「呪いとは、己の足元に常に忍び寄って然るべきなのでございます。特級だの一級だのと階級をつけて差別化すること自体が無意味。それは等しく脅威で、禍々しく、わたくし達の命を脅かす存在なのです」
「わかった!で!?小夜さん!もういい!?!?」
「まだだめです。危ない」
「つっても俺の方がもう限界なんスけど!?」
「あと少しで完成しますから………ほら、できましたよ虎杖くん」

 十六夜が手のひらにのせて差し出したのは、卵ほどのサイズの丸い玉だ。導火線のようなものがついているので、爆薬かもしれない。
 これまで体術一本で三級呪霊を相手取っていた悠仁は、彼女が初めて見せる術式に期待を膨らませた。

「お見せいたしましょう。これがわたくしの術式」

 十六夜が指を編む。

「“春霞(はるがすみ)”」

 一瞬のうちに周囲に霧が立ち込め、どこからか鈴の鳴る音が聞こえる。ふるっと軽く身震いしてしまう肌寒さはどこか心地良く、良い匂いがしたかと思えば、どこからか桜の花びらが風に乗ってひらめき出した。

「虎杖くん。私の後ろへ」
「え?あ、ッス」
「いきますよう」

 十六夜はポケットからマッチを取り出し、例の玉の導火線に火を点火すると、少し離れた場所でぼんやり呆けている呪霊の足元にそれを投げた。数秒後、爆発。爆風。十六夜と悠仁は後ろに吹き飛ばされて転がった。
 土煙が収まった先に転がるのは呪霊の肉塊である。

「はい。おしまい」
「術式関係ねーじゃん!!!!!!」
「きゃあっ、まだ残党が…!虎杖くん、虎杖くんおたすけくださいまし!」

 きゃあきゃあ言いながら羽の生えた低級呪霊から逃げ回る十六夜。虎杖はなんとも言えない表情で十六夜に近寄り、それを祓った。
 呪霊に引っ張られて乱れた髪を手櫛で直した彼女がはすまし顔で告げる。

「このように、わたくしあんまり役に立ちません」
「役立たずどころか塵ではないか」
 悠仁の頬がパカッと割れて口が現れ、現れるや否や暴言を連ねる。
「ちょ、宿儺ッ、お前もっと言葉選べよ!!」
「塵は塵だ」
「まあ、宿儺様」
 不本意だと言わんばかりの顔で十六夜は告げる。
「では、わたくしへの興は尽きてしまわれたのですか?」
「それも遠くない話だ。お前が、そのままでいるつもりならな」
「……虎杖くん。お怪我は?」

 十六夜が話を逸らしたのは初めてのことで、悠仁は少々面食らった。

「や、ダイジョーブ」
「よかった。初の合同任務で後輩に怪我をさせては先輩の名折れですからね」
「でも、俺が言うのもなんだけど、小夜さんよく今まで無事だったね」
「うふふ。わたくし、戦闘は専門外なのです。いつもは家入さんのところで反転術式の訓練をしていただいてます」
「あ、んじゃアレは?」

 悠仁は即席のテーブルと、そこに置かれている薬品や粉末を指さした。到着するや否やいそいそと十六夜が準備しはじめたものだ。
「爆弾製作キッドです」
「何その物騒なキッド」
「小学校が出現場所と聞いたのでつい…。上手くできてよかった」

 その時だ。
 校庭から見上げた先の校舎―――屋上に禍々しい呪力が立ち昇ったのは。

「………虎杖君。五条先生の話だと、ここにいる呪霊は低級がせいぜいということでしたよね」
「うん」
「わたしが君と派遣されたのは、もしあなたが怪我をしたとき、すぐに対応できる人間が傍にいたほうがいい――――という名目で、その実は、宿儺様の出方を伺うための布石といったところでしょうが」
 宿儺がくつくつ嗤う。
「存外頭が回るのだよな、お前は」
「でも………頭を回しても、この状況はちょっと」
 十六夜の頬を汗が滑る。 
「あん時と似てる」

 悠仁の声がぽつりと響いた。
 それは彼らの前に突如特級の呪霊が現れ、あわや大惨事となるところだったあの日――宿儺と十六夜が、現世で初めて相まみえた日のことだった。
「じゃあ、また故意に情報が」
「戯け共め」
 屋上へ向けた目線を一切離さず、宿儺が言う。

