先生は夏がやって来ようとも変わらず教壇に立ち、抑揚のない声で授業を進める。授業中に目が合うことは絶対にない。私が大きな音を立てて椅子や机をずらそうとも、空気を読まないくしゃみをしても、うるさく男子生徒と喋っていても私と先生が視線上で交わることは決してない。私は授業が終わる度に先生を嫌いになって、授業が始まる度に先生を好きになる。
その日は、気のない生徒とキスをした。昨日、ホースで水をまいた場所で強く肩を掴まれながら、交わされる唇は濡れていた。顔を赤く染めながら、名前しか知らない彼は、また明日と言い、はにかみながら帰って行った。手を振り、彼の姿が見えなくなると、ずるずると地面に座り親指を噛んだ。フェンスを挟んだグラウンドにはラグビー部の練習風景が見える。当然、ルールなんて分かるはずもない。
私は寮に帰ることはせず、先生が使っている宿直室へと足を進めた。どうしても会いたくてたまらなかったが、宿直室に当の本人はいなかった。先生、怒るだろうなとは思いつつも、靴のまま畳の部屋に上がり寝転んだ。先生と初めて会った時を思い出す。先生が拒もうとも、あんなに苦しくて甘い思い出はそう簡単に消えやしない、私の日常はあの時に置いてきてしまった。
寝返りを打って、隙間の開いた襖に自然と目が行った。見覚えのあるものが、はっきりと目に入る。いつの間にか近付いていた足音にも気付かず、私は無心にそれを手に取っていた。
「何している」
「先生、昨日私の部屋に来たんですね」
「…あ?」
「手紙届けてきたの先生なんですね。嬉しい」
振り返って先生の冷たい目を見つめた。これ以上ないというほどの情をこめて。けれど、先生は私が握っていた手紙を取り上げ、髪を掴んで私を畳から引きずりおろした。
「土足で上がるんじゃねえよ、汚ねえだろ」
「痛い、先生」
「とっとと帰れ」
「嫌だ。だって先生、」
「その手紙は俺のじゃない」
「嘘!それなら、何でここにあるの」
髪を掴む先生の手を爪で引っかきながら、ついに涙がこぼれた。先生はどうしようもない嘘つきだ。
「嘘つき、ぜんぶぜんぶ嘘!私、知らないわけじゃないんだよ」
泣き叫ぶ私はずいぶんと醜いだろう。涙がこぼれてから先生の顔はよく見えていない。先生の足にすがりながら私は思い出を巻き戻していく。先生は、高校の入学式に遅れた私を淡々と叱りつけながら体育館まで付き添ってくれて、友達がなかなか出来なくてトイレで昼を食べようとする私を無理やり、この部屋を掃除しろだなんて理由をつけて一緒に昼休みを過ごしてくれたり。友達が出来てからも先生は何かと私に掃除を言いつけたし、課題が終わらない時は怖かったけど先生なりに教えてくれた。その後に先生が出してくれるコーヒーが苦かったけど私は大好きで。それから、私が階段から落ちた時、保健室に先生はやってきて寝ている私の髪を撫でて、そして頬に触れたあと耳元で囁いたのも。
「私ね、あの時起きてたんだよ」
「…言うな」
「あれから私、独りよがりでもいいから自分の中でこう願ってた。先生と私は秘密の恋人だって」
寂しい夢を私は抱き続けていたのだ。私はひとしきり泣き終え、肩でえづきがら床にうずくまる。先生に起きあがらせられて、目に見えない汚れでも落とすかのように私の体をはらった。
「とにかく、手紙は俺のじゃない。落ち着いたらすぐに帰れ」
変わらない目で先生は言った。嫌いだ、先生なんて。
まえ つぎ