクラ、なの……?」

やっとの思いで一言吐き出す。
「ああ」という素っ気ない返答は、どういうわけか獏良了の肉体とほとんど同じ声だった。

「……かつて、盗賊王と称された人間が居たのさ。俗に言う古代エジプトってやつによ。
盗賊王バクラ……遠い遠い昔の話だがな」

おどけたようにわざとらしく肩を竦めた彼は、『バクラ』の声でそう語った。

紫がかった双眸。
ぺろりと小さく唇を舐めたバクラは、彼の言う通りやっぱり『バクラ』なのだろう。


「……そう、なんだ」

あたしは何故か高鳴っていく胸の鼓動を不思議に思いながら、何となく彼が言いたいことを察した。

今あたしの目の前に突然現れた『バクラ』は、きっと3000年前のバクラなのだ。
現代で獏良了の体を借りていたバクラという魂の、多分本来の肉体。

華奢でスラリとした獏良了とはまた違う、強そうな異国の男の身体。
だが意志の強そうな眼差しであたしを見つめる顔はどこか幼くて、彼が高校生であった獏良了とさほど変わらない、少年世代であることを物語っていた。

「……なんか、すごい」

現世で何十年も歳を重ねたはずのあたしは、ひどくお馬鹿な感想しか口にすることが出来なかった。

――だって。だって、さぁ……

「……何だよ。もっと感想はねえのか?
それとも、肌の黒い男は趣味じゃねえってか。
あの宿主サマ……獏良了は、だいぶオマエ好みの面だったみてえだもんなぁ?」

「いや……! ううん、そんなことはないよ。
あたし、バクラが居なくなったあと、獏良クンの顔何度も観察したんだけど……、全然ドキドキしなかったもん」

「…………」

「……って、やだ……何言わせるの……?
ていうか、あたし……その体わりと好きっていうか……
あっ、変な意味じゃなくてね? あはは……
と、とにかく、素敵だと思うよ……!」

あたしはどうやら、とうとう狂ったらしい。

盗賊王とやらを名乗ったバクラの前で、あたしの声は無様にも上ずっていた。

何故か。
心臓がばくばくして、顔がどんどん熱くなって、彼の顔を直視出来なくなって、そわそわしだしたからだ。

では何故、そうなったか。

多分答えは簡単だ。
けれどもあたしは、その答えをすぐに受け入れられるほど素直ではない。

だからあたしは、バクラから視線を逸らしながら唇を緩く噛んで、無残に綻びそうになる顔をひきつらせるのだ。

「…………、」

目ざといバクラはさすがに、あたしの異変に気付いたらしい。
彼は無言のまま、あたしの前に立ち尽くしている。

ちらりと顔を見遣れば、その目はまさにジト目としか言いようがない不信感と呆れに満ちていて、その顔がまたカッコ良かったものだから、あたしは柄にもなく頬に手を当てて、キョドキョドと目のやり場を探す羽目になったのだった。

「オマエ……」

バクラが心なしか低い声を発する。

うん、あの、その…………

ああもう!!!!!
あたしは大馬鹿だ!!!
一体どうしたらいいんだ、この状況!!!!


「……言いたいことがあるならハッキリ言えよ、ナマエ」

うん……、ある。
あるけど…………あるからさ、だから、そんなに見つめないでくれるかな……?

さっきから手汗ヤバイんだけど……
もう、中学生じゃあるまいし!!
好きな異性の前でキョドる童貞処女じゃないんだからさぁ!!!

「え…………いや、うん……
言いたいことっていうか…………
えへへ……! なんか良いね、そのバクラ」

本気で自分が気持ち悪い。
けれどどうしようもない。

だって、だって。


今のバクラは、滅茶苦茶カッコイイんだから……!!!!