「あの日の失態を最も重く受け止めているのは誰だ。俺を開放し、貴様の心臓を貫かせ、愛弟子を危険に晒したことを――。実際、十六夜さえいなければ貴様らは死んでおったしな」
「………五条先生」
「あの術師は気に食わんが、同じ轍を何度も踏むような戯けでもあるまい。実際帳の外でアイツの気配を感じる。入ってこれぬのは其処な虫けらのせいよ」
「………宿儺様、では、あれは」

 くつくつ、から、げらげらと、呪いの王の哄笑は暗雲を数度揺るがせた。それは至極愉しげに。

「貴様も執念深き男よなァ――朱雀院(すざくいん)よ」

 十六夜は息をのんだっきり、吐き出すことができなかった。屋上のフェンスから身を乗り出したのは、到底人の形はとっていない呪霊。千年も前に両面宿儺によって愛おしい女の命を奪われた男。

「……あれが、帝(みかど)……」






□□□



 ああ、ああ、わが妹よ。わが奥よ。何故そなたは私に媚びぬ。贅を凝らした食も、住処も、衣も、なにもかもを手に入れることができるのに、なぜそなたは私から離れる。私を憐れむ。通うぞ。通う。お前を我が物にするまでは、決して其方を諦めぬ。奥よ。妻よ。わたしの十六夜よ――

「それ以上つまらぬ譫言を吐くな。虫風情が、図が高い」

 キン、と音がして、首が一息に断ち切られる。
 しかし呪霊の肉は崩れず、弾かれた首のみ液状化して再び身体を這い上がり始めた。やはりな、と、宿儺は後ろに控えた少女に声をかける。

「どうやら貴様の手を借りねばならぬようだ。さァ、どうする……十六夜よ」

 己の問いかけに躊躇う十六夜を見て、呪いの王は愉快そうに笑った。
 時遡ること数十分前。
 宿儺の器である虎杖悠仁は、五条悟とこんなやり取りをしていた。

「その特級が、帝だって言ってるわけ?あの子」
「うん。あと宿儺も」

 未だ悠仁と十六夜のもとに辿り着けていない五条は、神頼みでかけた電話が悠仁に繋がったことにひとまず安堵した。当然、まったく油断ならない状況であることに変わりはない。

「帳の内側から、かなり強力な呪力の鎧で蓋をされてるみたいだ。こっちはまだもうちょっとかかりそう。そっちは?」
「ヤベー感じの呪霊がこっち見てる。何で襲ってこないのかわかんねーけど」
「一刻の猶予もない……か」
「俺と代われ」

 笑みを孕んだ提案を、「無理に決まってんだろ」と悠仁が跳ね除ける。

「こっちには小夜さんがいんだよ。お前なんかと二人にできるか」
「ではお前にアレがなんとかできるのか?」
「………やるしかねーだろ。そんなん」

 悠仁の目に強い光が宿ったのを見て、声を上げたのは十六夜だ。

「縛りを……、!」
「え?」
「虎杖くん、宿儺様と、縛りを、お交わしくださいませ」

 当然こんなものは最善ではない。魂を縛って互いの命を拘束する。できるならやってほしくはないが、今はそんなことも言っていられない。

「縛りって……?」
「約束より、ずっと強力な、誓いのようなものです。宿儺様とお交わしください。なるべく、穏当に」
「ふっ、くはは、はははは!!十六夜よ!間抜けか貴様は」
 腹の底から馬鹿にしたように宿儺は笑った。

「俺が小僧なんぞと、公明正大な縛りなど結ぶと思うか」
「………っ宿儺様」

 ああ愉快だ。愉快でならない。
 十六夜の縋るような眼差しがたまらない。
 笑いの収まらぬまま、宿儺の機嫌は最上だった。

「ああ、よい、よい。お前に免じて、多少の便宜は図ってやる。俺は今最高に機嫌が良いのでな」
「宿儺、様」
「そう怯えるな。この世ではとっくと愛でてやると言ったであろう」

 それはどれも、帳の外で必死に思考を巡らせているはずの、彼らの頭脳に向けての言葉でもあった。

「さて、では条件だが……小僧と変わる間、俺はあの呪霊以外を殺さぬというのはどうだ」
「……駄目だ。前例がある。前に悠仁の心臓取ったろ」
 五条はいつになく低い声音で言った。
「では小僧の身体にも、そ奴にも一切触れぬと誓おう」
「………悠仁、どう思う」
「反対………って言いてーけど、正直、小夜さん守りながら戦うの、無理だ。ごめん」

