地獄だって歩けるよ


疼痛まではどうにか我慢ができた。
 巷では「オシャレは我慢」だなんて言葉もあるくらいだし、私はお洒落とは程遠いけれど、言わんとしている意味は分かる。たとえ足がマメだらけになろうとも、擦り剥けてそこから血が滲もうとも、何食わぬ顔で背筋を伸ばしていられるような凛々しく綺麗な女の子は、同性の目から見ても、とても眩しい存在だ。
 思うにそういう素敵な女の子は、歴戦の兵士よろしく日頃から弛まぬ努力を重ねに重ねて、美しくも強靭な足を育てているのだろう。どんな女の子でも、素の肉体にそこまで大差はない筈だ。日頃の優美な仕草だって、一朝一夕のやせ我慢ではない筈だ。傘の先端のように厳めしいハイヒールを履きこなして、雨が降ろうとも雪が降ろうとも文句の一つも零さずにしゃんと胸を張って闊歩するような青い日々が、彼女達の立派な足を形作っているのだろう。
 対して学校指定のローファーか、或いは可愛い色のスニーカー、うんと背伸びをしたところで踵が低めのパンプスくらいにしか馴染みのない私の足は、悲しいくらいに嘘を知らず、悲しいくらいに貧弱だった。慣れない下駄を履いて歩きまわったことによって、惨めなまでにズタボロになっていた。

「ヒャハハ! 新品だろうに縁起でもねえ! 終わってるぜ! お前!」
 私の下駄の鼻緒が切れた時、バクラは愉快そうに笑って言った。
 猛暑を少し過ぎた頃、付近の町にてしめやかに開催される夏祭りは、秘密の恋に溺れる学生にとっては、甚だ蠱惑的なイベントだった。どれだけ用心を重ねても、意外に狭い童実野町では同級生に遭遇してしまう恐れがある。それを思うと、バクラを夏祭りに誘うことは、どうしてもできなかった。ただでさえ彼は目立つし、地元では有名人だ。私は構わないとしても、彼の「宿主」である獏良くんにまで迷惑をかけるのは本意ではない。一応、これでも自制心は持っているのだ。むしろこの自制心だけが、道ならぬ恋に熱狂する私の胸に残された、たった一切れの理性と言ってもいい。
 そんな頑とした一線を引いている私でさえも、うっかり惑わされてしまうくらいには、件の夏祭りの求心力は凄まじかった。何と云っても私も年頃の女だから、好きな男の子との露店巡りや共に見上げる打ち上げ花火、二度とは訪れないであろう夏の日の閃光には、理屈を抜きにしてひどく心惹かれるものがあった。
 離れているといっても、距離にしてみればせいぜい数駅程度の隔たりだ。バス一本で楽に行き来できるような近距離だ。結局は地元に変わりはないのだから、同級生と鉢合わせないという保証はどこにもない。ただ、それでも童実野町の夏祭りに行くよりは遥かに遭遇率は低い筈だ。何の根拠のない、私の希望的観測に他ならないが。
 そういった、誰憚ることなく恋を謳歌できるかもしれないという未知の開放感やそれに付随する仄暗い欲望が、やや離れた地で催されることだけが特徴の静かな夏祭りに、分不相応の魔力を与えていたように思う。
 いくら悶々としてみたところで、私が一人で盛り上がっているだけだろう。こんなどこにでもある有り触れたお祭りに、彼の目を引くようなものは何もないだろう。誘っても、きっと来てはくれないだろう。半ば諦めてはいたけれど、駄目で元々だと開き直り誘ってみると、意外なことにバクラは嫌な顔はしなかった。「ああ? 夏祭りだと?」と怪訝な顔はしたものの、後に続いたのは断固とした拒絶でも冷ややかな嘲笑でもなく「で、それはいつなんだよ」という、思いの外に柔らかな問いかけだった。
 私は彼の気が変わらない内にと、大急ぎで去年買ったばかりの浴衣を引っ張り出して、安物だけれど下駄も新調した。ポリエステル製の浴衣は赤い地で、あちらこちらに大きく桃の花がプリントされている、値段の割には見栄えの良いものだった。桃の花の中央には淡いピンク色が使われていたので、下駄の色もそれと合わせた。こんな小細工をしたところでバクラは私の足元なんて見ないだろうけれど、この手の工夫は自己満足だ。気付かれなくても、別に構わないのだ。
