山妖譚〜S'ai〜 白秋の章

雨の季節のあとは日差しが強くなり、蒸し暑い夏が来て、いくつかの嵐を経て朝晩に秋の気配が漂い始めた。
ザックスが見つけた磐座の側の芽は、夏が来る前に弱々しい茎を伸ばしたものの、育たずに枯れた。嵐の後にはいくつか草の芽が萌え出ることもあったが、やはり結果は同じだった。
植物を養うための力がまだ土に無いのだ。
枯れたり萎れた芽を見るたびにザックスは無力感に肩を落としたが、そうして帰ると必ず胸元に抱えていた毛玉がひとつ増えていることに気づいた。
「アンジール」
「なんだ」
「この毛玉って、まだ形を成さない木や水の気だって龍神が言ったよね」
「言ったな。眷属だが」
「芽が出た時も増えたんだけど、枯れた時も増えたんだ。これって、山に少しずつだけど力が戻ってきてるってことかな?」
「そう考えるのが妥当だろうな。俺にくっついたままの剣も幅が広くなってきた気がする。だが土を豊かにするのは大変な労力だ」
「そうだね」
「今日は浜辺の魚を取りに行くぞ」
「うん」
島の岸に流れ着く貝や魚はまだ数多くある。
嵐の間などに回収しきれなかった魚や貝が岩陰や波打ち際で腐り、その強烈な腐臭が虫や鳥を呼び寄せていた。
涼しくなった朝や夕方、浜辺にはカラスやトビ、カモメなどの鳥たちが集まって獲物を取り合う光景が繰り広げられるようになっていた。
動くものの無い山に響き渡る、様々な鳥の声。にぎやかでけたたましく、生命力に満ち溢れたさえずり。
彼らは葉をつけずに立ち枯れた木の枝に鈴なりに止まり、獲物を貪る。
一度はおびただしい数の死骸が打ち上げられることにうちのめされたザックスにとって、群れをなして舞い降りる鳥たちが見せる、たくましく貪欲な食欲は生きる輝きそのものに見えた。
鳥たちの食べこぼしたものを、やはり臭いを嗅ぎつけて来た小さな虫たちが食べる。砂に埋まったり、海に流れた分は微生物の糧になるだろう。
それはどの世界にも等しくある命の輪廻。
死んだように止まっていた山の時間が、浜辺で騒ぐ鳥たちとともにゆっくりと動き出したのを、ザックスは感じていた。
まだほんの小さな動きに過ぎないが、やがて大きな巡りになるように、大切に育てなくてはならない。
「鳥の分も残しとこうね」
「そうだな。あいつらが来てくれたおかげでだいぶ作業は楽になったな。居着いてくれるともっと良いんだが」
「そうだね」

浜辺へ降りていくと、賑やかな鳥の声が徐々に大きくなる。
二人の姿を見た鳥たちは一斉に飛び立つ。しかし何羽かは木の枝に残って様子をうかがっている。
アンジールが砂浜の奥へ何匹か魚を投げると、瞬く間に空から戻ってきた鳥の群れが覆い尽くす。
その様子を確認してから二人が魚を集め始めると、突然けたたましい鳴き声をあげながら鳥たちが飛び立った。今度は木の枝にも姿がない。
何事かと空を振り仰いだアンジールは、一点で目を止めた。
ザックスはその方向を見やり、目を細めた。
青空と白い雲ばかりが見える。
何かがきらりと光ったように思えた、次の瞬間。
ドン、と風が吹きつけてきてザックスとアンジールの髪が風圧でなびいた。
「アンジール!!」
「……お前か」
「え?えっ??」
アンジールが差し出した腕の上に、一羽の鳥がいた。
全身が白いが、姿形はカラスだ。
そして言葉を話している。
「お前かじゃねーよ。いつまでこんな辺鄙な島にいるつもり?」
「山が元に戻るまでだが」
「このハゲ山を?何十年かかんのソレ」
「さあな」
「つーかここに居座るンなら、上と直談判してからにしてくんない?俺だけ御山に戻してそのまんまじゃん」
「ああ……」
「……アンジール、それ、なに?」
「ん?俺のカラスだ。手伝いをしてもらってる」
「へえ……」
「すまない、ザックス。ちょっと話をつけてくる。長くはかからないはずだ。剣を置くから毛玉をいくつか貸してくれないか」
「え?あ、うん。いいよ」
アンジールは毛玉をザックスから受け取ると、水を入れるための皮袋の上に毛玉を置き、その上に剣を乗せた。毛玉の上ならアンジールの手から離れても剣は形を保っている。
「カラスは置いていくから、仕事を手伝わせろ。無駄口たたかずに俺の代わりにしっかり働けよ」
「カラス使いが荒いなぁ」
カラスが砂浜に下りるのと同時に白い翼が広がり、アンジールは青空の向こうに飛び去っていく。

