山妖譚〜S'ai〜 序章

同じ夢を繰り返し見る。
巨大な火の玉が空から落ちてくる夢だ。
火の玉、というより隕石なのかもしれない。
真っ黒なくせに真っ赤で、禍々しくて。
空はその火の玉に焼かれて焦げたようにどす黒い。
どんどん近づいてくるそれを、俺はずっと見上げている。
空から熱が降ってくる。
周囲の木の葉が音もなく燃えて散る。太い幹も瞬く間に生気を失い、立ったまま炭になったように黒くなってボロボロと崩れていく。強い熱と焦げくさい臭い。
逃げたいのに、恐怖で足が竦んで動けない。
このまま焼き尽くされて死んでしまうんだ、と思ったところでいつも目が覚める。
目が覚めた時はいつも汗びっしょりで、夢でよかったと思うと同時に何か焦げたような臭いが鼻の奥に残っていて気持ちが悪い。
今朝はその夢で飛び起きて、寝覚めは最悪だった。

……ガッコーめんどい。
めんどいけど、家にいてもつまらないから制服に袖を通す。
家から出ると、冷たい冬の空気が肌に刺さってピリッとした。
寒いのは苦手だけど、こういうのはなんか好きだ。
カラスが電柱の上で何か騒いでいる。
白い息とともに見上げて深呼吸してから、ふと視線を感じて振り向いた。
少し離れたところに、男が立っていた。
初めて見る顔なのに、どこかで会ったことがあるように思う。
冬の朝にコート姿なんてどこにでもいる服装だし、何もおかしなところはない。
だけど何故か無性に怖くて、俺は逃げるように走り出した。

走り去る後ろ姿を見送りながら男は嘆息した。電柱の上で騒いでいたカラスがその肩に舞い降りて、当然のように口をきいた。
「見えてるな」
「ああ、見えてた。だが飛ばされた挙句記憶を封じているようだ……どうやって連れ戻すか」
「そのまま連れてけばいいじゃん」
肩の上のカラスが羽繕いをしながら軽く言う。
「バカ言うな」
「めんどくさいなあ。たかだか小さな山の守り一匹に」
「八嶋全体のためにも、あの山がガイに取り込まれてしまうのは避けたい。山の守りを無事に連れ戻すのが俺の使命だ」
「相変わらず堅いなアンジールは。まあそこがいいとこだけどさ!」
カラスはからかうように言うと黒い翼を広げた。
「じゃあ俺は宿主の様子を探ってくる。あのおチビさんは綺麗さっぱり忘れてるみたいだし、思い出すにはまだ時間かかるだろ」「ああ、頼む」肩から飛び立つカラスの姿を見送って、アンジールは姿を消した。


ガッコーが終わった時には、夢のことも朝会った男のことも忘れていた。
でも帰り道にカラスの鳴き声を聞いて、ふと思い出した。
思い出すだけでなんだか怖い。
男そのものが怖いわけじゃない。『何か怖いこと』を思い出してしまいそうで、嫌なのだ。
足を速めて自宅までの道を急ぐ。
最後の曲がり角を曲がった時、自宅の手前に朝の男が立っているのを見つけて俺は硬直した。
立ち竦んでいると、道の向こうからバイクが一台曲がって直進して来た。男の背後からヘッドライトの光がこっちに向けて迫ってくる。
男は動かない。バイクはまるで気づかない様子で直進してくる。ライトの光で男の姿が一瞬見えなくなった。
ぶつかるーーーそう思った瞬間、バイクは男の身体をすり抜け、俺の脇を通り過ぎた。

「……え?」
再び暗くなった道路に、男は変わらず立っている。
……幽霊なのだろうか。
このへんで事故があったとかそんな話はきいたことがない。
でも、動かない幽霊なのならここで棒立ちになって家に入れないのはバカバカしい。俺は意を決して、男の脇を通り抜けることに決めた。男が動かないかに神経を集中させてそろそろと歩く。
身体が勝手に怖気付いて、無駄にがくがく震える。
カニみたいな横歩きで通り過ぎた時、低い声が耳に届いた。
「お前は俺と同類だ」
それだけで飛び上がるほど驚いて、俺は自宅に駆け込んだ。
半分靴を履いたまま部屋へ飛び込み、カーテンを閉めてベッドに潜り込む。
心臓がばくばく言って、なかなか収まらない。
同類ってどういうことだ。
バイクがすり抜ける幽霊と俺が同類だなんて、そんなことはあり得ない。
あり得ない、絶対に。
何故かそう思わなければならない気がして、俺は布団の中で子供のように震えていた。