 可愛らしい下駄だった。まるで最初からセット売りになっていたかのように、去年買った浴衣によく似合っていた。
 ピンクの鼻緒が挿げこまれたその下駄は、逸る私の足を乗せて、幾度となく石畳の上を飛び回った。人熱れした波を縫い、色々な美味しいものが置いてある露店へと引き寄せられて、時に階段を上り、時にバクラとはぐれないように歩を速めて、かと思えば混雑する群像と息を合わせて立ち止まり、牛が歩むようにゆっくり進んで、そんなことをしている内に、見る見る時間は流れていった。

「あーあ…………、」
 全てが、遠い昔に過ぎ去った絵物語のようだ。
 石畳の上に投げ出された私の下駄は、今や履物の役割を完全に放棄してしまっている。あんず飴を買った時だろうか。不運にも鼻緒が切れてしまったのだから、もうどうしようもなかった。
 おまけに――――私の足の鍛錬が不足していたのか、安さにはそれなりの理由があったのか。急に決まったので熟考するだけの時間がなかったことと、手頃な値段に飛びついて碌に試着もしなかったことが相まって、一時間ばかり夏祭りを堪能した私の両足は、与えられた幸福の対価を支払うように、所々が皮剥けて、真っ赤に腫れあがっていた。
 「どうやって帰ろうかなぁ、今日……」
 神社の石段に腰かけながら指の間をぐっと引き伸ばすと、隙間を夜風が通り抜けていって、とても気持ちが良かった。相変わらず靴擦れ特有のじんとした痛みはあるけれど、元凶である下駄を履いて歩き回らなければどうということもない。尤も、履きたくとも物理的に履ける状態にないのだから、これは余計な算用か。
 勝手に任を解いた下駄を一瞥すると、あれだけ鮮やかに見えていたピンク色は無惨にも引き千切れて、すっかりと色褪せていた。惨めたらしく石の上に蹲り、在りし日の輝きは跡形もなく消え去っている。
 疼痛までは、どうにか我慢ができた。
 たかが靴擦れ如きで、夢にまで見たバクラとの夏祭りを中断するなんて以ての外だし、私はきっと痛みをおくびにも出さず、苦痛の素振りも見せず、普段通りにヘラヘラと、笑って過ごせていたと思う。
 しかし、疼痛には耐えられてもその疼痛を与えてくる下駄自体が駄目になってしまったのだから、最早意地の張りようもないのだ。綺麗な女の子のように歩いてみたくても、肝心の意地を乗せてくれる履物が壊れてしまったのだから、今の私の足はこうして虚しく宙を掻くのが精一杯なのだ。

「ここで大人しく待ってな! 忘れてなければ後で迎えに来てやるからよ」
 バクラがそう言い残してから、どれくらい経ったのだろう。恐らく半時間も経ってはいないのに、一人で過ごしていると無用に長く感じてしまう。彼はあれで優しいので折を見て迎えに来てくれるとは思うけれど、今はどこで何をしているのだろう。一人で露店を回るなんて柄ではないし、誰かに因縁でもつけられていなければ良いのだけれど。
 携帯をいじる気にもなれずぼうっと前を眺めていると、途端に付近の空気が濃く、重くなっていく感覚があり、しかし奇妙にも酸素は薄まった気がした。何だろう、と目を凝らすと、答えはすぐに見つかった。要は煌びやかな表舞台から疎外されていた暗闇が、ここへ来て一挙に私の眼前へと押し迫って来たのである。どこまでも抽象的な話だが、そうとしか表現のしようがないのだから仕方がない。私の頭は、非現実的で異様なその現象を、一瞬にして理解した。それはとても不思議な感覚だった。切なくなるほどによく澄んだ、深い色味の闇だった。
 意地を張れない二本の虚無は、吸い寄せられるようにして訪れた闇と気安く番った。普段日に当たることのない足の甲は、肉体の中でもとりわけ色の薄い箇所だ。墨が躍るような夜霧の中を、私のみすぼらしく擦り切れた、白くて赤い足が緩やかに麗らかに泳いでいく。ぐるぐると無心で回り続けていると、空間が攪拌されていくように闇が疎らになってきて、やがて私の兄元には、丁度綿アメが出来上がるのと同じ要領で、甲も五指をも包み込む、漆黒の靴が生じつつあった。
