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その出会いは、ただの偶然だった。
たまたまタイミングが噛み合っただけの、運命のイタズラ。

ただ、それだけのはず――だったのに。




暗闇の中。
互いの息遣いと、体温と。
摩訶不思議な吸引力を持つ肌の感触だけが確かな、そんな闇の中で。

私は、たまたま出会っただけ・・・・・・・・・・の彼と、互いの熱を分け合っていた。



**********


わずか数時間前。

待ちに待ったエジプト旅行に浮かれていた私は、迂闊にも道に迷ってしまい、気付けば人けの少ない路地で男たちに絡まれていた。

金目の物は見せびらかしていないつもりだったが、そこは遠い異国の地。
私の肌色や顔立ちを見れば、観光客であることは一目瞭然だったのだろう。

男たちは私にお金を要求し、私が言う通りにお金を差し出せば、さらにジロジロと全身を舐め回すように見つめてきた。

薄暗く細い路地で前後を塞がれ、逃げ場もなく、声を発することも出来ない私。

終わり・・・、なのだろうか。
そう、頭が真っ白になった瞬間。

「……邪魔だ」

唐突に響いた声は、例の男たちから発せられたものではなかった。

私が、と出会った瞬間だった。


彼は路地を塞ぐ形になっていた私達のことを、文字通り『邪魔だ』と思ったのだろう。
だがそれが、私に絡んでいた男たちにとっては面白くなかった。

男たちは、何だテメーあっち行け、とばかりに彼を押しのけようと手を伸ばした。
息を呑む。

――気付いた時には、男たちは残らず倒れていた。

図らずも助けられた形になった私。
あまりにも鮮やかな光景に唖然とし、その場で固まってしまう。

横顔――まるで何事も無かったかのように、私達を素通り・・・して去って行く彼の横顔、そして後ろ姿。

逆立つような髪。
日差し避けにも見えるマントが、細い路地を吹き抜ける風にたなびいた。

ようやく我に帰った私は、倒れた男のポケットから素早くお金を取り戻すと、反射的に彼の後を追った。

薄暗い路地を抜ける。
差し込む日差しが、彼の輪郭を照らし出した。

――綺麗。
その時私は、彼の髪が色素の薄い金髪であることを、初めて知ったのだった。

「あの……、助けてくれてありがとうございます!
何かお礼をさせてください!」

私の言葉に立ち止まって振り向いた彼は、少し間を置いてから、
「……助けたつもりは無い」と吐き出した。

だが彼にそのつもりはなくても、結果的に私は助けられたのだから、お礼を述べるのはこちらとしては間違いではないだろう。

じっと彼の目を見つめる。
紫がかったような眼の色だった。
少し険のある鋭い眼光、引き締まった口元。
褐色の肌に、逆立つような金色の髪、スラリとした長身。

彼の方も黙って私の顔を見つめていた。
視線が交差し、何か言わなきゃと自分で自分を急かす。

「あの……、実は道に迷っちゃって…………
その、お腹も空いてて、喉もすごく乾いてて……
奢……、ご馳走させていただきますので、どこかごはん食べられるお店に連れて行ってもらえませんか……?」

無意識に距離を詰めた結果、彼の顔がより鮮明になる。

「…………、」

その眉がピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
フイ、と露骨に視線を逸らし、そのまま踵を返した彼は、再びスタスタと歩き始めてしまう。
少し不安になりつつも、後を追う私。


そんな彼が、道端にあるカフェの前で唐突に足を止めた。
チラ、とこちらに視線を寄越してくる。

嬉しさが込み上げる。
笑顔で応え、ありがとう、と告げた。

自分でも分からず何故かテンションが上がってしまい、思わず彼の腕を取ってやんわりと抱き寄せてしまう。
彼は何か言いたそうに口を開きかけたが、黙っていた。

なんとなく、可愛い人だなと思わずにはいられなかった。



危険な目に遭ったけど彼に助けて貰えたこと、一度は奪われたお金を取り戻せたことですっかり上機嫌になった私は、食事中の話題がてら自分の名前と観光旅行中である旨を告げた。