その夜はまた巨大な火の玉が迫ってくる夢を見た。
熱い。怖い。逃げたい。
目を閉じることさえできない。息が苦しい。
もうだめだと思った瞬間、目の前に銀色の壁が出来た。
熱がすうっと引く。急に呼吸が楽になる。
壁だと思ったものは大きな翼だった。
空から迫る赤く黒い火の玉を押しとどめるほどの強さを持つ、白銀の翼。
だけど安堵する間も無く、盾になっている翼がこちら側にぐうっとたわんでくる。ぞわっと強烈な寒気に似た怖気を感じた瞬間、俺の意識が吹き飛んだ。

目覚めた時はいつものように汗だくだったけれど、いつもと違うのは僅かに夢が展開したことだった。
長いこと同じ夢を見ているけど、展開したのは初めてだった。
守るように盾になってくれた白銀の翼。
あれは誰だったのだろう。大きな鳥だったのだろうか?
ふと、あの幽霊のことを思い出した。翼なんかないのに。
家を出たらまた幽霊がいた。怖い気持ちは変わらない。
ただ昨日ほどの恐怖感は感じなくて済んだ。

その日から、俺の夢では巨大な火の玉をこれまた大きな銀色の盾が防いでくれるようになった。
最終的に意識ごと吹っ飛ばされた気がして寝覚めが悪いのはあまり変わらないけど、死んでしまうと絶望しながら目を覚ますのよりは格段に朝のモチベーションが違う。
気持ちに少し余裕ができたせいか、毎日同じところに立っている幽霊のことも最初の頃ほど怖いと思わなくなってきた。
その日の朝も、いつものように通り過ぎた。
ふと、そういえばこの幽霊に話しかけられた日から夢の内容が進んだことに気がつく。
立ち止まって振り返ると、幽霊はおや、と言うように僅かに表情を動かした。
でも何をどう聞いたらいいのかわからなくて、結局顔を睨むだけになってしまう。
すると幽霊は静かに口を開いた。

「夢見はどうだ」
「……夢って、あんた何か知ってんのか?!」
「あれはお前自身の記憶だ。少しは何か思い出したのか」
「記憶……?あんな、星みたいな、隕石みたいのが降って……?」
「お前はあの災厄から逃れようと強く願った。そしてあの災厄の作り出す大きな歪みに引きずり込まれて、ここに落ちた。探すのに随分手間取ったぞ」
「……あんたが、俺を探す?」
「俺はお前を連れ戻さなくてはならない。そうしなければ山は穢れ、ゆくゆくは八嶋そのものが穢れてしまう」
淡々と幽霊が言う言葉に何故か不安が募っていく。知りたくないと耳をふさぐ自分と、気になって仕方のない自分がせめぎ合う。
「何言ってんだよ?俺はここで生まれて」
「だったら何故俺が見える?」
「……え?」
「他の人間に俺は見えない。俺はここで器としての肉体を持たないからだ。それでもお前に俺が見えるのは、お前の本質がこちら側にあるからだ。今のお前の体はかりそめに過ぎない」
背中がゾッとした。それは、最初にこの幽霊を見た時に感じたものと同じ。
得体の知れない恐怖と、世界が壊れてしまうような不安。
怖いことを思い出してしまう予感を押さえ込むように湧き上がる怒り。
「黙れよ、俺は、俺だ……!ここで生まれてここで育って……あんたの同類なんかじゃない……!」
そう怒鳴りながら、直感する。
この幽霊の言っていることは『正しい』。
俺が認めたくないだけ。本当のことを知りたくないだけだ。
だからこんなに怖くて苛立たしい。
踵を返して走り出した。見たくない真実から逃れるように。
わからないのかと言いたげな幽霊の表情だけが、脳裏に残っていた。