――――なんて素敵な靴なのだろう。これならずっとついて行けそうだ。バクラについて行けそうだ。
 彼はいつでも私の先を歩くから、私はいつでも少し焦っている。置いて行かれたりしないだろうか。足を引っ張ってはいないだろうか。捨て置かれるくらいなら、いっそ燃やし尽くしてほしいのだ。私の両足は、地上の土を踏みしめる為にあるものではない。穏やかな歩みの為にあるものでもない。ただ、バクラを追う為にあるものだ。
 すぐ隣を歩くことはできずとも、彼の影に触れられる距離に、同じところへ行ける位置に、永久に離れない程度に、纏わりついていられるならば、私はそれで満足なのだ。それ以外は何も望まない。欲しいものなんて他にはない。
 靴は着々と形を成していく。
 私はそれを眺めながら、バクラの後ろ姿を思い描いた。同時に、闇の中で一際光る白銀の、一房一房に宿る無数の光点に魅入りつつ、あたかも誘蛾灯のように彼を目印に進んで行く、私自身を夢想した。
 歩いている場所が無明の地獄であろうとも、何も怖くはなかった。バクラは紛うことない光だし、足元には立派な靴もある。何を怖がることがある。怯える理由がどこにある。
 進んで行け。離れるな。想いの強さだけで食らいつけ。彼のいない私なんて、もう考えることもできないのだから。


「……おい! 危ねえ遊びしてんじゃねえよ! こんな雑魚共に良い様にされやがって」
 五感が声を拾った途端、夜霧が急に消え去った。殆ど条件反射のように顔を差し向けると、そこにはバクラが立っていた。
 残暑の風が頬を擽り、恋人の影が瞼に落ちる。
 石段を上がってくる気配なんてなかったのに、どうしてすぐ傍にいるのだろう。背後に負った月明りが禍々しくも神々しくて、月を従えているかのようだった。
「あっ……!? ……バ、バクラ! おかえりっ……!?」
「チッ……」
「帰って来てくれたんだ……!」
 青白い月光の元、彼は少し苛立ったように眉根を寄せていたけれど、これは心底怒っている時の顔ではない。強いて言うならば、私の挙動に呆れている時の顔だった。
 もしや焦っていたのだろうか。バクラの息は乱れておらず、汗の一筋も垂れていない。どこにも焦燥を匂わせる要素はないというのに、何故そう思ったのだろう。長年――――思い返せばこの付き合いが始まってからまだ一年も経っていないのだが、彼との濃密で淫靡な日々が齎した、ある種の霊感なのだろうか。
「神社っていうのは腐っても神域だからな。中にまでは入っては来れねえんだよ。危ねえのはその周辺だ。要はここから締め出されたような悪い連中が、息を潜めて辺りの様子を伺ってるってワケだ。いい具合に惑わせそうな間抜けがいないかどうか、よーく目を光らせてな!」
「…………うん……?」
「ケッ、ぼけっとしやがって。何も分かっちゃいねえな、てめえは!」
 手の中央にできた輪は、あっという間に崩れて弾けて、中指が私の額をぴしゃりと打った。
「いっ!」
 私の素っ頓狂な声で幾分か溜飲が下がったのか、バクラはそれ以上の追撃はせず、心なしか表情を和らげて、軽く顎をしゃくった。
「おら、足出せ」
「えっ、なに?」
「いいからさっさとしな」
 意味が分からずまごついていると、バクラの右手が私の目の前まで回ってきた。今の今まで気が付かなかったが、彼はずっと手に何かを持っていたのだ。
 それが何か履物の形をしていると視認できた時には、物体Xは石畳の上で下駄の姿に収まった。
