1メートル先の交差点は、真昼間なのに車が一台も通らず、信号だけが寂しく明滅していた。
 熱された道路に陽炎が立ち、空間が歪む。私はとにかくどこか涼める所へ逃げこもうと考えていた。
 しかしここは繁華街から隔たった、店どころか家すらない場所。田畑を道が横切るばかりで、私はその真っただ中を陽に焼かれ干からびながら歩いていた。
 建物の中でなくても良い、日陰さえあれば、と念じつつ歩いていくと、バス停が目に入った。そばのベンチには誰かが忘れていった文庫本と黒猫が乗っている。
 そしてバス停の向こうには、忽然と森が現れていた。鎮守の森のようだが、その中にあるのは神社ではなく、民家のようだった。その涼しげな様子に、私はふらふらと森へ足を踏み入れた。
 味のある古びた木造の家で、田舎の祖父母の家に似ていた。昼なのに薄暗く誰も住んでいないようで、不気味にも感じる。
 お化け屋敷のような雰囲気にたじろぐ私の目に、太陽のような笑顔が飛びこんできた。
 家の前に、信楽焼の狸が置いてある。狸は人の好い笑顔を満面に浮かべてこちらを見ていた。思わずほだされてしまう。
 狸の横には「営業中」と癖のある筆文字で書かれた木の看板が立てかけられていた。ということは、ここは何かの店なのだ。こんなに薄暗いのに。
 いや、よく目をこらしてみると、ガラス戸の奥に明かりが見える。人がいるのだ。
 視線を感じ、私は再び信楽焼の狸を見た。狸は私を見つめ、にこにこ笑っている。こういう置き物にしては、やけに顔が上の方を向いているなと私は思った。
 入れる家があると分かると、急に暑さを自覚した。道の方からの熱波に押され、私はガラス戸を引き開けた。
 たしかにそこは店の作りになっていた。カウンター席とテーブル席があり、どうやら飲食店のようだ。カウンターの中にいた店員らしきエプロンの男が、シューッと何かのスプレーを宙に放った。私がまじまじと見ていると、「あ、これ、殺虫剤。ハエいたから」となぜかカタコトで喋りかけられた。
「お父さん、お客さん入ってきたらまず『いらっしゃいませ』やろ?」
 カウンター奥の扉を開け、今度はエプロンをつけた女の人が現れた。夫婦で店をやっているらしい。
「いらっしゃいませ」
 おばさんがにっこりと私に笑いかける。玄関にあった信楽焼の狸のような笑顔だ。
 おばさんの笑顔に倣い、おじさんも笑顔を作る。だがすぐに厨房に向き直ってしまった。
「あんた、また胡散臭い笑顔を浮かべて……。まあ、人嫌いのこの人が笑うだけでも珍しいもんですよ」
 後の方は私に対しての弁解だった。私は、はあ、と言葉にならない相づちを打ち、「ここ、表からはよく分からないけど、お店なんですよね」と尋ねた。
「そうそう。『こだぬき』っていうの」
「こだぬき」
「おそばとかおうどんとか出してるから、良かったら食べていって」
 おじさんとは違い、フレンドリーな様子でおばさんは私を席へとうながした。それで私はうかうかとカウンターに腰を下ろしてしまったのだった。
 おばさんは私の前に、とん、とコップを置いた。水が入っていない。あの、水、と呼びかけようとして、やめた。ガラスのコップ一杯に溢れ出した水を目の当たりにし、声を詰まらせたのだ。え、今おばさんも私もコップに触っていないのに、勝手に水が現れたように見えたのだが。思わずおばさんを見やるが、彼女はまったく気にしないふうにメニューを差し出してきた。
 私はメニューをおざなりに見た。どこにでもある定食屋のメニューと変わりばえのしないラインナップ。「おすすめは何ですか?」と私は尋ねた。
「うちではね、みんなたぬきそばを食べてくよ」
「たぬきそばですか。じゃあそれをお願いします」
 夫婦が調理している間考えていると、徐々に思い出してきた。ここは同僚たちが噂をしていた場所ではあるまいか。