「アンジール」
音を立てずに舞い降りてきた黒い翼。
烏は広い肩に留まって羽を畳む。
「少し厄介なことになりそうだぞ」
「何?」
「おチビさんの干渉が大きくなりすぎたのか、宿主の意識が回復してきてるのかはわからない。だけど何かヤバい気配がする。しばらくあのおチビさんから離れない方がいいかもしれない」
「それは困ったな」
「何がだよ?」
「今しがた猛烈に反発されたところだ」
「なんだそれタイミング悪い!!」
威嚇でもするように烏は羽を膨らめて尾羽を広げる。抗議しているつもりなのかもしれない。
「気づかれないように見張ればいいだろう。どのみち俺がくっついて歩くわけにはいかないしな」
軽く肩を竦めて、アンジールは歩き出す。すぐに烏の言う意味がわかった。
空から視線を感じるのだ。
動かずにいた時は気づかなかった。恐らく動くものだけが感知するのだろう。
空を見上げても、そこに何があるわけでもない。ただ、凝視してくる視線を感じる。
「やれやれ」
アンジールは歩く速度を速めた。

退屈な授業をやり過ごして、下校時間になる。
級友たちの騒がしい話し声や笑い声がやけに遠く感じる。
なんだか自分の周りだけモヤがかかってしまったみたいだ。風景もぼんやり滲んでいる。声や音も、こもったようではっきりと聞こえない。
誰かに話しかけられた。
よく知っている顔のはずなのに、輪郭以外は全部ぼやけているし、何を言われているのかさっぱりわからない。
何も答えられずに黙っていると、呆れたようにどこかへ行ってしまった。
俺はどうしてしまったのだろう。
これではまるで、この世界で俺だけが異物のようだ……幽霊が言ったとおりに。
正しいのは向こうだとわかっている。わかっていても、納得できない。したくない。
こんなに強硬に耳を塞ぎたくなるのが何故なのか、考えるのも怖かった。
目も耳も閉じていたい。なにも考えたくない。
重い足取りで教室から出て、靴を履く。
誰もいなくなった校庭を横切り、学校の敷地を出た瞬間違和感を覚えた。
それはあからさまな悪意だった。
立ち止まり、周りを見回す。
周りにいる人もぼんやりしている。
人だけじゃない。風景ですら、輪郭を失って滲んだ絵のようにのっぺりとしている。
どういうことなのかわからない。
誰かが見ているわけではない。なのに全身に刺すような悪意を感じる。
ギュッと心臓を掴まれるような痛みを伴う不安と恐怖が湧き上がり、居た堪れなくなる。
「なんだ、これ……!なんなんだよ……!」
両腕で身体を抱くようにして、叫んだ。そうしなければ座り込んでしまいそうだった。
悪意だけで死ぬことはないはずなのに、押しつぶされて死んでしまうような錯覚に陥る。
これならあの幽霊に感じる恐怖のほうが数倍マシだ。
震える足を必死に動かして、家に向けて全力疾走を始める。
心臓の鼓動が大音量で耳に響く。
早く、早く。
家に逃げ込んで逃げられるかはわからない。でも外にいるのは怖かった。
一刻も早く家に逃げ込まなくては。
それだけを念じて走る。
通い慣れた道が果てしなく遠く感じる。
早く、早く。
焦って足がもつれる。
走らなきゃ。
息が切れる。苦しい。怖い。
もうすぐ、そう思いながら角を曲がった瞬間。
トラックの鼻先が目の前にあった。
一瞬時間が止まる。
眼前に迫ってくるトラック。
夢中で走っていた足を止めることも、向きを変えて避けることも、声を出すこともできない。
頭が真っ白になった瞬間、バサリと大きな音がして、体が空に浮いた。
「……え……」
何が起きたのか理解するのに数秒かかった。
背中側から脇の下を通り、みぞおちのあたりで組まれた手。
がっちりとした男っぽい手だ。
ぼやけた世界の中で輪郭のはっきりしたものが見えたことに、俺は変な安心感を感じていた。
足元には家の屋根らしい色彩が見える。
上を見上げると、幽霊と目があった。
「曲がり角で飛び出すやつがあるか」
「……助けてくれたんだ?」
「言っただろう。俺はお前を連れ戻しに来たんだ。ここであんなものにはねられて死なせるためじゃない」
幽霊の背中では、大きな白い翼がゆっくりと風をはらんで空を滑っていた。
「その、羽……」
「ん?」
「……幽霊なのに、羽?」
「ああ、なんだ。お前は俺のことを幽霊だと思ってたのか」
すっと高度が下がった。
街並みはもう滲んだ色彩の塊でしかなかった。おそらく自宅だった場所のあたり、ずっと幽霊が立っていた場所に舞い降りる。
「俺は烏天狗だ」
「からす……てんぐ?天狗って赤い顔で鼻が長いんじゃないの?」
「確かに人間の前に姿を現す時はそうするな」
コートの内側から、鼻の長い赤い面を出して顔に当ててみせる。
「なんでかぶってないの?」
「どうして同類のお前に面を使う必要があるんだ?」
面を外して、不思議そうに烏天狗が言う。
「同類って、俺人間なんだけど」
「お前は俺が見える時点で人とは違う」
「そんなことない……!」
「じゃあお前、名前は?」
「え?」
「名前。生まれたときに親から授かる、最も短く、最も重要な呪文だ。お前が本当にこの世界で生まれ育ったならあるだろう。まさか忘れるわけないよな?」
俺は愕然とした。
自分の名前を思い出せなかったのだ。
制服のポケットに名札がある。裏返されたそれを読もうとしても、読めない。
「……なんで」
「お前はこの世界に紛れ込んだだけだ」
静かな声。だけどそれは死刑宣告に似ていた。
「本来あるべき場所へ戻れ。お前には役割がある。ここに留まれば恐らく、お前は消滅してしまう」
「消滅……?」
「大きな悪意を感じなかったか?」
「あ」
思い出しただけで、腹の底が冷えた。
「この身体は人間のものだ。そしてここは、人間の見る夢の領域。お前はその身体の持ち主の記憶を辿って日常を過ごしていた。お前の見ていた夢こそがお前の記憶」
「俺の夢が、俺の記憶?」
「そうだ。この身体はずっと動かなかった。恐らく事故か何かで意識を失っていた時にお前が紛れ込んだのだろうが……悪意の元はこの人間を守護するものの意思だろう。急に活発になったということは、意識を取り戻しつつあるのだろうな」
「それじゃあ」
「ここでは俺の力は通用しないが、向こうなら話は別だ。お前が怖いなら側にいてやるし、何か脅威があるなら護ってやる。だから俺とともに戻ってくれ」
差し伸べられた手。
武骨な、分厚い手のひら。
この手が温かいことを、俺は知っている。
白い大きな翼が、夢に出てきた銀色の盾であることを知っている。
おそるおそる、俺は尋ねた。
「……俺の、名前も知ってる……?」
「もちろんだ」
「教えて」
「ザックス」
それは本当に呪文だった。
封じ込んでいた記憶が蘇る。強烈な恐怖。がくりと膝から力が抜ける。
ああ、そうだ。
怖くて怖くて、逃げ出したくて。
気がついたらここにいた。
人に擬態して、恐怖を封じ込めて過ごしていた。
助けてもらえていたのに。
あんな途方もない大きさの炎と熱、邪悪な気配を打ち破る力を持っているから、こうして迎えに来てくれた。
最初から、俺は逃げる必要などなかったのだ。

