その人はよく笑う人だった。
綺麗な白い歯を見せて笑う人だった。
いかに辛い場面でも笑う人だった。
何事に対しても大丈夫だと笑う人だった。
私の名前を呼んでは楽しそうに笑う人だった。
―嗚呼、それだけはよく覚えている。
でも、
でも、ただそれだけ。
たったそれだけを思い出した。
何の前触れも無く、ふとした瞬間に何を思ったのかそう自身の脳内が自分の意志とは関係無く、言葉を発した。
脳裏に焼き付いたその僅かな残像もやんわりと揺蕩う、心地のいい微睡に飲まれていく。嗚呼、駄目だ。忘れては。忘れてはいけない。そう思うのに、既に脳裏に思い留めておきたい記憶は無くなっていた。
あれ?私は何を考えていた?
ほら、この有様である。今の今まで考えていた事がコロンと脳内から転がり落ちて、見えない闇に溶けて消えて行く。もう考えるのも面倒だ。しかし此処で思考を投げ出したら駄目だ。何かを考えなくては。そう思っては居るのだが……嗚呼、嗚呼、駄目だ。飲まれる。飲まれ―…る。
フォゥ…
身体が分解されていくような、遠い感覚に飲まれていく。微かに何か聞こえた気がしたが、そんなの気にする余裕も無い。身体がデータ化されていく。私という存在が、ただの文字と数字の羅列に成り果てつつある。
嗚呼、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ―。
「フォゥ…?」
今度は確かに聞こえた。思考、五感の全てがその何かに向けられる。心のどこかでこの声に縋る気持ちが芽生えた。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。そのifが幾つも幾つも重なると同時に、私の真っ暗だった視界が一つの存在を捕える。
―白い…毛玉?
黒い空間にポツンと現れたそれ。ふわふわの白い毛玉がちょこんと私の視線の先に座り、此方を首を傾げながら見ている。まるで何をしているんだ?とばかりに。まるで、私だけが苦しんでいるような。一緒の空間に居る筈なのに、私だけが隔離されているような。この差は何だ。否、そんな事を考えている場合じゃない。
―あ、
その白い毛玉はジッと此方を見ていたかと思えば直ぐにクルリと身を翻しトコトコと歩き出していく。毛玉の向かう先には微かに光の点が見える。嗚呼、あれが出口か。と反射的に思った。
―ま…、て
私も行く。こんな、こんな所で消滅してたまるか。死にたくない。此処から、出なければ。果たして動いているのか、光に向かっているのか分からないけれど兎に角もがく。一歩でも先へ。先へ。先へ。まだ、私は―…白い毛玉と遠くに見える出口の光に向かって今の自分の限界まで手を伸ばした。そして、
眩しく優しい光に包まれる感覚を憶えて、私の意識はスッと溶けて行った。