 悔しさをはっきり滲ませてそう言った悠仁に、十六夜は近付き、必死で首を振る。

「わたくしの弱さは、わたくしのものです。あなたが一番に守るのはあなたでいい」
「……小夜は、どう?」
 五条に尋ねられ、十六夜は何度も頷いた。
「いいです。それで――」
「おい、何を勝手に終わらせている。まだ話は終わってない」

 宿儺は更に条件を付け足した。

「俺一人で奴を片付けられぬときは、十六夜の手を借りるぞ。当然、最も優先すべきことは、あの呪霊の始末だ」

 五条も、悠仁も、十六夜も、誰一人声を発することができなかった。宿儺の意図を測りかねていたのだ。
 追い討ちをかけたのは宿儺本人である。

「十六夜。俺がお前を殺したあの晩、彼奴めは無様に這いつくばりながら貴様の閨へ訪れたのだぞ」
「……!!」
「生き絶えたお前を見てなんとも悔しげに咽び泣いておった。ケヒッ、ケヒヒ、そうして、そうしてなァ、――――呪いになった…!!!」

(……ああ、そうか)

「お前のせいだ。お前が帝を、アマテラスの血筋を穢したのだ。お前が時を超えてこの地にアレを呼び寄せた。だというのに、お前はその責を負わんのか?」
「宿儺、っテメェ…!!!」
「虎杖くん」
 悠仁の腕にしがみついた十六夜の、弱々しい力。それと相反する強い瞳に、悠仁は何も言えなくなった。


「宿儺様を出して」




 悠仁の顔や身体に入れ墨が走り、もう一対の目が開いた後は一瞬だった。
 強い力で抱え上げられたと思ったら、そこは既に宿儺の領域内だった。

 社の中に投げ出された十六夜は、身体の内からかたかたと競り上がる震えを抑えることはできなかった。ここは、あまりに殺意に満ちている。
 目の前で帝だったものが二枚にも三枚にも刻まれ、すぐに形を成す様を見れば、宿儺の術式ではソレは殺せないのだと嫌でも分かる。
 
「既に、ご存知だったのですね……」
「はて。何のことだ?」

 これが答えだった。
 宿儺は知っていたのだ。かつて帝だったその呪霊が、絶対に十六夜を狙わないことも。自分の術式では斃せないであろうことも。
 初めから、何一つ公平な縛りではなかった。

「■■■」

 呪霊が何かおぞましい呪言を吐いた。
 次の瞬間、宿儺の腕が焼け爛れ、弾け飛び、そしてまた次の瞬間には治っていた。彼の反転術式は群を抜いていることを知った。

「ほらほら、はやく決めろ。このままでは小僧の身体がもたぬぞ」

 当然戯れだ。宿儺にとって虎杖の体などどうなってもいい。
 ただ、十六夜が。再会してからずっと、ひらりひらりと勝ち気なふうを装い続けてきたあの十六夜が、心底悩み、苦しんでいる。その様のなんと愉快なことか。なんと美しく、健気ものか。

「お前のような女が、国を傾けるのであろうな」

 ふとした呟きが十六夜の心を決めさせた。

「わたくしを、お使いくださいまし」
「それで良い」

 次の瞬間、十六夜の右腕、肩から先と、左脚の膝から下が宿儺の術式によって断ち切れた。

「っっあああぁぁ、!!」
「ケヒッ、ハハハハ!!!!!ああ、善い、善いなやはり…!!お前の善がり声は格別だ!!」
「、はっ……あ、ぐう」

 必死で歯を食いしばって倒れ込んだのは、宿儺の膝の上だった。まるでこれから調理される獲物のような自分の姿が想像できて一層震えた。

「そうだ。もう怯えても良いぞ。嬲る」
「あ、あ、ああ」

 制服が背中から引き裂かれ、鋭い爪が十六夜の白く滑らかな背中にいく筋も深い傷をつけていく。溢れる血潮が宿儺の着物にも滴ったが、まるで気にもせず世間話でもするかのように彼女に語りかける。

「そういえば、お前、今日も髪を結っていたな」
「あ゛っ!」
「………こうして喰らい付きたくなるから、よせと言ったのだぞ」

 くつくつ嗤いながら、宿儺は呪霊に目をやった。
 想像通り、絹を裂くような悲鳴を上げてもがき苦しんでいる。アレの核が帝の並ならぬ執着心にあるならばと踏んだのは大いに当たりだったらしい。だがもういい。五月蝿い以外の感想はない。
 宿儺は再び十六夜の背の傷と、首の噛み傷に舌を這わす。