ザックスは胸にちくんと小さな穴が開いたような気がした。
そういえばアンジールがここに来てから、離れるのは初めてだ。ずいぶん長く一緒にいる気がしたが、実際はまだ一年も過ぎていない。
離れてみて初めて、ザックスはアンジールの存在感の大きさに気づいた。
「やれやれ。長くかかんないってそんなワケねーじゃん……」
白いカラスは呆れたように言って、翼を広げると羽繕いを始めた。
「アンジールは嘘言わないだろ」
「アンジールはすぐ話をつけてくるつもりだろうな。でも引き止められるに決まってる。アンジールは優秀だから、御山での仕事もたくさんあるんだ。本当ならこんな辺鄙な山に関わってられるほどヒマじゃないんだよ」
侮蔑したようなカラスの言い草に、ザックスはムッとする。だが、アンジールが優秀なのは確かだ。
「……帰ってくるよ」
「お前がそう思うのはまあ勝手だけどさ。あんま期待しないほうがいいと思うぜ?」
ぶるっと身体を震わせたカラスは、バサリと飛び立って手近な木の枝に止まった。
「手伝えよ」
「魚臭いのが移るからイヤだ」
「アンジールに手伝えって言われてただろ?」
「言われたけどお前の指示は受けない」
肩を落としたザックスはカラスを相手にしないことにして、浜辺の魚を両手に抱えると山に戻る斜面を登り始めた。
七日ほど前にアンジールが掘ってくれた魚を埋める穴へ放り込み、土を少しかける。そしてまた浜辺へ戻り、魚を抱えて同じ道を戻る。
いつもと同じ繰り返しなのに、数往復で疲れた気がした。
空気は涼しくなってきたとはいえ、陽射しはまだ強く、肌がじりじりと焼ける気がする。
暑いねと話しかける相手が居ないのは、こんなに寂しいことだったろうか。
胸の奥にある寂しさがふくらみそうになり、ザックスは頭を振って気持ちを入れ替える。
仕事量にしても、気持ちの面でも今までアンジールにずっと頼り切りだったことを痛感する。
だがアンジールは元々御山の天狗なのだ。この山が元に戻れば居なくなる。
(アンジールがいないのが当たり前なんだから。俺一人でやれるようになんなきゃ)
ぐっと顔を上げ、浜辺の魚を集めて歩き出す。それからザックスは日が暮れるまで、休むことなく魚を集めては穴に埋める作業を続けた。
日が落ちてから海で体を洗い流したザックスは、まだ浜辺の木に白いカラスが止まっているのに気づいたが、口げんかする気にはならなかったので毛玉と剣だけ抱えてねぐらに戻った。