マリク・イシュタール。
彼が私に告げた名前。

私はマリクの前で好きなものを注文し、食べて飲んで笑った。
お酒が置いてあるこの店は観光客も多い店で、彼が一人で訪れた事はないという事実を知ったのは、私がお酒を何杯も飲んで少し酔ってしまった後だった。

「ホテルに帰らなきゃ……、でもマリクのこともっと知りたいなぁ……」

そんなことを言って別れを惜しんだ時点では、妙な下心は無かったと断言……出来るかどうかは怪しかった。
あんな危険な目に遭ったばかりなのに、警戒心が無さすぎだと今では思う。

けれども、結果的にこの不用意な行動が私にとっては幸せをもたらした。

マリクはほろ酔い状態の私がくっついて離れなかったので、仕方なくそのまま自分の家に連れて行くことにしたらしい。
どこへ行くの、というかどこへ連れて行かれてしまうの、とその時の私は何も訊かなかった。

これは結果論でしかないが、私はきっとマリクに一目惚れしていたのだと思う。
でなければ、どう見ても怪しく薄暗い地下の住居に連れて行かれた時点で、拒否感を覚えていただろうから。



マリクの部屋には窓がなかった。
当たり前だろう、ここは地下なのだから。

昼なのか夜なのか分からない闇の中。
そこに辛うじて明かりを灯し、生活を営んでいるらしい。

「……ん、水ありがと。もう酔ってないよ。
変に絡んでごめんね? 嫌じゃなかった……?」

マリクの寝台に座って、脚をプラプラさせながら部屋を見回す。

なんか秘密基地みたいだなぁ、という感想はなんとなく不謹慎な気がしたので黙っておくことにした。
だが代わりに紡いだ言葉も、決して健全とは言えなかった。

「なんか……薄暗くてちょっとムードあるね」

隣に腰掛けたマリクが、鼻で嗤って口を開く。

「明かりを全部落としてしまえば、ここは光のない真っ暗闇だ……
今はそうやって笑っていられる貴様も、闇の中では怯えて震えることしか出来ないだろうよ……」

どこか挑発的でいて、ほんの少しだけ寂しさが滲んだような物言いだった。
思わず言い返す。

「真っ暗闇が怖いわけじゃなくて、真っ暗だと足元が見えなくて怪我しそうだから危ないってだけだよ。
前に暗闇でモノに躓いて、足ヒネっちゃったことあってさぁ……旅行先で怪我なんてしたくないもんね。
それに、マリクが居れば真っ暗闇の中でも多分平気だよ……!」

言い切った直後、ちょっと強気すぎたかと自分の発言を反省したが、何故かマリクはクククと笑っていた。

「ごめん、私変なこと言っちゃった……?
ほら、文化の違いだよ、ブンカのチガイ!
……変な女でごめんなさい……」

私の謝罪(?)に、マリクはさらにフフと不敵に笑っていた。

蛍光灯ですらない、原始的な蝋燭やランプの明かりが、彼の整った顔立ちを浮かび上がらせる。

目の輪郭を縁取り、頬まで伸びるエキゾチックな模様。少し眠たげにも見える双眸と、反面その奥に潜むどこか不穏な気配。

体の芯がゾクゾクと期待に震えた。

「貴様は……」

マリクが何か言いたげに口を開いた。
私は勇気を出して彼に抱きつき、ずっと思っていたことを口にしてみた。

「貴様って言わないで。名前で呼んで……」

――ひと呼吸置いてから、耳元で囁かれた私の名前。

嬉しくなってじゃれるように唇を重ねてしまえば、もう言葉は要らなかった。


**********


朝方。
母国からはほど遠いはずの、異国の地で。

出会ったばかりの男に身体を許し、男の寝台ですやすやと呑気に眠り続ける女。
そんな女のことを、マリクはただ黙って見下ろしていた。

女の肌にはあちこち鬱血痕と薄い傷跡が残っている。
……そう、土台無理な話だったのだ。
相手の女を気遣いながら、お行儀よく紳士的に身体を重ねる、なんてことは。

だが目を覚ました女は、ゆったりと伸びをすると、間の抜けた声で
「おはよう〜……」とごく自然に挨拶してきた。

…………ありえない。
マリクが複雑な気持ちで彼女をじっと見つめれば、さすがに視線に気付いたのだろう。

彼女は、
「あ…………、まだエッチなコトします??」
と、見当違いも甚だしい呑気な台詞を吐いたのだった。
それも、照れた顔でモジモジと少し恥じらいながら。

(――なんだこの女は)

