彼はこの十年でたくさんの何かを失くし、奪い、見捨ててきたのだろうか。
私には共感できるはずもない時間の流れが、壁となって今、目の前にある気がした。

だから思うのだ。


「うん、その壁ぶっ壊そう」
「私の屋敷をどうする気だ小娘」

私は振り返らずに駆け出した。
足元を横切った何かにつまずいて空中へダイブする。ナギ二の逆襲。
床との熱いキスを間逃れたのは、卿が浮遊の呪文で私をぷかぷか浮かせているせいだ。
つまり、絶体絶命である。

「さあ、行きたいところはあるか、なまえ」
「まず地面が恋しいです」
「俺様が直々に散歩に連れてってやると言ってる」
「ありがとうございます。でも私一歩も歩いてないですよねこれ」
「裏の深池はどうだ。水中に揺らめく水草が絶景らしい」
「ごめんなさいごめんなさい謝りますから沈めないでぇぇ!!!」


「何をなさっているのです、お二人共」

ここで現れた救世主、ルシウス!
ブリオッシュと紅茶のセットを持っているところを見ると、配達の途中らしい。

「やっぽー、ルシウス!おべんと持ってどちらへ?」
「貴方様のおやつですが」
「ごめんなさい知ってて聞きました怒らないで」

忙しい私をこき使いやがってメイドじゃねーんだぞこっちは、という目をしている。ちょっとそこまで!はとても言ってもらえそうにない。


「ルシウス、甘やかすな。こいつは今躾中だ」
「躾ですか」
「私は犬じゃありません!」

放し飼いだの散歩だの躾だの、そろそろやめて欲しいところだ。
憤慨する私の前にトレーが差し出される。

「はうっ」

ブリオッシュの甘く香ばしい匂い。
こんがりつやめく生地の表面。
垣間見える生クリームと、赤いあれはまさか…………いち、ご?

「なまえ様」

ルシウスが見目麗しく微笑む。

「お手」
「わおん!」
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