「…遂に来ちゃったな……」

35時間の移動時間を経てようやく空港に降り立った。ふう、と一息つくとじわりと汗が滲んでくる。

(やっぱり上着いらなかったな…)

キャリーケースを道の端に寄せて薄手のコートを脱ぐ。日本を出るまで肌寒かったから一応着てきたれけど、空港内を歩く人は半袖が多い。飛び交う言語は様々な言葉が混じっていて全く聞き取れない。

「えぇと…今降りたのがAゲートだから……」

スマホに送られてきた空港内の地図を確認する。

「……………?」

スマホをそのまま回転させて見たら自然と首を傾げる姿勢になった。同時にブブッとスマホが震えて電話が掛かってくる。

「もしも…」
『着いた!?着いてるよね!?着いたらすぐ機内モード解除してって言ったじゃん!!』

思わずスマホを耳から遠ざけてしまう声量だ。

「すみません、空港大きいなぁってボケーッと歩いてたら忘れました」
『はァ!?ちょっと!空港内でもスリ多いんだから気をつけてよね!!』

お母さんですか、と言おうとしてやめた。

『今どこ!?』
「えぇと…手荷物取って…周辺地図?みたいな案内板あるところに…」
『そこから動かないでよ!すぐ行くから!』

相手はそれだけ言って通話を切ってしまった。
異国の地に1人で来た高揚感とかもうちょっと浸らせて欲しい。

「栗子!」

ものの数分で正面から名前を呼ばれる。
彼はスマホ片手に猛ダッシュで駆け寄ってきた。

「お久しぶりです。少し焼けました?」
「久しぶり〜やっぱ日差しエグくてさぁ…って違う!ゲート出たら左って教えたよね!?」

一瞬笑顔で手を振ってくれたかと思いきやすぐに歩いてきた到着ゲートを指さしてまた大声を出す。

「ゲート側から見て左って意味なのかと…」
「何で俺が自分から見た側の説明するのさ!?君もうちょっと方向音痴の自覚持とう!?」
「私方向音痴じゃないです」
「仙台だってアーケード出ると「どっちから来ましたっけ?」って言うじゃん!それ立派な方向音痴だから!」

時差ボケで頭がうまく回らないのもあるけど、会って早々に説教されるのはイラッとする。

「…チッ…お母さんか」
「舌打ちやめて!」

はぁ、と溜息をついてから足元に置いていたキャリーケースを持ってくれた。

「…駅まで出てくるとか言ってたけど空港まで迎えに来て正解だったな…1人で帰省してくる孫を待つじいちゃんばあちゃんの気持ちがよく分かったよ」
「行けると思ったんですけど」
「心配だからやめて。日本に比べて治安あんま良くないんだから」

空港を出ると屋根があるにも関わらず強い日差しに思わず目を細めた。日本の真夏ほどではないけど湿気がなく風が乾いている。南米特有のカラッとした暑さだ。
周囲の人は皆半袖で、薄手でも長袖を着ている自分がかなり浮いて見える。

「……暑…」
「春って言っても20℃以上あるからね。先にホテルに荷物置きに行くけど…時差ボケ酷いなら仮眠してから飯行く?」
「いえ、寝てる時間勿体ないので大丈夫です。でも半袖に着替えたいです」
「オッケーじゃあひとまずチェックインしよっか」

何故日本から遠く離れた南米・アルゼンチンにいるのかというと話は2ヶ月ほど前にさかのぼる。

「大事な話、ですか?」
『うん。電話じゃ嫌だから、1回帰ろうと思うんだけど都合いい日教えて。大学春休みでしょ?』
「そうですけど……あの、私がそっちに行くのでもいいですか?」
『……は!?そっちってこっち!?アルゼンチンに!?来るの!?君1人で!?』
「駄目ですか?」
『いや駄目じゃないけど移動だけで1日以上かかるよ!?直行便ないから乗り継ぎ必要だし、日本語どころか英語もあんま通じないよ!?ってかパスポート持ってんの!?』
「去年友達と韓国旅行行った時に取りました」
『韓国とは遠さが比じゃないんだけど…時差もあるし…』
「外国なことに変わりはないですよね?それとも私が行ったらマズいことでもあるんですか?」
『…君ってほんとそういうとこ譲らないし図太いよね…』
『……はぁ、いいよ。ただし!俺が教える通りに航空券買って俺が教える通りに来てよ!?ちゃんと行程表も作って送るから!』
「そんな小学生じゃないんだから…」
『君が極度の方向音痴だから言ってんの!』