 見ると、とても綺麗な下駄だった。天と言うのだろうか。足を乗せる部分の台は目も眩むような見事な朱塗りで、対する鼻緒はひどく落ち着いた夜の闇色。仮に京都や奈良の伝統工芸品だと言われてもあっさり納得してしまうくらい、気品と重厚感があった。色合いこそ派手ではあるが、虚仮威しのような軽やかさが一切なく、比べるのも失礼な話だが、私が先程まで履いていた下駄とは雲泥の差だった。
「え!? どうしたの、これっ……、か、買ってくれたの……!?」
「ンな訳ねえだろ」
「……!? じ、じゃあどう」
「そこの的屋で取ったんだよ。チッ……、レアカードの一つでも置いとけばそっちを取ってやったのに、ロクなモン置いてねえ」
「……もしかして、だけど……わ、たしに……くれるの? この下駄……」
「なんだよ。オレ様がこれに用があると思うか?」
「ううん……」
「なら、そういうことだろ」
 顔を合わせているのも照れ臭くて、知らず知らずの内にバクラから目線が逸れていってしまう。彼は始終淡々と話していたけれど、私は高揚感と緊張で、それどころではなかった。
 胸の音が、とてもうるさい。心臓に大きな羽が生えて、それが今から羽ばたく練習をしているかのようだ。以前、千年輪によって穿たれた胸の穴から心臓へ、何か注入でもされたのだろうか。例えばカフェイン、例えばアルコール、例えば迫りくる死の恐怖、例えば制御もできない恋心…………。
「気に入らねえなら捨てるぜ」
「……そ! そんなことない! そんな訳ない!! いった! すっごく気に入った! こんな綺麗な下駄が履けるなんて本当に幸せ! 私には勿体ないくらいだよ! な、なんか……ごめんね! 気に入らないとかじゃないの! ただ、全然実感が湧かなくて! 幸せすぎて怖いっていうか……これ、夢じゃないよね!? 全部私の妄想だったり……しないよね……!?」
「ああ?」
「だって……なんか、すごいんだもん。今日…………、すごいんだもん……。私、なんだか死ぬ前に見る夢みたいで……」
「死ぬ前に見る夢だぁ?」
 バクラの声は嘲笑交じりではあったものの、その中にも不思議な親しみが籠っているような気がした。そのまま顔を下に向けていると、頬を引っ張られる感覚があり、皮膚に生じた鈍痛を通じて、私の世界の色はどんどん鮮度を取り戻していった。
「い、いひゃひゃ……」
「ハ、痛えかよ、そいつは良かったじゃねえか。まだ死んでねえってことだ」
 石畳の上の下駄が宙に浮く。一瞬、私の幻覚かと目を疑ったけれど、艶めかしいまでに白いバクラの薄い手の平が、下駄を持ち上げていたのだ。
 私のすぐ足元まで辿り着いたその下駄は、まるでこの世ならざる履物のようだった。土台の朱塗りは盛る業火の色彩で、鼻緒の漆黒は決して切れない縁の暗喩。極めて繊細な筆致で描かれた、椿と思しき可憐な花も、今はストンと転げ落ちる生首を想起させずにはいられない。極限まで圧縮した、地獄絵図かとも思った。
 遠目で見れば優雅で美しいだけの履物も、近くで見れば、どこか凄惨な香りがする。
 恐ろしいとは、微塵も感じなかった。それよりも、彼に膝をつかせ、下駄を持たせていることを申し訳なく思った。私はシンデレラでもお姫様でもないのだから、こんな風に丁重な扱いを受けると、どうしていいのか分からなくなってしまうのだ。
「あ、バクラ、私自分で……」
「おいおい、こういう時は大人しく世話になっておくモンだぜ。オレ様だって鬼じゃねえ。これでも責任は感じてるのさ。なにしろ、お前はオレ様と夏祭りに行きたい一心で慣れねえ下駄を履いて、挙句の果てには大事な足をこんなにズタズタにしちまったんだからよ! ヒャハハハハ!」
「! き、気付いてっ……」
「てめえの演技はバレバレなんだよ。ヘラヘラ笑って、痛んだ足を庇いながら馬鹿みたいにはしゃいで、むしろあれでよく隠してたつもりだったな。だらしねえ!」
「うう……だって、私、今日のことすっごく楽しみにしてたから…………、でも下駄の殺傷能力が思いの外に高かったの……、すごいんだね、昔の人って…………。だらしなくってごめんなさい…………」
