命の危機に瀕したことで領域展開を会得した十六夜は、当然のことながら(乙骨を除く)他の二年生たちから頭ひとつ抜き出た形となった。しかし彼らの中にそれを妬む者などいるはずもなく、それどころかあまりに弱過ぎる十六夜が死ぬ確率が減ったと皆内心で胸を撫で下ろした次第だ。
「それでは、行ってまいります」
かくして、十六夜は今日、悠仁と七海と同様の任務に就いた。
標的の呪霊を一瞬でも押し留めた彼女を使う選択が、宿儺と十六夜を接触させることによる仮説的危険度を上回ったのは、言わば当然のことである。
「まー良かったじゃねえか」
パンダが軽い調子で口を開く。
「正直体術だけ叩き込んだって通じんのはせいぜい二・三級クラスだ。お前が呪術師になるって言い出したら俺たちは全員で止めるつもりだったよ」
「パンダ君…」
「ツーナ!」
「ええ、もちろん油断はしません」
「小夜」
「真希ちゃん」
小首を傾げた真希が、威圧的に十六夜を睨み下ろす。
「そんなことより、悠仁から聞いたぞ。お前、宿儺に惚れてんだってな」
彼女が今朝から虫の居所が悪そうだったのはそれが原因だったようだ。十六夜は眉を下げて微笑した。
「……認めてくださいますか?」
「認めるわけねェだろ」
真希の眼差しは鋭い。
「呪いだぞ」
自分を想う友人の真っ直ぐな言葉を、十六夜は正面から受け止めた。
「……ええ。呪いでも」
チッ、と口の中で舌打つ。
こうなった十六夜が曲がらないのは真希も知っている。
物腰柔らかで人当たりよく、才色を兼ね備えた彼女は実のところ、強情で意地っ張りで負けず嫌いなただの少女だ。真希は十六夜のそんなところが好きだった。そういうところが好ましい、自分の大切な仲間だった。
「勝手にしろ」
私は絶対に認めない。
そう言う意思を込めて、別れの挨拶もそこそこに背を向けた真希だが、ややして足を止めた。振り返るとパンダと棘の奥、ぽつんと悲しげに立つ十六夜が見える。
泣きそうな顔で真希をみている。
「―――――――っ、死ぬなよ!」
よく通る声を放てば、十六夜の顔がぱっと花咲き、細くて白い手が大きく振られた。
優しさや慈愛や愛情や、そういう生ぬるい感情が全て足枷になるこの世界で十六夜は異質だ。異質で、特別だ。真希はどうしても十六夜に死んでほしくなかった。願うことはそればかりだった。
*
呪いが呪いとしてこの世に生まれ落ちた瞬間から、それは絶対的な悪だ。より純度の高い邪悪さがそのまま呪いの強さになる。今目の前にいる奴も、自分の中に棲む奴も、それは等しく、救うべくもない、極められた外道。
自分に浴びせかけられる嘲笑を前に、悠仁は立ち尽くすしかなかった。
ああ、死んじまう。
「……ゆ…うじ」
順平が
「……な、ん」
「だいじょうぶ」
ふっと、藤の香りがした。
悠仁の前を誰かが横切り、しがみつく順平の両頬に触れる。
「わたくしなら、彼を治せます」
「小夜、さん」
「だから大丈夫。……大丈夫ですよ、悠仁くん」
子供に語りかけるような優しい口調に泣きたくなる。
小夜の術式はもともと魂の刻に干渉するものだった。“春霞”は時を穏やかに流す術、“春琴観音堂”は千年の時を刻ませる術。そして、
「“空蝉(うつせみ)”」
順平の身体が淡い緑色の光に包まれる。
これは、最も満たされた、彼や彼女の過去の一瞬に魂を呼び戻す術式だ。一種の召喚呪法と捉えてもいい。それが戦闘に使える日が来ようとは、十六夜も思っていなかったけれど。
「虎杖くん。今から彼の魂の形を戻し、同時に反転術式を用いて身体を治します。その間私は一切動けません。ですから、」
「そこな呪霊」
唐突に放たれた宿儺の声はもう嘲りを帯びていなかった。
「これに触れれば殺す」
「………へえ。この子、宿儺のお気に入りなの?」
呪霊、真人の目が歪な弧を描いた。
「じゃあ使わない手はないよね」
悠仁が拳を固めたのと、宿儺が殺気を練り上げたのと、真人が変形させた腕を十六夜に向けたのはほとんど同時だった。
悠仁の拳が真人の顎を捉える。
弾かれたまま身を退かせた真人を見て手応えを感じたのは一瞬。ドリルのように尖った右手から滴る血を見て、悠仁は目を見開いた。
「あー、ごめんごめん!その子には前回してやられたからさぁ、どうしてもお礼がしたくて!もーやんないよ。ごめんね宿儺」
でもさ、とわざとらしく真人が小首を傾げる。
「宿儺が治さないと死んじゃうね」
「いいの?うっかり三回も突いちゃったからな〜、早くしないとその子死んじゃうんじゃないかなぁ」
「ほらほら、早く代わりなよ。虎杖悠仁」
「大事な先輩なんだろ?」
宿儺は悠仁に一度も「代われ」と言わなかった。
それでも分かる。
身体の内側に凪いだ呪力が、次の瞬間にも噴き出し、全てを灼き尽くしてしまうことが分かる。
宿儺はきっと殺す。
絶対に、こいつを殺す。
「代わん、ねぇよ」
でも、そのあとは。
真人を殺したとして、宿儺は止まるだろうか。この帳の中には七海もいる。体育館にはこの学校の奴らがいる。こいつは邪悪だ。こいつを解き放つことは、正解じゃない。
最悪、全員死ぬ。
「悠仁くん」
はっとして振り返る。