…というわけで。
遠路遥々アルゼンチンの地を踏むことになったのである。

「!美味しい」
「ほんと?よかった」

ホテルで半袖に着替えて快適になったところで食べた初めてのアルゼンチン料理。ピタパンのようなものにスパイシーなソーセージや野菜がたっぷり挟まった所謂サンドイッチだ。

「こっちのポトフみたいなの何て言うんですか?」
「プチェロ。味付けシンプルだけど美味しいでしょ」
「はい。こっちの料理って全部辛いイメージでした」
「俺も。肉料理かなり種類あって美味しいんだよね」
「日本でも流行ればいいのに」
「仙台にもアルゼンチン料理屋あるみたいだよ」
「ほんとですか?帰ったら探してみます」

確かに肉料理が多いけど、味付けは意外にシンプルで食べやすい。日本人好みの味付けだと思う。

「どう?アルゼンチン」
「海外に来た!って感じがします。韓国は東京っぽい街並みだったのもあってあんまり海外感なかったんですけど…」

フォークを置いて辺りを見渡す。大きな道路沿いの飲食店はオープンテラスが多く、昼間でもみんなビールを飲んでいて賑やかだ。日本ではあまり見られない光景だから何だかワクワクする。

「そうだ、コレ見て」
「?」

そう言ってスマホをテーブルに置いて画像を見せてきた。写っているのは

「…岩泉さんと……牛島さん!?」
「そ。あっちで会ったんだって。岩ちゃんが弟子入りしたトレーナーがウシワカの父ちゃんだったとか何とかで」

そう説明する顔は苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情だ。幼馴染と嫌いな相手が一緒に写っているのが相当嫌らしい。

「はー…世界狭いですね…」
「ホントだよ」
「これ私にも送って下さい」
「え、何で?」
「だって岩泉さんと牛島さんのツーショットとかこの先見れなそうだし…待ち受けにしたらご利益ありそう」
「ないよそんなの!待ち受けにするなら俺の写真送るから!」
「いりませんよ。なんか運気下がりそう」
「君にとっての俺価値低すぎない!?」

のんびり昼食をとった後は観光スポットに連れて行って貰って、お土産を物色して、空が薄暗くなった頃ホテルの部屋に戻ってきた。アルゼンチンは日没が日本より遅いらしく、薄暗いと言っても夜の7時を過ぎたばかりだ。
ホテルの客室は日本のビジネスホテルとは比べ物にならないくらい広い。部屋の中央にキングサイズのベッドが2つ並んでいて、大きな1枚窓の傍には2〜3人がゆったり座れるソファーとテーブルが置いてある。日本でもそんな高級ホテルには泊まったことがないけれど、人目で観光客向けの良いホテルなのだということが分かった。

「…広すぎて落ち着かないんですけど…すごい良いホテルなんじゃないですか?見栄はらなくても…」
「はってないはってない(ちょっとはったけど)。都内のホテルと同じくらいだよ。ちょっと郊外にあるってのもあるし、ここ朝食美味しいからさ。せっかくアルゼンチンまで来てくれたのに、格安のビジホじゃ申し訳ないじゃん」
「私は別に…ベッドとシャワーがあればどこでも…」
「俺がちょっといい宿泊まってみたかったんだよ。こっち住んでて観光客向けのホテルなんか滅多に泊まらないから」

彼はそう言って窓際のソファーに腰を下ろす。カーテンを開けると川沿いの夜景が見えた。飲食店や公園の街頭が織り成す夜景は東京で見る高層ビルの夜景より温かみがある気がする。