 やはり、バクラに私如きの隠し事など通用しないのだ。とうに分かっていたことだったけれど、ここまで筒抜けになっているとは思わなかった。
 その後、少し時機を窺っていたけれど、彼の手と下駄が引っ込む気配はなかった。折角のご厚意だし、これ以上固辞していたらバクラにも恥をかかせてしまう。ここはお言葉に甘えて、手を借りることにした。
 足を入れる直前、周囲の暗闇に仄かに願った。――――暗闇様。どうか、今だけは彼の綺麗な目の近くに群がっていてください。彼の、あまりにも鋭い視力をわずかの間だけ遮っていてください。私は恥知らずの女ですが、それでも好きな人に靴擦れで痛んだ足を凝視されるのは、少し恥ずかしいのです。
 爪先が、朱色に触れる。漆塗りの艶やかな感触。足の裏が焼け爛れることも、体が炎に包まれることもなかった。そのまま、下駄の上を芋虫のように這っていく。
 バクラは何も言うことなく、支えてくれていた。
「お前は知らねえだろうがなぁ、鼻緒が切れるっていうのは本当に縁起が悪いんだぜ。大昔は火葬場までは草履を履いて、帰る時にはそれを近くに捨てる風習があったのよ。墓場の穢れた土を踏むと、死霊が憑くって考えられていたからな。で、その時には、草履の鼻緒は必ず切るっていうのが鉄則だった」
「え? 草履の鼻緒を切っちゃうの? わざわざ……? どうして?」
「そうでもしないと墓場にいる死霊どもが捨てた草履を履いて、後ろからついて来ると信じられていたからな」
「えっ……!」
 伏せられていた睫毛が一斉に上を向いた。月光を吸い込んだ白い眦はおぞましいほど神聖で、眼光が冷たい電撃のように、私の火照った皮膚を貫く。
「新品の筈の下駄の鼻緒が、ああもあっさり切れちまったんだ。いくら安物だろうとそんなことはなかなかあるモンじゃねえ。案外、てめえも既に何かに取り憑かれちまってるのかもなぁ! ヒャハハハハ!」
 彼の笑い声を聞きながら、私は、静かに自分の足元を眺めていた。
 左右ともにすっかり嵌まった綺麗な下駄は、どこまでいっても人の手により作られた物品だった。間違いない。これ自体に、超常の力なんて宿ってはいない。肌に伝わる確かな質感、温もり、鮮明なままの私の意識。夜霧によって一時形成されたあの靴とは、根本からして異なっているのだ。
 けれど私は、この履物にこそこの世ならざる相を見い出し、履物の魔力に頼らずに、歩いて行こうと奮起をしたのだ。
 圧縮された小さな地獄を踏み鳴らし、彼と共に歩んで行く。何が起ころうとも絶対に離れない。カサブタを剥がしてはまた固める自傷のように、鮮血を垂れ流す恋心は、今日また新たな形に落ち着いたのである。
「……うん。そうかも。もしかしたら私、もうずっと前から、憑かれていたのかも。そうだったら、いいな。嬉しいな。私、憑かれていたとしてもちっとも嫌じゃないよ。むしろすごく幸せだよ。私は間抜けだし、すごく綺麗って訳じゃないし、デュエルだって強くない。それなのにこんな私に憑いてくれて、ありがとうって言いたいよ。本当に、本当に……」
「――――……」
 私は、バクラの反応を待たずして勢いよく飛び上がった。独り言めいた言葉を結びに、会話を一方的に打ち切ったのだ。これ以上滔々と語っていたら、感極まって涙を流してしまいそうだった。
「…………治った! バクラ、私の足、治ったよ! もう全然痛くない! 100キロだって、1000キロだって、余裕で歩けちゃうよ!」
「……そうかよ。そいつは良かったな」
「うん! バクラのおかげ! ありがとう!」
 親指と人差し指の間に、疼痛が走った。
 丁度鼻緒が嵌まる位置だ。先に負っていた傷に、黒い鼻緒が容赦なく食い込み、しばらくの間忘れていた疼きが蘇ったのだ。
 でも、不思議なことにそれは一向嫌なものではなかった。痛みの質も疼きの強度も、先程と何も変わってはいないのに、疑う余地もなく痛い筈なのに、どうしてだろう。痛みが、不快感として変換されないのだ。それどころか、仄かな心地良ささえ覚える始末だった。