それが、彼女と出会ってから一晩経ってもマリクが一貫して抱いている、彼女への印象だった。


**********


「性癖って人それぞれだからなぁ……さすがに首絞められた時は、このまま殺されちゃうのかな? ってビックリしたけど……
でもなんだかんだであんまり嫌じゃなかったし。強めに噛まれたのも……痛いけど、嫌いじゃない、みたいな……
私そういうの、ある程度は大丈夫なタイプみたい!
なんてね〜」

そう告げた時、マリクは少し驚いてから眉根を寄せると、目を細めて私を凝視してきた。

その顔には『ありえない』と書いてあったが、実はドン引きだけじゃなく少しだけ安堵も浮かんでいたことに、彼自身はきっと自覚がないのだろう。

「それより朝食ご馳走になっちゃってごめんね、これ美味しいね〜!」

なんて二の句を継いだ日には、さらに彼はまるで奇妙な昆虫でも見るような顔をして、何か言いたげな様子で私を睨めつけてきた。

なんか可愛い。
彼のどこか微笑ましい反応に昨晩とのギャップを感じて、自然と笑みがこぼれてしまう。

そう、昨晩は、私にとってはこの上なく濃厚で幸福な一夜だった。
私を組み敷く彼は少し凶暴で、ちょっと邪悪で――でもその灼熱が、私にとっては大層心地良かったのだ。

身体の芯から、全てが恍惚に打ち震えるような至上の感覚。
変な話だが、こんなに気持ちが良くて幸せな陶酔感が、この世に存在したこと自体が驚きだった。

それは、初めての相手なのにこの上なくしっくりとくる、まるでピタリとはまるパズルのピースのような、深く溶け合うような感覚で――

体の相性が良いのかもね。そう言おうとして、でも私だけがそう思ってたら恥ずかしいなと思って、「全部大満足!」なんておどけて言ってみる。

けれどもこっちの方が余程恥ずかしい台詞だったということに、彼の複雑な表情を見て気付いたのだった。



地下にいてはわからないが、既に日は昇っているのだろう。
昼間は気温が高いこの国も、マリクの住処であるここはさほど暑くならないらしい。

涼しいのは有難いのだが、そこはせっかくのエジプト旅行。
行きたい場所は色々あるし着替えもしたい。
軽い手荷物以外はホテルに置きっぱなしだし、さすがに帰らなきゃ……、と呟いて、けれど同時にマリクとお別れする寂しさを感じた私は、駄目元で正直に申し出てみた。

『もっと一緒に居たい、けど観光地にも行きたい』と。

結果は意外なものだった。
マリクは私のわがままを受け入れ、私が行こうとしている場所へ一緒について来てくれることになったのだ。

え、いいの? 嬉しい、ありがとう!
と素直にお礼を告げてついでに抱きついてみれば、彼はフン、と軽く鼻で嗤っただけで私を引き剥がさなかった。

このまま抱きついているのも悪くないなぁなんて、ついそんなことを考えてしまうのだから、私はマリクに会ってからもうずっと浮かれ続けているのかもしれなかった。



それから数時間、十数時間…………、数日間。
私はまだ、マリクと共に居た。

ホテルの部屋へ荷物を取りに帰る際に彼を連れてきて、私がシャワーを浴びて着替えている間なんとなく部屋へ招いてみたら、また成り行きで妙なコトになってしまったし、気を取り直して身支度を整え観光地へ出かけ何となく一緒に散策をしてみれば、彼は他の観光客でごった返している史跡をつまらなそうに眺めつつも、それでも私と一緒に居てくれた。