きっと理屈じゃない。

褐色肌の『バクラ』を見た瞬間、あたしはおかしくなった。

まるで、見えない落とし穴に突き落とされたように。
あたしはバクラに『落ちた』。

もう、憎まれ口すら叩けない。
意地なんか張る意味がない。
それほど今のバクラの姿は強烈だった。

あたしはきっと、改めて『バクラ』に恋をしてしまったのだ。


「ヒャハハハ!!
随分としおらしくなっちまったじゃねえか、ナマエよぉ……!
そんなに『このオレ様』が好みだったってか? ククク……」

バクラのテンション高めの軽口があたしを揺さぶる。
しかしあたしにはもはや反論すら出来ない。

「うん…………まぁ。
ていうかあんまりこっち見ないで……
なんか、照れるから……えへへ」

「………………はァ?」

一目惚れとはこんな感じを言うのだろうか。
いいや、そもそもあたしはバクラが好きだったのだからちょっと違うか。

とりあえずバクラは、あたしの気色悪い反応に、何と返したらいいものかと言葉を失ったようだった。

またもや横目でチラリと見遣ればその顔には『複雑だ』と書いてあり、あたしは耳まで火照った自分の高揚をどうするか、もはや肉体など無いはずなのに考えなければいけなくなっていた。

「現世ではババアだったクセに何照れてんだよ」

バクラはさらりと言ってはいけない単語を口にした。
しかし、今のあたしにはそんな挑発に乗っている余裕はないのだ!

「あは……どうしよう、あたし……」

「つーかオマエ……もう死んでるっつーのに、どんだけ肉体の感覚に引きずられてんだよ。
何ならこの体で可愛がってやろうか?
生きてる時の感覚まんまでイケるぜ、オマエならな」

「えっ……!!!
や、何言ってるの……!?
やぁだ…………恥ずかしいからやめて……からかっちゃやだ……照れる……」

「……………………」

あたしはバクラの前で、まるで中学生に逆行したように思春期を謳歌するのだった。


「その姿がバクラの昔の体だってことは分かったよ。
年齢がそのくらいの歳なのは、獏良クンに合わせたから?
もう少し大人になったらどんな感じになるのかも、ちょっと気になるんだけど……えへへ」

あたしは本当に、どこまで行っても愚かな女だ。

思慮の浅いあたしは、他人の心を何の躊躇もせずにどかどかと踏み荒らす。

「この肉体には『この先』は無ェよ。残念だったな」

「……どういうこと……?
まさかその歳で死んじゃったとかそんな…………
あっ、…………嘘、え……っ
あの、ごめんなさい、そんなつもりじゃ…………
ていうかその歳が一番イイから、今のはただの興味本位っていうかあの……、ごめんなさい……!」

「別にどうってことねぇよ。同情なんざ邪魔なだけだ」

バクラは、あたしの無神経な発言にピクリと眉を動かしただけで、自嘲めいた薄嗤いを浮かべるとそっぽを向いてしまった。

どこかあどけなさを残す横顔。
かつて人間だったバクラは、20年と生きられずに死……いや、『意思』となってリングに宿ったか何かしたのだとすれば、それはあまりにも哀しすぎるんじゃ――

あたしは唇を噛みながら、俯いてバクラの足元に視線を落とした。

それから気付く。

よく見れば、盗賊王バクラと名乗った彼の立っている場所が、石の床であることに。

「…………っ、」

あたしはそれから、目をこらし、辺りを見回した。

ぼんやりと薄暗い世界。

ところどころに落ちる灯りは、電飾……ではなく、燭台……?
やたらとだだっ広い空間は全て石造りのような冷たい印象で、いや、冷たいどころかどこか恐ろしくて哀しいような……