「でもほんとにホテル取って貰って良かったんですか?クラブの寮、ここからそんな遠くないんでしょ?」
「いやいや、40時間近くかけて来て貰った挙句彼女にホテル取らせてじゃあ自分は帰りますとか流石にサイテー過ぎるでしょ。ホテル代くらい出させてよ。ホントは航空券代も出したかったけど」

実は航空券代を出す出さないで15分くらい揉めた。「出す!」という彼を「出すっていうなら話聞きませんよ」と脅して「じゃあせめてホテルこっちで取らせて」に譲歩させた。

「私から行くって言ったので例え出されても熨斗付けて返してました」
「言うと思った。でも夕飯ホテルで良かったの?美味しいとこ知ってるのに」
「だってその大事な話、すぐ終わるやつじゃないでしょ?」
「……まぁ……うん」

歯切れの悪い返事をする彼をよそに買ってきたお土産の整理を始めた。広い部屋なのについベッド周辺に荷物をまとめて置いてしまう。
キャリーケースのファスナーを閉めてベッドに腰を下ろす。窓際のソファーに座っていた彼は頭を掻きながら長い息を吐いた。

「…俺今から最低なこと言うけど、とりあえず黙って聞いて欲しい」

真剣な表情を見るのは久々だった。
…見納めかな、とも思った。

「大丈夫ですよ。ちゃんと全部聞きますから」
「…ありがと」

そう言って少し笑った。
多分、彼の方が緊張しているのだと思う。
何から話そうか考えているように見える彼を黙って待つ。もう一度長い息を吐いて、彼は口を開く。

「……帰化することにした」

恐らく決めていた段取りを諦めて、彼は真っ直ぐこちらを向いてそう言った。

「…学生の時から頭にはあったんだけど、周りにはよく考えろって言われてさ。でも俺はいつだってよく考えて決めてきたつもりだよ。俺は俺の決めたことを後悔したことはないし、多分これからもしない」
「俺は俺の力でボコボコにしたい奴らがまだ沢山いるけど、それはきっと今のままだと出来ないから」

そう言った彼の目には強い光が宿っている。明日とか1ヶ月後とかじゃなく、1年、3年、もっとかもしれない。先を見ている目だ。

「……及川さんらしいですね」
「…驚かないんだ?」
「驚いてはいますけど…期間決めてるわけじゃなかったみたいだし、ただ漠然した気持ちで此処に来たわけじゃないんだろうなって思ってたから」

他人の評価は知らないけれど、恐らく多くの人は彼を堅実な努力家だと評するのだろう。もちろんそうだと思う。でもそれ以上に、一度積み上げたものを壊してでも先へ進むという強い欲求と意志がある。普通の人なら終着点にする場所でも、この人にとっては通過点だ。

「…でも俺は君に「ついてきて欲しい」とは言わない」

だから、緩い力で掴んでいては振り落とされてしまう。

「万が一、億が一君が「ついていく」って言ってくれても俺が嫌だ。自分の体以外何にも保証が出来ない。君の体もメンタルも、この先何十年も君を縛る権利と自信が今の俺には全くない。だから………」

そこまで言って躊躇い、下唇を噛むようにして顔を伏せた。手の平で顔を覆ってそのまま項垂れる。

「…大丈夫ですか?」
「……いや…俺のことはいいよ。どうでも」

そのままの姿勢で何度目か分からない深い溜息をつく。顔を上げようとしない彼とは対称的に、自分はとても落ち着いていた。

「……ありがとうございます」

その言葉に彼は勢い良く顔を上げる。
幽霊でも見たみたいな顔だ。

「私から「別れて下さい」って、言わせようとしてくれてるんですよね」

照明のせいか、彼の顔は少し青ざめて見えた。

「……気づいてたの…?こういう話だって」
「大事な話って言われた時から何となく。日本でこの話聞いてたらきっとアルゼンチンとか一生来ないだろうなって思ったので一度は見ておきたかったんです。帰化までは予想してなかったですけど」
「………マジか」