翌日は細い雨が降ったりやんだりしていた。
陽射しがないとひんやりとする。
もうすっかり秋の雨だ。
ザックスは腕を両手でさすりながら降り続く雨をぼんやり眺め、ひとりだと冬は寒いな、と思う。
だが否応なく冬は来て、アンジールもいつかは去ってしまう。
ガイが来る前の記憶が曖昧なザックスには、どうやってひとりで冬を過ごしていたのか思い出せない。
ねぐらにしている岩陰で一日過ごしたら気が滅入ってしまいそうで、ザックスは雨の中に飛び出した。
細い雨は冷たかったが、土をぬかるませるほどの降りではなかったのでザックスはどんどん山の頂に向けて走っていった。
(俺にできることを全部やんなきゃ)
頂にある磐座は、雨を受けて半分くらいまで色を変えていた。
呼吸を整え、心を鎮めて、強く祈る。ザックスは注意深く足を運んで土を踏み固めるまじないを始めた。
夏にアンジールから習ってから、数日おきに続けている。山を元に戻したいという強い思いを抱いて深くゆっくりと呼吸しながら、足の裏から土の奥に祈りを届けるように静かに力強く踏み締める。
ゆっくりとした動きだが、指先まで神経を張り詰めて一歩ずつ慎重に進めるこの歩法は消耗度合いが激しい。
磐座に向けて一礼してふーっと長く息を吐いて、ザックスは身体の力を抜く。
全身雨に濡れてはいるが、汗ばむほどに身体は温まっていた。少し休んで下の方でもやろうと、ザックスが磐座にもたれかかった瞬間、ビリッと電撃に似た感覚が伝わってきた。
驚いたザックスが振り返って磐座を見上げた時、視界が真っ白になった。
「うわぁ!?」
白くふかふかしたものが大量にザックスの頭や顔面、肩から胸へ容赦なく打ち付けられる。
座り込んだザックスの腰から下を埋め尽くす勢いで降ってきたのは毛玉だった。
地面に接したものはじわじわと溶けるように消えていっているが、大量にあるので全部消えるまでには時間がかかりそうだ。
ぽかんと空を見上げたザックスの視界には、夏前にアンジールと一緒に会った龍神の眷属が浮かんでいた。電撃に似た感覚は、神に連なる存在が近くに来たからだったのだろう。磐座の祟りとかじゃなくて良かったとザックスは思う。
「やる」
ひと言、涼やかな声が届いた。
「……ありがてえけど、ぶつけること無いだろ……」
「たまたま今日はお前が下にいただけだ」
「たまたまって……それ何回も来てるみたいに聞こえる」
「余った毛玉を捨てるのに丁度いいんだ」
そう言い捨てると、龍神の眷属はすいっと消えてしまった。
「……ありがと!!」
聞こえるかどうかはわからなかったが、ザックスは大声を出した。
大声を出したら、なんだかそれだけで気持ちが楽になった気がした。
大量の毛玉が山に吸収されていることで、実際にザックスにも力が戻っているのかもしれなかった。
身体を覆う毛玉は半分くらいに減ってしまっていたが、ザックスは胸いっぱいに抱えて水の湧いていた場所に走った。

数日しても、アンジールは帰ってこなかった。
しかしザックスは毎日朝からアンジールが居た時と同じように起きて、浜に打ち上げられた魚を山に埋めたり、山の頂から麓まで地鎮の歩法で歩き回ったりして一日を過ごした。
白いカラスの姿が視界に入ることもあったが、見ているだけなのはわかっていたのでザックスは取り立てて話しかけることもなく黙々と作業をこなした。
アンジールが掘ってくれた魚を埋めるための穴も、毎日作業していると魚でいっぱいになってしまう。もう少し経てば魚も土に戻るだろうが、今は他の穴に魚を埋めなくてはいけない。
岩場から手頃な石を拾ってきて、ザックスは穴を掘り始めた。
土は砂のように乾いてパラパラと柔らかく、手応えがない。
容易く掘れるが、掘るたびに砂のように流れていく。
体の向きを変えながら掘り進めていたザックスがふと気づくと、穴はすり鉢状になっていた。
高さはそれほどないのに、這い上がろうとしても乾いた土はつかみどころがなく、ずるずると底へ戻ってしまう。ザックスは土まみれになるまで頑張ったが、やはり出られなかった。
まるで蟻地獄だ。
(アンジールは翼があるから出られたんだよな……)
後悔したものの、既に遅い。
穴を掘ったのは浜辺に近い枯れた木立の中だ。いろいろと大雑把な龍神の眷属は山に来たとしても気づかないだろうし、やたら見下してきた白いカラスはザックスを助けると思えない。
アンジールが戻ってきたとして、気づいてもらえるかどうか。
脱出困難な穴の中に閉じ込められたことで、ここ数日張り切っていた気持ちが急に萎えた。
頭上で枯れた枝が時折風に揺れる。
カモメが鳴き交わす声が風で流れてくる。