そして、バクラの背後には得体の知れない石盤が横たわっていて。

さらに目を凝らせば、その石盤には何かを収めるような窪みが――


「おい」

不意に声を掛けられ、あたしは我に返る。

「あ……、え……?」

「余計なモン視てんじゃねえよ。
視るならこっちにしときな」

褐色肌のバクラにそう諌められた瞬間、景色が揺らいで変質した。


「う…………、」

照りつける太陽の光。
抜けるような青空。

その足元で無限に広がるのは、一面の砂……砂漠で。

赤い上衣をなびかせ、砂の上に立ち尽くすバクラ。

その姿はまるで、一枚の絵画のように美しさすら感じさせて、あたしは息を呑んだ。

同時に頭の中を疑問符が飛び回り、何事かを口にする前にまた景色がぐにゃりと揺らいで――


次に広がったのは何処かの屋内だった。

現代の機械的な建物ではない。
石を切り出し、あるいは積み上げ造られた空間。

陽光の差し込む広々とした大広間に、天井を支える太い柱。

やたらと明るいような、神々しささえ感じさせるその広間の奥には、椅子……
いいや、玉座とも言うべき座があって――

人気の全く無い広間。
コツ、コツと足音を響かせて、そちらへ向かって行くバクラ。
その背中を黙って見ているあたし。

そんな彼は、突然ガッ、と玉座を足で踏みつけ、それから踵を返すと勢い良く腰掛けた。

「……バクラって、何処かの王様だったの?」

あたしは何の気なしに疑問を口にする。

「…………、」

玉座にふんぞり返ったバクラは、何かを言おうと口を開きかけて、けれどもそのまま声を発することは無かった。

さらに景色は暗転する。


夕暮れ時。

西陽が差し込んでいたのは見覚えのある場所だった。

学校――
かつてあたしとバクラ、ううん獏良了が通っていた童実野高校。

人気のない空き教室。

机の上に座り、雑に脚を組むバクラは――
いつの間にか獏良了の肉体に戻っていて。
いつかのように制服を着込み、不敵に嗤っていた。

まるで奔流のように流れてくる記憶。
ううん、記憶だけじゃなく、感情まで。

「うっそ…………、懐かしすぎ」

まるで、ずっと忘れかけていた思い出の光景が、突如夢の中に出てきたような。

やたらとリアルなそれは、当時の光景から感情までを、余計な雑味なしに、ダイレクトで脳裏に再現させられたような。

あたしとバクラは『当時のまま』、そこに存在していた。

「懐かしー……
そういやこんな風に、放課後の学校で誰も居ないの見計らって、こっそりいけないコトした事あったよね。
誰か来たらやばいって言ってるのに、バクラが割と強引でさ……くく」

「オマエだって充分その気だったじゃねえか」

「まぁね。誰かに見られるかもって思うと余計興奮して……って何言わせるんじゃコラ。
……ていうかもう、あの盗賊王? の姿やめちゃったの? えへ……」

「もう終いだ。また気が向いたらな」

そう返したバクラの表情はちょっと不貞腐れていて。

その態度に、あたしが盗賊王姿のバクラに抱いたよこしまな気持ちをバクラが察したのだと気付いて、ばつが悪くなったあたしは恥ずかしさを覚えたのだった。

「言っとくが、宿主……獏良了の肉体はあれで、なかなか居心地が良かったんだぜ?
それに、もはや肉体なんて意味がねえからな」

ダメ押しで紡がれた言葉に、あたしはこくりと頷いた。


「ねぇ……
バクラって、本当は何なの?
何があったの……? どうして、3000年も封印? みたいのされて、獏良クンの体を宿主としたの?
何が目的だったの? なんでそこまで……