 苦痛と快楽との境が意外と曖昧なことは、バクラとの付き合いを通じて得た所感であるけれど、彼と身体的な接触をしていないにも拘らず、私の肉体は独自の回路を組み立てたようだった。
 ついに物体のみで、悦べるようになってしまったのか。
 ささくれて剥き出しになった皮膚の表面を硬質な布が撫でていく度に、頚椎を甘く切ない痺れが通り抜けていく。バクラの指で、傷口を抉られているかのようだ。
「…………ねぇ、バクラ」
「なんだよ」
 私の倒錯した胸中を知ってか知らずか、バクラはやや、気のない返事をした。私よりも少しだけ前を歩いている彼の、濃密な暗闇に浮かぶ白銀髪が物憂い気に靡いていて、気を抜いたらすぐにでも魅入ってしまいそうだ。
 ここから転がり落ちてしまったら本当に洒落にならないので、なるべく理性を保つようにと、深く息を吸って、気を引き締めた。
「……あの、ね」
 石段を下りきると、下にはまだ賑やかな露店が犇めいている。一歩進む毎に薄くなっていく闇を前に、私は再度、粛々と空気を吸い込んだ。
 呼び止めたはいいものの、なんて声をかけようか。
 そもそも、私は彼に何を伝えようとしていたのだろう?
「大好きだよ」。「愛しているよ」。「ずっとあなたについていくからね」。「私は絶対にあなたから離れないから」。「たとえ地獄の果てであろうとも、あなたと一緒なら、私は幸せなんだよ」。
 どれも正しく私の本音ではあるけれど、そのどれもが言おうとしていた言葉とは違う。
 私が、本当に伝えたかったことは、今、言いたかったことは――――。

「…………バクラ、今日は来てくれてありがとう! 私、今日のこと絶対忘れない。一生の思い出になったよ。あ、バクラと一緒に過ごした時間は、どれも全部大切な思い出だけど! …………一緒に食べた焼きそば、美味しかったね。タコ焼きも……それからかき氷も! あ、そうだ! フランクフルトも! 全部全部、すごく美味しかった!」
「ケッ……、なんだ、食いモンしか頭にねえのかよ、てめえは」
「ほ、他にもあるよ!? いっぱい! でもいちいち言ってたら絶対鬱陶しがるでしょ! まず、待ち合わせ場所に早く来てくれていたのも嬉しかったし、バスで私だけ席に座らせてくれたのもすごく優しいなって思ったし、私がはぐれないように時々振り向いてくれるのだって本当に」
「うぜえ」
「ほらー!」
 一条に敷かれた夜気の中に、私の喚声が響き渡る。バクラは笑うこともせず、かと言ってこちらを振り向くこともせず、軽やかな仕草で以って闇の終わりへと向かって行く。色とりどりの宝石の屑を散らしたような露店の燈は、漆黒の只中にも逞しく煌いていて、とても綺麗だった。
 夢見心地で気が散漫にならないようにと、足元には殊更の注意を向けた。ほのぼのとした白い足が見えた。真黒な縁と癒着した、地獄を組み敷く足が見えた。
 それは学校指定のローファーか、可愛い色のスニーカー、踵が低めのパンプスくらいにしか馴染みのない、幼く垢抜けない私の足だ。悲しいくらいに嘘を知らず、悲しいくらいに貧弱な、鍛錬不足な私の足だ。意地だけを頼りに超常の者と添い遂げる決意を固めている、命知らずの私の足だ。鼻緒の摩擦による疼痛に彼を見い出して、無様な赤肌の疼きに彼を感じ取って、そうして一人甘やかな恍惚に浸っている、救いようのない私の足だ。
――――きっと、この先も幸福を纏って、どこまでも歩いて行けることだろう。
――――たとえ終着点がこの世の果てであろうとも、彼から離れずにいられるだろう。
 蛍火を思わせる無数の光に食い散らかされて、葉月の宵闇は音なく溶けて、消え去った。風が吹いて、髪が舞う。やがて私とバクラの足音も、賑やかな雑踏の中に埋もれていった。

END


←バクラメインシリーズへ
←キャラ選択へ

bkm


- ナノ -