私が変に盛り上がって恐る恐る彼の手を握ってみたら拒絶されるどころか渋々握り返してくれたし、その晩も別れることはなく――

結論から言って、私は最終的にホテルを引き払い、ガラガラと荷物を引きずって、毎晩マリクの部屋で寝泊まりすることになってしまった。
しまったというか私が望んだことだし、何となく彼もそれを望んだようだった。

もちろん申し訳ないので滞在費を彼に支払ったところ、彼の家で出される朝食や夕食に私の分が追加されるようになり、さらに申し訳ないと思いつつも全てを美味しく頂いた。

マリクの家から遠く離れた場所にある目的地は思い切ってキャンセルし(ピラミッドはここへ来る前にもう見たからとりあえず満足なのだ)、観光客に人気の有名な遺跡ではなくてもマリクの知る範囲で昼間は色々な場所へ連れて行ってくれたりもした。

私は完全にタガが外れ、マリクもまた本能を遠慮なく剥き出しにするようになり、私達は飽きずに何度もこの薄暗い地下室で睦み合った。
まるで、水を得た魚のように。

それはまさに蜜月だった。




「日本に帰りたくないなぁ……」

帰国の日が迫り、私は思わず小声で呟いた。

寝転がったベッドの上。
隣では上裸のマリクがカードを弄りながら
「帰らなければいいだろう」とこちらの呟きを丁寧にも拾って返してきた。

「そうだね……そう出来たらいいよね」

口にしながら、下着姿の私はマリクの腰回りにぐだぐだとじゃれつく。

彼の身体の感触も彼が発する心地良い匂いも、この数日間ですっかり身近なものになってしまった。
それはまるで、もうずっと前から彼と一緒にいたのではないかと錯覚してしまうほどに。

マリクにはイシズさんというお姉さんが居る。リシドさんという家族が居る。
マリクはとあるカードゲームの猛者で、食べ物の好き嫌いだってある。
マリクは欲望を覚えた時に少し熱っぽくこちらの肌を撫でてくるし、お馬鹿な話でも何だかんだでちゃんと聞いてくれる――

私はこの数日間の間に、マリクという人間を少しづつ着実に知っていった。

けれど、そんな濃密な時間ももう終わりだ。
私は日本に帰って元の生活に戻らなければならないし、マリクは私が居なくなっても何も変わらずこの国で毎日を過ごして行くのだろう。

私達の出会いはただの偶然であり、一過性の非日常な時間であり、
『旅先で出会った男と観光客の女の、他愛ないロマンス』でしかない。

そうでしか、ないはず。
……ないはず、なんだけど。



「マリクと過ごした時間、とても楽しかったよ……。
楽しかったのもそうだし、すごく幸せだった……こんなに幸せだなって思えたの、初めてかも。
日本での生活がなければ、ここに住んじゃいたいくらい」

「…………」

「本当に……嬉しかった。
マリクのこと絶対忘れない……
またいつか絶対エジプトに来たい。
それで、またあなたに会いたい……!
なんて言うと、しつこいかな? って思うね、ごめんね、あはは……」

「……。次はいつ来るんだ」

「え……? うーん……いつかな……
お金貯めないとね! 無駄遣いやめなきゃ……」

「…………、」

「……ずっと仲良くしてくれてありがとね。
マリクと一緒にいられて嬉しかった。
ごはんも美味しかったし、泊まらせてくれてありがとう……
私が居たからベッド窮屈だったよね、それなのに毎晩……本当にありがとう」


彼と別れる瞬間には、恥ずかしいかな涙が溢れて止まらなかった。
いい思い出が出来たねと、笑ってバイバイしたいのに。
だけど、どうしても別れの切なさで胸がいっぱいになり、声が震えてしまう。