ていうか、あたしと別れた後、何があったの……?
あのクラスメイト……武藤……、武藤遊戯はやっぱ何か関係あったの?
あたし、知らないことだらけだからさ……」

そう。

あたしは当時、バクラから語られる中二めいた『設定』をふんふんと聞き流すだけで、それ以上踏み込まなかった。

彼が何を目的とし、何に苦悩し、そして彼がどうやって意思だけの存在になったのかを、あたしは知らないし知ろうともしなかった。

興味がない、それも多少はあったかもしれない。
でも何より、怖かったのだ、あたしは。

あたしは『バクラ』の全てを知ることが怖かった。
無理矢理知ろうとして、バクラが離れて行ってしまうことが怖かった。

でも結局バクラはあたしから離れていった。
決して抜けない楔をあたしに打ち込んだまま。

こんな風に何十年も遠回りをするなら、あの時噛み付いてでも食らいついておくべきだったのだ。
『バクラ』という唯一無二の存在に。

あたしは本当に、どこまで行っても愚かだ。


視界が揺らぐ。

学校とは違う、日光の差さない室内。

部屋の中心には、まるで何処かの博物館に展示されているような、やたらと大きなジオラマがあって――

ゲームの盤面とも、テーブルとも言えるそれを覗き込むように、あたしとバクラは向かい合って座っていた。

「なにこれ……何処かの街の再現……?
これ作った人すごいね。ていうか何、この部屋……」

テーブルの向こう側に座るバクラは制服を脱ぎ、いつかのボーダーシャツと黒いコートの姿に戻っていた。

その姿は……そうだ。
あたしとバクラが最後に会った、あの日の服装だ。

もし『これ』がバクラの記憶なら、今あたしの場所に座っていた人間は誰なのだろう……?


「教えてやってもいいぜ。オレ様のことをよ」

バクラが唐突に口を開く。
それは先程のあたしの問いかけに対する返答で、あたしはゴクリと喉を鳴らして耳を澄ませた。

だが。

「教えてやってもいいが……
オマエの人生の恥と引き換えだ。
現世でどんな男と付き合って、どんな破局を迎えてきたのか……オレ様に教えろよ。
オマエの無様な男性遍歴ってやつを全部な」

「っはぁ!?!?!?
バッカ教えるわけねーだろ!!!!」

ガタリと椅子を鳴らし立ち上がったあたしは、反射的に叫んでいた。

バクラはとんでもない事を平気で言う。
だいたい、そんなもん聞いて何が楽しいってんだ!!!!

「ククク……ならオレ様も教えてやる義理はねえな」

盤上に肘をつき嘲笑うバクラは、どこまで行っても『バクラ』だ。
彼はきっと3000年前から、こんな風に嗤っていたのだろう。

「な、なん……なんで、そんなの聞いたって意味無いじゃん……
全て終わったことなのにさ……いまさら」

頭の中に、現世の嫌な思い出が蘇る。
心に広がるのはモヤモヤとした気持ち悪い感情。
後悔と、怒りと、失望と――

幸せだった時期だって全く無かったわけじゃない。
けれど、そんな時期は本当に短かったし、最後はどれも最悪な終わり方だったのだ。


「そうだ……『全て終わったこと』さ」

バクラがポツリと吐き出す。

気付けばあたしはバクラの腕の中にいた。

「っ、……ッ!」


日光の差さない部屋も精巧なジオラマセットも消え、空は黒々と染まっていた。

固い地面、街頭から落ちる光、闇に浮かぶ木々――

そうだ、ここはあたしとバクラが最後の逢瀬をした夜の公園だ。

バクラがあたしを抱き寄せている。
あたしの魂に深く刻まれた、その温もり。

ボーダーシャツに簡素な無地のシャツを重ねた、ジーンズとスニーカー姿のバクラ。

彼が腕に力をこめ、あたしは無我夢中で腕を回し返した。
ぎゅっと抱き締めれば、胸に当たるゴリゴリとした感触。

『これ』は、きっとあたしの記憶なのだろう。
この感触すら、今は懐かしい。


「……いつか、心の整理が出来たら、あたしの人生の恥を教えても…………

いや、やっぱ無理!!!!
だって本当、ろくでもないんだから!!
たしかにバクラの思い出に目を奪われすぎて、あたしの性格最悪だったのは認める! 男を見る目が無かったのも認める!
けど、本当に最悪だしあんなの――