真っ赤に染まった背中越しに軽く振り返り、十六夜が微笑んだ。彼女の呪力の全ては、今順平だけに注がれている。彼女は自分を治さないつもりなのだろう。
「なにかを信じるって、むつかしいですねぇ」
あなたは優しいから。
十六夜は世間話でもするかのように、そう言った。
「でも、忘れてはなりませんよ」
「あなたの最も尊ぶべきものはあなたの中にある」
「……ふふ。彼のことではありませんよ」
「わたくしも、みんな、持っているのです。それは、………それは、」
十六夜に向かってまたひと薙ぎされた真人の腕を、今度はしっかり悠仁が握った。更に変形した真人の身体が悠仁の手のひらを貫いたが、彼は、躊躇いもなく握る力を強めた。
「――――もしもし、ナナミン」
片手で取り出した携帯を器用に耳に当てる。
「今三階。小夜さん怪我した。順平見てくれてる。ナナミン、悪い、お願い、この人守って……俺、――俺は」
悠仁の顔に黒々とした歪な紋様が浮き上がる。
「俺は、小夜さんが信じた、こいつを信じる」
真人が全身を襲う寒気に一瞬で身を退かせたのは正解だった。
しかしひと息の間にその差も埋められる。
気付けば顔は恐ろしいほどの力で握られ、一寸先には赤々と血の色に染まる男の双眸があった。次の瞬間には暗転した。死んだ。違う。気を失ったのでもない。抉られた。目を。
「ぐっ!ごぉ、!ぐふ、がぁっ!はっ、ひひ、ごほっ」
暗闇の中でひたすらに全身を襲う、重厚な一撃。拳だ。毎秒肉は抉られ、骨が砕ける。それでも真人はついつい哄笑してしまった。死を目前にして腹から笑いが波のように押し寄せた。真人は人間から生まれた呪いだ。ゆえに手に取るように分かった。信じ難い、青天の霹靂、あり得ない、それは、
「 」
直人は何かを口ずさんだが、それは一音も発せられぬまま、宿儺の拳に沈んだ。
「………、」
宿儺が振り上げた拳を止めたのは、校庭の中央で、まさに真人の息の根を止めるその瞬間のことだった。
何かに呼ばれたように顔を校舎へと向け、息の乱れなどあろうはずもなく立ち上がった。
「興が削がれたな」
宿儺からの猛攻を受ける最中、真人は逃げと即座の回復に努めたが、最早練れるだけの呪力は何一つ残っていなかった。
「お前を生かすのはこれ一度きりだ」
そう言った宿儺が二度放った斬撃により、真人の胴と、肩口がスッパリと切れ、血が噴き出す。
「今後は俺の前に現れず人でも術師でも好きなだけ殺すがいい。ただし、二度はない」
「、す、っ、……!」
「名を呼ぶことを許したか?身の程を弁えろ、痴れ者が」
最後に一度踏み付けにして、宿儺は校舎へと跳んだ。
拳についた真人の血を穢らわしそうに払って、三階の窓枠に足をかけると、ちょうどそこには一人の呪術師と、床に倒れた少年と、術師に抱えられた十六夜がいる。少年からは弱いが脈動を感じる。十六夜からは、――
「死んだか」
呪術師、七海は一拍置いて、はいと答えた。
次の瞬間には自分の命が尽きていることも覚悟で。
「そうか。つまらんな。こんなに早く逝くとは」
しかし宿儺の返答はあっさりしたものだ。
ぺたぺたと裸足の足で近づいてくる宿儺を前に、七海は全身に緊張を漲らせながらも一歩も動けずにいた。
「どれ」
七海の抱える少女の顔を覗き込む。
そこには千年前と変わらず、月も慄くほど美しい十六夜の、いとけない横顔がある。思い出すのは千年前。
たった三夜だ。
逢瀬を交わしたのは。
「十六夜」
睦言を交わす代わりに夜通し碁を打った。
一度蹴鞠がしてみたいと言われ、月夜の晩、力加減を誤ってどこかへ飛ばしたのは宿儺ではなく十六夜だった。
琴を鳴らす細く小さな指を愛おしいと思った。
膝に抱いてみれば収まりが良く暖かかった。
「十六夜」
十六夜
十六夜、
俺はまた、お前を待たねばならんのか。
千年待てばまた会えるのかも、定かでないというのに。
「……死ぬな」
宿儺が願った時、十六夜の中の呪力が揺れた。相変わらず脈動はない。だが――
七海から奪い去るように十六夜を抱え上げた宿儺は、己の反転術式で彼女の身を包む。
(そうか)
(十六夜の領域展開は、千年魂を滞留するものだったな。それが戻るのが五分後、つまり、今だというわけか)
であれば魂の宿る器を治せばあるいは、という宿儺の見解は大いにあたり、十六夜の頬にはたちまち溌剌とした薄紅が差した。
ふるりと睫毛が震え、黒真珠の双眸がのぞく。
体温が、鼓動が、細胞の震えが、一つ一つ宿儺にそれを自覚させた。
「………すくな、さま」
吐息と一緒に微笑みが落ちる。
安堵したのか、何もかも委ねてしなだれかかる十六夜をいっそう強く腕に抱き、宿儺は窓の外へ跳んだ。
「……」
屋上に降り立つと、宿儺は暫く黙り、時折十六夜を抱きしめる腕に力を込めた。まるで小さな鼓動を確かめるような仕草に、十六夜はされるがままにしていた。
宿儺が口を開いたのはそれからやや時をあけてのことである。
「十六夜」
「はい」
宿儺はひどく苦いものを奥歯で噛み締めたような、眉根を寄せ切った妙な顔で、しかし彼らしく芯の通った声で言った。
「お前を愛すぞ」
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