視界が滲む。
ぼやけた世界の中で、マリクが何か言いたげな顔で私のことをじっと見つめているのが分かった――それはきっと、私が日本へ帰る日の前の晩からずっと。

最後の夜に、彼は私を腕の中に閉じ込めながら、
『帰りたくなけりゃこの地下の穴蔵に永遠に閉じ込めてやるよ』と言った。

不穏でほの甘い冗談に、思わずハイと答えたい気持ちをこらえつつ、適当に笑って誤魔化すことしか出来なかった。

別れの寂しさがこんなにキツイものだなんて。
どうしてこんなに胸が締め付けられるような苦しさなのだろう。心臓が悲鳴を上げている。

特定の誰かと離れ離れにならなければならない寂しさ、苦しさ……こんなの、マリクと出会うまで知らなかった。

だから私は、結局どうしても彼にサヨナラを告げることが出来なかった。
かわりに口にしたのは「またね」。
再会を誓う言葉。恐らく叶わないであろう、その言葉。

私のまたね・・・を、マリクは黙って聞いていた。

そうしてエジプトの地を後にした私は、喪失の虚無感と寂寥感を手放せないまま、日本へと帰って来たのだった。


それから幾日もの時が過ぎた。




**********


日本へ参ります、と彼女は凛と告げた。

イシズ・イシュタール。
墓守の一族であり、エジプト考古局の局長でもある女性。
マリクの姉である彼女は、この度仕事で日本に赴くこととなったらしい。

そんなイシズの側には、リシドが控えていた。
マリクを頼みましたよ、と声を掛けられ、リシドは当然のごとく承知をして一礼をする。
その時だった。

「オレも日本に行くぜ……」

唐突に割って入って来たのはマリクだった。
一瞬驚きの表情を見せたイシズが、素早く気を取り直し彼を諌める。

「マリク、これは遊びではないのですよ。
あなたが一体日本に何の用があると言うのです」

今回の日本行きはあくまでも仕事であり、遊び目的の観光旅行ではないのだから付いてくるな――イシズは遠回しにそう述べていた。

観光などと浮かれるタイプではないマリクが、珍しいこともあるものだ――とリシドは考えながら、彼の続きの言葉を待った。

だが。
次にマリクから発せられた言葉は、二人をさらに絶句させることとなった。

「何の用だと……?
オレの女を迎えに行くんだよ」


……………………。

「女……。もしかして、この前あなたと共に居た旅行者の女性ですか?
そういえば彼女も日本人でしたね。名前はたしか、瑞香……」

マリクの唐突な『オレの女』発言に、イシズが自身の記憶を探るような素振りを見せた。

リシドもその瑞香のことは知っていた。
どういう訳かマリクと仲良くなり、彼の私室に入り浸っていた女性。

彼女に対して特に悪い印象があったわけではない。
彼女は挨拶をした上できちんと滞在費を払ってきたし、家で出した食事を美味しそうに全て平らげていた。
ニコニコとよく笑う瑞香は、随分とマリクにベッタリで――

むしろ、こう言っては失礼だが、あの気難しいとも言えるマリクがよく女性に好かれることが出来たなと……また、あのマリクがよく人並みに一人の女性を気に入ることがあったなと……リシドはそんなことを考えていたのだった。