ってえッ……!!!!
あ…………っ、や、…………ッッ」

あたしが臆せず抱きついていたバクラの肌が、予期せず褐色に変わっていた。

惜しげなく晒された胸元に、赤い派手な上着。

「や…………、このタイミングは、困る…………
だって、あの、恥ずかしいし…………
心の準備が…………」

盗賊王姿のバクラと抱き合っていると自覚してしまえば、たちまち減る口数。
ギャーギャーと憎まれ口なんか叩いていられない。
この姿は、本当に魔性だ。

「オマエが望んだんだろ」

言い返すバクラの声色はちょっと不貞腐れながらもどこか嬉しそうで、あたしは彼の複雑な男心(?)を知ったような感覚になったのだった。

ばくばくする心臓をこらえながらそっと体を離せば、追いかけてきたバクラがそっとあたしの唇を塞ぐ。

――やっぱりあたしは、まだ現世での肉体の感覚を引きずっているらしい。

盗賊王姿のバクラの唇はとても熱くて、幸せで――

首筋に回した腕で髪に触れれば、獏良了の肉体よりも硬質な髪があたしの指先をくすぐったのだった。

「ん、……」


唇が離れた時、バクラは元のバクラに戻っていた。

ボーダーシャツに黒いコート――
現世で最後にまみえた時よりもオシャレ(?)になった、多重ブレスレットを細い手首に巻き、シャツ以外を黒で統一したスタイリッシュな姿のバクラに。

彼はあたしの腰に腕を回したままで、それに甘えたあたしはそっと彼の肩口に頬を押しつけた。

「ねぇバクラ…………
あたしなんか眠くなってきた……」

「ン……」

もはや肉体なんか無いのに、何処までもおかしな話だ。

あたしはやっぱり、あの世――バクラ風に言うならば冥界(?)初心者なのだろう。

「眠い……か。
いいぜ、このまま寝ちまいな」

耳元であたしにだけ囁くバクラの声は、悪魔のようで、でも優しい。

「このままって……寝ちゃったらあたし、地面で寝ることになっちゃう……?
あたしがガクッてなったら支えてくれるの……?」

「ハッ、分からねえ奴だなオマエもよ。
天も地も重力もここには無ェよ。
オマエが『視た』モノはただの記憶であり、イメージみたいなもんだ。
意識を手放した瞬間、地面にぶっ倒れて頭を打つなんてことにはなりゃしねえから安心しな」

「そっかー……良かったー……」

まるでベッドの中で眠りに落ちる時のように、あたしの意識には霞がかかっていく。

当たり前のようにそこにあるのは、温もり。
あたしはバクラの温もりに包まれてまどろみながらも、最後の意識を振り絞って言葉を紡いだ。

「……ねぇ、目が覚めたらもうバクラは居なくて、あたしは一人だけ現世に戻っちゃってるとか――

ううん、もしかしたら全てが夢で、あたしはまだ高校生でしかなくて、現世で目が覚めたら全て忘れちゃって若返ったあたしは人生を謳歌してるとか、そんなこと、無いよね……?」

心の中に恐怖が滲み出す。
何十年も待ってようやく会えたのに、また離れなければならないなんて、そんなの――

しかし。

「そんな都合のいい話はねえよ……!
……安心しな、オマエはもう何処にも行けねえよ」

「……本当に……?」

「ああ。オレ様と同じさ……
オレ様を見つけちまった時点で、オマエは終わりなんだよ」

バクラはどこか不可解なことを言った気がした。
けれども、今はどうでもいい。

「良かった…………」

安堵の溜息をつきながら、あたしは最後の一言を吐き出した。

「良いかどうかは疑問だがな。
ま……こうなっちまったのも何かの縁てやつだ。
目が覚めたらまたギャーギャー騒げよ。
それまでゆっくり眠ってな、ナマエ……」


バクラの声が……いいや、意思のようなものがあたしの魂を揺さぶる。

あたしはバクラに寄り添いながら、ゆっくりと目を閉じる。

現世ではない何処かで。

光とも闇ともつかない、『全てが終わった』世界で。

あたしはゆっくりと眠りに落ちる――

いつか目が覚めたら、また。
またバクラと沢山話すんだ。

話したいことが沢山ある。
聞きたいことが沢山ある。

あたしという人間が生きた、数十年分の人生。
あたしが全てを語れば、バクラも全てを教えてくれるだろう。

きっと時間は無限にある。

だから。

ありがとう、バクラ。

此処に居てくれてありがとう。
あたしと出会ってくれてありがとう。

おやすみなさい……

バクラ――――



END

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