「これは、あの呪霊を倒すための手段なのだ。だからほれ、俺がいくらお前に触れようと、切り裂こうと、縛りは課されんだろう」
「はぁっ、はぁ、は、ふ……」

 必死で悲鳴を堪え、痛みを逃すよう短く吐息を漏らす様の愛らしいことよ。宿儺は唇についた血を態とらしく舐めとった。
(甘美なものよな……)
 次はどこを甚振ってやろうかと未熟な身体に視線を滑らせていれば、斬られていないほうの血の気を失った指先が、何かを探るように動いた。

「ん?何だ。何か欲しいのか」

 思いのほか、甘やかすような声が出た。例えばそれが衣服に隠した武器であったり、はたまた己の命を絶つための毒であったりすれば、よかった。女の好きなようにさせてやろうとさえ思っていた。

 しかし十六夜が、寄る辺ない仕草で弱々しく握ったのは、ただ、宿儺の着物の袂であったのだ。

「…………」

 宿儺が女の肩を掴み浅い水底に押し倒せば、彼女の血で周囲はいっそう鮮やかな赤が広がった。まるで、火鼠の衣に横たわるように、黒髪をたゆたわせる四肢の不揃いな女の、痛みに潜められた眉の、じっとり汗ばんだ額の、熱を帯びて濡れた瞳の、その鮮烈なまでの美しさよ。

「なんだ、おまえは」

 それは宿儺自身意図せぬ唐突な問いかけだった。
 どんな答えを求めているのかさえ分からない。
 一瞬乱れた宿儺のその隙をついたのは、帝の呪霊だった。夥しいほどの呪言で宿儺に呪いを浴びせる。それは幾たびか弾かれ、十六夜の身に降りかかった。

 もはや声も出ずにのたうつ十六夜の胸が、腹が焼ける。
 宿儺はそれを即座に治した。自分への呪いが降りかかることより、自分以外の呪いに十六夜が傷をつけられることのほうが我慢ならなかった。どのみち、あれの倒し方はもう心得ている。
 ひとまずこれまでにないほど呪霊の身を刻み、その肉片が再生するのを眺める傍らで宿儺は言った。

「お前がやれ、十六夜」

 それは背くことの許されぬ下知だった。

「お前は、もっとマシな術式を扱えるはずだ。先の世でも、お前はあらゆる才覚に溢れていた。今世でもそうらしい。それが、呪術のみあの体たらくであるなどとは言わせん」
「………」
「何だ。足りぬのならば足も腕も治してやるぞ」
「………た、ら」
「……何だ」
 十六夜は囁くような声で、一言一言、吐息のはざまに、言った。――つようなったら、と。


「わたくしが、このまま、
このまま、強うなってしまったら……

貴方様と、いられぬでは ないですか」



 透明な涙が十六夜の目尻から一筋零れる。宿儺はしばし呆然とそれを眺め、指先一つ動かすことができないまま、十六夜が意識を手放す様を見ていた。
 十六夜の投げ出された指先の傍で、同じように呆然とする者がいる。
 目だ。帝の呪霊の、右の眼球。
 それが恨めしそうに、狂気と渇望に満ちた眼差しを十六夜に向けて、やがて――土くれになった。死んだ。十六夜からの拒絶が鍵だと分かっていたが、あの哀れな呪霊は、己が愛した女の最愛が自分ではないと分かって死んだのだ。


「………十六夜」


 お前が数多ある欲しきものとは、俺の知り得ぬくだらぬものではなかったのか


 お前が縛られぬと言ったのは、既に縛られていたからか


 お前の術式に呪霊が心奪われていたのは――そのように見えたのは、お前が、そういうふうに願ったからか


 お前が弱いままを選ぶのは、俺と、



「………他を、さがすと言ったろう、阿呆め」





 宿儺の領域が解けた後、既に帳の内側にいた五条は張り詰めていた警戒を、ゆっくりと解いた。
 少女を抱えて立っていたのは悠仁だ。
 彼の腕の中ですうすうと寝息を立てるのは、五体満足の十六夜。
 彼女が身にまとう制服はなぜか引き裂かれて落ちていたが、悠仁が戻る前に宿儺が別のものをまとわせたらしい。悠仁が戻った時には、悠仁の制服にくるまれていた。

「とりあえず、二人とも無事みたいだね」
「………無事じゃねーよ」
「なんかあった?」
 真顔で尋ねる五条に、宿儺の中からすべてを見ていた悠仁は、複雑そうに口を開き、結局何も言えずに閉ざした。

「……よく、わかんねえ」
 
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