だが。一つだけ問題がある。
どうやらマリク自身は気付いていないらしい、問題が――

「マリク……。しかし、あの女性は…………」

先に口を開いたのはイシズだった。
彼女は何かを言い淀みながらリシドに意味ありげな目配せをしてくる。

そうだ。イシズにもきっと分かっているのだ。
あの歳若い旅行者の女性が、あくまでも観光客・・・であることを。

「あちらの国の方は……、その……女性なども、価値観が違いますから……」

弟に対するものとは思えないほど、イシズにしては精彩を欠いた物言いだった。
彼女は弟を傷つけまいと、明確な発言を避けているのだ。

つまり。

『旅先での一時的なロマンスに浮かれただけの女性が、自国に帰った今、あなたのことなど待っているわけが無い』ということを――

だが、明言を避けたことできっとマリクにはイシズの真意は伝わらず、ありもしない期待を抱き続けることにより余計に傷つくのは結局マリク自身なのだ。

――言わなければ。
それがたとえ、どれだけ残酷な事実であったとしても。

リシドはイシズの言葉を継ぐ形で、意を決して口を開いた。

「マリク様……失礼ながら、あの女性はもう、あなたのことを……」

口に出した瞬間、けれどどうしてもそれ以上言葉を続けることが彼には出来なかった。

――待ってないなどと、言い切ってしまって良いものだろうか。

突然降って湧いた疑問が、リシドの発言に待ったを掛ける。

――いいや、しかし。常識で考えれば、明らかなはずだ。

瑞香が本当にマリクを愛していたならば、再びエジプトに来る日を明言するなり、具体的な再会を約束するなり、連絡先を交換するなりやり方はいくらでもあるはずだ。

だがそれをしなかったということは。
やはり、瑞香は――……

「何が言いたい……?
オレが迎えに来るのを待ってるんだよ、あの女はなぁ……!!」

イシズとリシドの懸念をものともせず、どこか興奮した口調で言い切るマリク。

二人はそれきり何も言えず、顔を見合わせることしか出来なかったのだった。



**********


あれから何日経っただろう。
エジプト旅行から帰ってきた私は、すっかり元の生活に戻っていた。

休日以外は毎日決まった時間に起きて、決められたスケジュールをこなす――
一人暮らしの私には、自分の生活を自分で完結させる以外に術はない。

毎日一人で起きて、出かけて、空っぽの部屋に帰ってくる。
帰国して十日も経てば、あの旅行先で見た様々な遺跡、味わった異文化な食事なんかは徐々に思い出として記憶の底にしまわれつつあった。
そしてそれは、『旅先でのロマンス』でさえ――


…………………………、

――――否。

過ぎ去りし思い出になど、なっていなかった。
あのエジプト旅行の中で、ただ一つ、私にとって『ただのいい思い出』で終わらない存在。

マリク・イシュタール。

きっと巷では、旅先で盛り上がってしばし時間を共にしただけの、『一時的なロマンスの相手』と定義されるヒト。

けれども私にとっては、どれだけ時間が経とうとも、彼と過ごした時間を『旅先での思い出』にすることは出来なかった。
それどころか、徐々に風化していくと思われた彼への想いや執着が、日に日に増して行くような有様なのだ。

どこに居ても、何をしていても、彼と共に過ごした日々を思い出してしまう。

彼の顔。私に喋りかける声。私を捕えて離さない温もり。安心できる匂い……
思い出すだけで身体が疼く。
マリクを欲して、何度も彼と溶け合った場所が切なく蠢いた。

ああ何故、何故今ここに、マリクは居ないのだろう!!

日常に帰ってきた今ならハッキリとわかる。
あれは、雰囲気に流されただけの一時的なロマンスでも、非日常に浮ついただけの高揚感でもなかったのだ。

私はマリクのことが好きだ……!!
彼を心から愛している!!

「会いたいよ……、マリク」

何故、あの時。マリクが冗談でも『地下の穴蔵に閉じ込めてやる』と言った時。
私はハイと答えてしまわなかったのだろうか。
きっと当時の私は、自分自身の本当の気持ちに気がついてなかったのだろう。

後悔ばかりが胸に広がり、心臓を切なく締め付けてしまう。涙が勝手に溢れてくる。

身体と心にぽっかりと穴が空いたようになって、ほとんど無意識に足りない・・・・部分に指を這わせる。
彼を想いながら触れる自分自身は、いつだって滾々こんこんと潤っていた。

けれども、どれだけ自分で自分を慰めても本物・・にはほど遠いのだ。

マリクが欲しい。本物のあなたが欲しい……!
思い出になんか出来ない。
あなたに会いたい……!!

マリクに会いたい。今すぐにでも。
もし再会出来たら、その胸に飛び込んで、二度と離れないのに……!!

――だが、それが叶わないのも分かっている。

遠いエジプトの地で、マリクはまだ私のことを憶えているだろうか。
お金を貯めて、休みを作っていつか再びエジプトの地を訪れたとしたら、マリクは私を出迎えてくれるだろうか。

マリク。

「会いたいよ……、ん……っ」


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