今度は両手で顔を覆って宙を仰いだ。

「怒んないわけ?」
「好きだって言ったのは俺だし、待ってて欲しいって言ったのも俺だ。なのに帰化するから別れて下さいって言わせようとしてんだよ?腹立たないの?」

姿勢を戻して問いかけてくる。少し感情的に聞こえるのは恐らく彼自身がそう思っているからだろうし、感情の起伏が乏しい自分の代弁をしてくれているのかもしれない。

「…「勝手なこと言わないで!」って顔面殴って立ち去ればいいですか?」

黙って聞いているのも疲れてきたので反撃を開始する。

「まぁそれだと後腐れなくて気は楽ですよね。怒りの感情って持続しないし、後々思い出して腹は立ってもその時程のエネルギーじゃないから「そんなこともあったなぁ」程度の思い出になりますもんね」

「そんなのは嫌です」

睨めるような視線を向けると彼の肩が強ばったのが分かった。

「泣いて怒らなきゃ私が及川さんのこと好きだったって証明にはならないんですか?そんなチンケな感情でわざわざアルゼンチンまで来たと思います?」
「ちょ、ちょっと落ち着こう!?怒るとこそこじゃないでしょ!?」
「そこですよ!」

ここに来て初めて声を張ったら無意識に立ち上がっていた。

「…私は、貴方のことをあまり知ろうとしてきませんでした」

「及川さんってお喋りだけど、結構自己完結型じゃないですか。私が聞いたところで理解出来ても共感は出来ないから、なら最初から聞かない方がお互い楽なのかなって思っちゃった」

それを後悔はしてない。
もっと自分が聞き上手だったら、とか寄り添う姿勢を見せてたら、とか考えはするけど過ぎたことはどうしようもないと割り切っている。

「私、及川さんの「何でもお見通しですけど?」って姿勢がめちゃくちゃ苦手でした。だからどんな時も絶対にこの人が想像してるようなことはしてやらないって決めてるんです」
「…それは…うん…日々の言動から重々承知してます…」
「だから泣きながら怒って平手打ちもしないし「別れて下さい」ってこっちが振ってやったみたいな言い方も絶対にしません」

一歩椅子に近づく。

「及川さん」

そして頭を下げた。
顔は見えないけど、多分彼は呆然とした表情をしていると思う。

「ついて行くって言える彼女じゃなくてごめんさい。ついて来て、って言わせられなくてごめんなさい」

声が少し震えたかもしれない。

「…きっと半分も伝わってないだろうけど、私はちゃんと、貴方のことが好きでした。それを口にして来なくて、ごめんなさい」


「私の恋人でいてくれて、ありがとうございました」


顔を上げたら、やっぱり零れてしまって視界が揺れた。ソファーが軋む音がしたかと思うと、強い力で抱き寄せられる。少し痛いくらいだ。
最後にこうした時より厚く感じる胸板に頭を預けて、両手で背中にぎゅっとしがみつく。
…ああ。落ち着くなぁ。

「…泣きましたよ。満足ですか?」
「雰囲気!!!!」

台無しだよ!?と勢いよく顔を上げた彼の目尻が少し赤い気がした。長い指が伸びてきて頬骨の上の涙を掬ってくれる。
手の平がそのまま頬をすっぽりと包んで、熱の心地良さに思わず目を閉じた。
それを同意ととったのか顔を持ち上げられて唇が塞がる。緊張していたからなのか、お互い少しかさついていた。
距離をとって目線を合わせてからもう一度。今度は首の付け根を押さえて深く、長く。背中にしがみつく手に力が入る。息苦しささえ今は心地よかった。

「………決心が揺らぐから殴って怒鳴り散らして欲しい…」

両肩を掴んで距離をとってから彼はそう言って項垂れた。

「やれって言うならやりますけど…でも部屋出ては行きませんよ。こんないい部屋勿体ないし…ルームサービスまだ頼んでないし…」
「俺君のそういうとこホンッッット好きだな」

そこでお互いようやく笑えた。

「日本に帰るまでは、彼女でいさせて下さい」



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