 数日前、デスクで仕事をしている時同じ部署の人たちが話しているのを耳にしたのだ。その時は、仕事をさぼって何くだらない話をしているんだ、と思っていただけだが。
 彼らは人通りの少ない街外れにある建物の話をしていた。そこは古い民家だが、看板が出ている。たいてい「準備中」で、たまに「営業中」。ということは店だ。こんな店、誰が入るんだと思いきや、ときどき車が停まったりしているので常連でも来ているのだろうか。屋根の下に小さく「こだぬき」と書かれているし、玄関に狸の置き物があるので、狸が経営していたりして。一度訪れて、狸に化かされてみようか、なんて。
 そんな世間話を、ふと今思い出したのだった。たぶん、いや十中八九、この店のことを指しているのだと思う。
 たしかにこの店は、どこか胡散臭いところがある。薄暗いし、昼時だというのに私の他に客はいないし。私は狸に化かされてしまうのだろうか。
 いや、いくらなんでも妄想がたくましすぎる。あの世間話を冗談ではなく本気でしていたとすれば、彼らの正気を疑う。
 そうしてぐるぐる考えている間にもう調理は終わったらしく、私の前にあたたかな器が置かれた。器の中身を見て、私は戸惑いを覚えた。
「私はたぬきそばを注文したのですが」
「ええ、たぬきそばですよ」
 おばさんは確信を持ってそう言い放ったが、どう見てもこれは『きつねそば』だと思われた。布団のようにふかふかな油揚げが、そばの上にどんと乗っている。
 釈然としない私の顔を見て、おばさんは何か察したらしい。
「ああ。私たちの故郷では、これを『たぬきそば』って言うんですよ」
「きつねそばではなくて?」
「はい。油揚げにあんかけしたのを、『たぬきそば』って言います」
 自信に満ちておばさんが言うので、私はそんなものかと、それこそ「狐につままれた」気持ちでそばを眺めた。一口食べてみる。予想していた物とは違う物が出てきたわけだが、それでも想像以上においしかった。
 いや、これは、想像以上とかそういうものじゃない。かなりおいしい。そばの香ばしさも、ふっくらした油揚げも、それにからんだあんも、だしの効いたつゆも。
 寂れた外観だと思っていたが、もしかしてここはすごい店なのではないか。あれだ、隠れた名店ってやつ。知る人ぞ知るっていう。
 私は少しく感動していた。感動しながら夢中でそばをすすった。
 つゆまできれいに飲み干し、腹が満足する頃には、店に入ってきた時の不機嫌さは私の中からすっかり消えていた。店と店員に対する不信感もさっぱりなくなった。
 私はいつになくはつらつと「ごちそうさまでした!」と店をあとにした。私も店のおじさんもおばさんも、満面の笑みだった。
 またこの店に来よう、と私は思った。妙な噂話をしていた同僚たちにも、この店のことを教えてあげよう。
 私は店の外観を目に焼きつけるため、振り返った。玄関に置いてある信楽焼の狸が目に入った。
 信楽狸は私を見上げて笑っていた。私もにっこりと笑いかけた。
「満足されましたか? またお越しくださいね」
 私はぎょっとした。信楽狸が喋ったからだ。
 見間違いではない。暑さに脳がやられたわけでもない。確実に、狸の口が動いているのを見た。
 私はよろめきながら駆け出した。逃げながら後ろを振り返って見た。店だと思っていたものはただの破れ屋だった。私は狸に化かされていたのだ。
 逃げ走りながら、たとえ化かされたにしても、あのたぬきそばの味までもがまやかしじゃなければ良いな、と私は考えた。



フリーワンライ第87回
文庫本と黒猫 殺虫剤 胡散臭い笑顔を浮かべて… コップ一杯に溢れ出した水 1メートル先の交差点 人嫌い




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