■ ■ ■


「スイートルームを無期限で貸し出す」

今朝のミーティングで総支配人にこう告げられた時、私はうっかり笑ってしまいそうになった。この仕事の鬼でもたまにはジョークを言うんだな、と。しかし間も無くそれが冗談ではなく現実だということが発覚する。

「嘘……本当に販売停止されてる」
予約管理のページを呆然と眺める私の横で、同僚のアカネが「すごいわよねぇ〜」と相槌を打った。

「そのお客様、半年先までの宿泊料金事前に決済されてるらしいわよ。滞在予定は二ヶ月だけど伸びるかもしれないからって。しかも返金は不要だって!富豪かっつの」
「な、なにそれ…」
「ウエイトレスの子達も大はしゃぎだったわよ。石油王キターって」

富豪。石油王。
そんなふうに言われても致し方ない。なぜならこのホテルは国内でも1、2を争うほどの高級ホテルだ。長期滞在としてよく使われるビジネスホテルとは格が違う。しかもそのスイートなんて言ったら、一泊でビジネスホテルに半月は泊まれてしまう。

「なんか頭いたくなってきた…。これドッキリとかじゃないの?」
「違うでしょ。うちそういう撮影一切NGだし」
「そうだよね…」

アカネはいつもより念入りに手鏡で前髪を整えながら、まくしたてるように続けた。

「なんでも、泊まるのは初老の英国紳士だそうよ!」
「あんた何で気合入ってんの?」
「愛人にしてもらうからに決まってんでしょ!?」
「愛人でいいんかい」
「いいわよぉ〜?私かねてからブリティッシュなイケオジにもてあそばれたいと思ってたのよ」
「アンタちょっと奔放すぎない?」

アカネほど露骨ではないが、今日はどこかホテル中が浮き足立っているような気がした。そりゃまあ稀に見る大金持ちの来館だし、そうなるのも仕方ないか。

「そんなことよりアカネ、今日これからチェックアウトの柳沢様、タクシーの手配ちゃんと終わった?」
「あ、まだだわ」
「ちょっと!もう朝食食べ終えてフロント来られるわよ!早くしないと」
「分かってるって〜。相変わらずなまえはドライだな〜、ハッ!まさか石油王のハートまで凍らせる気?」
「凍らせてどうすんのよ」

やれやれと言いながらタクシーの手配を始めたアカネに呆れつつ、内心で反論する。
(ドライなんじゃなくて、周りが騒いでるのを見ると逆に冷静になってしまうタイプなだけよ)
それはつまり、飲み会で最後まで酔えずに後片付けやら会計やらに回らされる、そういう損なタイプのことをいうのである。我ながらどうにかしたいと思うが、こればっかりは性格だった。

「さ、そろそろ気合い入れよ!怒涛のチェックアウトが始まるわよ」
「何でイケオジで気合入んないくせに仕事で気合入ってんの?アンタさては変態ね?」
「コンシェルジュの鏡と呼んで!」

かくして、高級ホテルの忙しない朝は幕を開けた。
石油王が到着したのはそれから数時間後の午前11時頃である。

「なまえ!!来た!来たよ!!」

アカネが小声で歓声をあげたので、私はファイルから顔を上げて入口を見た。
ドアマンの歓迎を受けて現れたのは、上品な服に身を包んだまさに初老の英国紳士。そしてそのやや後ろからもう一人入ってきたのは、ひどい猫背の男性だった。
「何あれ!」
アカネがうっかり声を上げる。

首の大きくあいた白いシャツ。青いズボン。
背丈はそこそこありそうだったが、何より目を引いたのは色白の肌にくっきりと浮かぶ目の下のクマだ。

「夜眠れないのかしら…」
「いやツッコむとこそこじゃないでしょ!?場違いすぎる!何なのアレ」

そうこう言ってる間に英国紳士はフロントでのチェックイン手続きに向かい、ひょろひょろ猫背の男性はロビーの待合スペースに向かった。
二人の関係が分からないが、フカフカのソファに体育座りする人を見たのはこれが初めてのことだ。ちゃんと靴は脱いでいるのでクレームにはなるまい。裸足だったけど。
やや呆気に取られてその挙動を見ていると、アカネが事務所からチーフに呼ばれた。

「折谷さん、ちょっと!」
「えっ!?アタシまた何かしました!?」
「何かしました?じゃないわよ!休憩よ」
「え〜〜今いいとこなのに!」
「苗字さんとあとで交代するんだから早く行ってきなさい!」

ブーブー言いながら慌ただしくアカネが事務所に消える。苦笑してそれを見送り、再び前に向き直るとカウンターのすぐあちらにあの男性が立っていた。
ヒュッと思わず息を呑んでしまった。
「、May I help you?」
咄嗟に笑顔を浮かべ、そう尋ねられた自分を褒め讃えたい。
しかし、何かお手伝いさせていただけますか?に対する返答は「新聞をください」だった。フランス語で。
(あれ、イギリス人って話じゃなかった?)
動揺しつつもすぐさまそれに対応する。
彼はクマに縁取られた目をやや見開いたが、すぐにまた無表情に戻り、案内をする私の後に続いた。

「このホテルに置いてある新聞は、日本語、英語、中国語、韓国語、フランス語、イタリア語のものになります。どれをご所望ですか?」
「フランス語がお上手ですね」
「え?」 