「戻ってくれザックス。お前の山を元どおりにするために。八嶋を穢さないためにも、お前の力が必要だ」
「……うん」
差し伸べられたままの手を取る。
まだ怖い。
それでも、俺は笑った。
烏天狗が穏やかに微笑む。その頭上に黒い烏が一羽、近づいてきて叫んだ。
「捕まえたんならすぐに戻るぞアンジール!」
「ああ」
手がぐっと握られて、空いた手が腰を抱いた。
「目をつぶってろ」
翼が力強く羽ばたくのを感じながら目を閉じた。
ふわりと浮いた。閉じた瞼の裏までがまばゆく光る。
次に目を開けたときは周囲は一変していた。

焼け焦げた土と木の臭い。
命の気配が感じられない、乾いて荒れ果てた山。
ああ、帰ってきたんだと思った。
こんな惨状は受け入れたくない現実だった。だけど確信する、ここが俺の居場所だ。
この山は俺の一部であり、俺はこの山の護り手だ。
「ガイは封印した。だがこの山が元に戻らなければ、ここから穢れが八嶋に広がってしまう。……お前の力が必要だ」
「うん……正直何をしていけばいいのか全然わかんないんだけど、俺がいないとどーにもならないのはわかった。手を貸してもらってもいい?ええと……」
名前をちゃんと聞いてなかったことに気がついて、隣に立っている烏天狗を振り仰ぐ。
ん、というように眉を動かした烏天狗は、少しして思い当たったように口角を上げた。
「アンジールだ」




次回につづく

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