澄んだ青空は秋の色だ。浮かんでいるうろこ雲の位置もずいぶん高くなった
日は西にむけて傾きかけている。秋の日はつるべ落としだ。すぐに夜になってしまうだろう。まだ凍えるほどの寒さはないが、雨でも降ったら厄介だ。
座り込んだザックスがぼんやりと穴の底から空を眺めていると、頭上の枯れ枝に白いカラスが留まった。
嘴に挟んでいたイチジクの実を、足で枝との間に挟み込む。
どこか他の山で採ってきたのだろう。
初めて気づいたようにザックスを見下ろして、首を傾げた。
「自分で掘った穴から出られないのかよ?間抜けなワンコだな」
そう言うとイチジクをついばみ始めた。
ザックスはムッとしたが、カラスは知らん顔でイチジクを食べている。
高みの見物とはこのことだ。
「なんだ、出られないのか」
不意に呼びかけられて驚いたザックスは振り返った。
「砂浜に近いところは土が柔らかいから、こういう穴には向かないぞ」
「アンジール!!」
ザックスは立ち上がり、嬉しさのあまりぴょんぴょん飛び跳ねた。
白いカラスはイチジクを食べるのも忘れてぽかんとしている。
翼を広げたアンジールはザックスを軽々と助け出し、頭を撫でた。
「俺がいない間もよく頑張ったな」
「うん!!おかえり!!」
「ああ、ただいま」
アンジールが帰ってきてくれただけなのに、ザックスはそこらじゅう走り回りたいくらい嬉しかった。
ひとりで頑張っていかなくてはと思っていても、嬉しいものは嬉しいのだから仕方ない。
ザックスをひとしきり褒めたあと、アンジールは枯れ枝に留まっている白カラスを見上げた。
「ザックスを手伝えと言ったのにひとつも手伝わなかったな、お前は」
「だってさー」
「だってじゃない。お前は仮にも烏天狗の眷属だろう。そんなに怠惰な様では一人前になれんぞ」
「はーい」
「アンジール、居てもいいことになったの?」
「ガイが封印してあるからな。万が一に備えて俺はここに常駐することになった。この山が元に戻ってガイの力が及ばなくなれば帰ることになるだろうが、まだずっと先だな」
「そっか。俺、ひとりで頑張ろって思ってたけどやっぱちょっと寂しかったりしたから、アンジールが帰ってきてくれて嬉しい」
「そうか。またよろしくな」
「うん!こちらこそ!」
満面の笑みを浮かべるザックスに、アンジールはくすぐったい心持ちになった。
幼子に懐かれたときのくすぐったさに似ている。
理由も打算もなく全面的に信頼した無邪気な笑みを向けられた時の、あのあたたかな気持ち。
「お前土まみれじゃないか。寒くなる前に体を洗ってこい。火を焚いておいてやるから」
「うん!」
浜辺に向けて、弾かれたようにザックスは走り出す。アンジールはその背中を見送り、ゆっくりと岩陰のねぐらに向かう。
木の枝に留まっていたカラスがアンジールの肩に舞い降りた。
「俺の目勝手に使わないで欲しいんだけど」
「それじゃあお前を『目』代わりにここに置いていった意味がない。賢いお前ならわかってると思ってたんだがな」
「ったくー!」
カラスは不満そうに羽を膨らませる。
「と言うわけで俺はしばらくこの山に居る。お前は帰っていいぞ」
「はいはい帰りますよー!」
面白くない、といった風情でカラスは飛び立ち、あっという間に夕空の向こうに消えていった。
アンジールが見上げた秋の空はもう暮れかけて、東の空に宵の明星が輝き始めていた。


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