質問無視の言葉にきょとんとする。

「英語もお上手でした。ややイギリス訛りがありましたが」
「申し訳ありません…。イギリスからのお客様と伺っていたもので」
「やはりわざとですか」
「フランス語も勉強していてよかったです」

にこりと笑う。

「新聞はどれにされますか?」
「ではこれとこれとこれで。明日からも毎日部屋へ持ってきてください」

私は再び目を丸めた。
今度はすり替わるようにイタリア語だったからだ。
(この人…)
こうなってくると事態は変わってくる。
きっと彼は私を試してるのだ。ーーー私というより、このホテルの地力を。
現に今も私の反応を観察するようにじっとこちらを見つめている。
(…やってやろうじゃん)
私の中の負けず嫌いが疼く。

「かしこまりました。それでは毎朝お部屋へお届けするよう係の者に申し付けておきます」
私がイタリア語で応じたことに、彼はまた小さく驚いたようだった。

「……驚きました。日本のホテルマンは優秀ですね」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴します。他に何かご要望はございますか?」
「ありません。お仕事の邪魔をしました」
「とんでもございません。お役に立てて何よりです」

向こうから英国紳士が歩いてきたので、私は内心ほっと安堵の息を吐いた。他国語を学んでいるとは言え完璧ではない。これ以上深いやりとりを要求されたら危なかった。
(なんとかホテルの面目は保たれそうかな…)
人知れず肩の力を抜いた時、老紳士が彼の名を呼んだ。

「竜崎」

………ん?
竜崎?

「手続きが終わりました。荷物は後ほど私が運び入れますので」
「ああ、頼む」

は!?

流石の私も営業スマイルはすっぽ抜けて唖然とする他ない。は!?今めちゃくちゃ流暢な日本語が聞こえた気がするが!え!?しかも竜崎って、思いっきり日本の苗字では??

「何かお話しされていましたかな?」
にこやかな老紳士に尋ねられて動揺する。この人も素晴らしい日本語の発音だ。

「あ、えっと、いいえ」
「新聞の所在を聞いてました。フランス語とイタリア語で」
「おや、それはそれは」

私はタジタジになりながらもどうにかいつものペースを戻そうと奮闘した。

「ま、まさかこんなに日本語がお上手とは存じ上げず、かえって失礼いたしました」
「いえ。私のほうこそ、あなたが優秀なので遊んでしまいました」

優秀だから遊んだ??意味がわからん。

「最初はあなたが英会話に長けていると気付き、滞在中やたらと話しかけられたら面倒だとフランス語で声をかけたのですが」
「………」
「まさかどちらも対応されるとは。予想外です」
「…お客様のご要望にスムーズな対応をするためにはある程度の教養は必須ですので」
「          」
「え?」

まずい。今のは聞き取れなかった。
慌てる私を見て、彼がふっと口角を上げる。

「ロシア語です。あなたはとても綺麗ですね、と言いました」
「は、はい?」
「それではまた」

言いたいことだけ言ってスタスタ歩き去ってしまった彼、竜崎様。その後ろに、こちらに会釈して老紳士が続く。エレベーターホールに消えた二人を見送ると、どっと疲れが押し寄せてきた。

(……何だったんだ)

「なまえ、休憩こーたい!」
「え…あ、うん」

その後、促されるまま休憩に入った私は、ランチのお弁当を食べながらふと言われた言葉の音を思い出して検索にかけてみた。
綺麗ですね、なんてストレートに言われたのは初めてだ。さすが外国人。ちょっとだけ頬が火照ってしまうし、ちょっとだけにやけてしまう。モテない女の悲しいサガだ。
しかし数秒後、私は椅子から転げ落ちそうになった。

「は!?!?」

検索機の不器用な翻訳が叩き出したのは「とっても綺麗」なんていう歯の浮くようなセリフではなかった。

私の勝ちです。負けず嫌いなので

これは確実に私がのちのち調べることまで計算済みのセリフチョイスだろう。となると、あの笑みは素敵な流し目なんかじゃなく、勝者から敗者に向けた嘲笑だったに違いない。

「……まんまと喜んじゃった。私の乙女心返しなさいよぉ!」

あの猫背ひょろひょろクマ男!
と、内心でささやかな悪態を吐く。そうしながら、私は自分の中に複雑な思いが混濁しているのに気付いた。
男に負けず劣らず負けず嫌いな私のメラメラ。コンシェルジュとしてあの変わったお客様と今後上手くやっていけるかという不安。そして一人の私として、いくつもの言語をきっと私以上に華麗に操る彼に対する純粋な賞賛、と憧れ。

頭を振って、いつしか空っぽになっていた弁当箱の蓋を閉じた。
とりあえず、頭の片隅においやろう。

「お客様はあの人たちだけじゃないし」

これが、何かあった時の私の魔法の言葉。
お客様は埋まってる部屋の数いて、今日という日は、その一人一人にとっての特別で大切な日なのだ。どんなケチもついてはいけない。
気合を入れ直した私の頭に残っているのは、コンシェルジュとしてのプライドだけだった。

まさか、午後の休みが明けてすぐに、またあの変わったお客様と関わることになろうとは思いもよらなかったのである。

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