5.些細な出来事を願う


 合格発表は、二人で見に行くことにした。
 俺は必死で、悪い方の結果を考えないようにしていた。だから泰裕に誘われた時も、二つ返事で承諾した。
 待ち合わせは大学の最寄り駅。よく晴れた、その分冷え込みの厳しい日だった。

「いよいよだね」

 白い息を吐き出しながら、泰裕が言う。さりげなく一瞬だけ触れ合わせた手のひら。
 主語のない台詞だったけど、共通項を持っている俺には何のことかすぐにわかった。

「………うん」

 いよいよ、俺の運命が、決まる。
 ここへ来て俺はようやく、自分の失敗に気づいた。
 どうして一人で見に来なかったんだろう。よほどのことがない限り、余裕でA判定を出していた泰裕が落ちることはないだろう。
 けど俺は――?
 常に泰裕と一緒にいて、泰裕と同じ目線で見ていたから、自分の実力を過大評価していなかったか?
 どくんどくんとうるさいくらいに脈打ち始める心臓。期待よりも不安の音が大きいそれを鎮めるように、左手を胸に当てるけれども、効果はまったくと言っていいほどなかった。
 さして会話もないまま、歩いて数分でたどり着いた目的地。目指す場所は、受験生と、その親と、その他大勢の人で溢れかえっていて、探すまでもなくすぐにわかった。
 合格者の受験番号が貼られているであろう、その場所までの距離がひどく長く感じる。嫌な予感はますます胸を大きく占め、俺はもう、何かを喋れるような状態じゃなくなっていた。そんな俺を察してか、泰裕も特に何も話しかけてはこなかった。
 ようやくたどり着いた掲示板の前、学部の違う泰裕と一旦別れ、手元の受験票で一度自分の受験番号を確かめてから、自分が受験した学部の合格番号の一覧に左から順に目を通す。

 1779、1798、1801、1813……。
 もう一度見る。1801、1813。1801、1813……。





 俺の番号が、ない―――。





「那津」

 耳の後ろ、少し高い位置から落とされた耳慣れた呼び声。
 いつの間にこんなに近くまで来ていたんだろう。いつもなら、それだけで心がほんのりと暖かくなるような、耳に心地よい声と馴染んだ呼び名。でもその声の持ち主は、俺が今、一番会いたくない人だった。
 気温のせいだけじゃなく、冷えた背中。呼び声と同時に肩に触れた泰裕の手のひら。いつもなら、触れられたことで軽く熱を持つ体は、まるで氷漬けにされたかのように冷え切ったまま、指先一本ですら動かせずにいた。
 いい結果と悪い結果。自分の実力を勘定に入れなければ、どちらの可能性も平等に存在するはずだった。そして、自分の実力と定員に対する倍率を考えれば、無謀な挑戦、とまでは言わないまでも、今日のこの結果は充分予測の範囲内だったはずだ。
 それでも嫌なものからは目を逸らしたいという気持ちが、悪い方の結果が出る可能性を、無意識に脳内から排除していた。肝心の結果はまだ出ていないにもかかわらず、やり遂げた達成感だけですべてが終わったつもりになって浮かれていた。
 冷静に考えれば、簡単にわかったこと。現実を甘く見ていた自分が恨めしい。
 一緒にここまで来ておいてこんなことを思うのはひどいと思う。でも、できれば今は、泰裕にだけは会いたくなかった。
 俺が泰裕を振り返りもせず、返事もせずにいることに焦れたのか、泰裕が斜めに足を踏み出し、俺の前に回りこんだ。

「那津、どうだった?」

 それだけでわかった。
 普段と変わりない声。落ち着いた、暗い色を含まない声。おまけに、自分のことは一切言わずに、俺の心配だけをしている。
 つまり、自分のことはもう心配ないのだ。
 それが、悪い結果であるはずがない。

「那津?」

 かちかちに固まっていた体がゆっくりと弛緩する。
 俺は、こみ上げてきた泣きたい衝動を、自分の中の理性を総動員することでなんとか押しとどめ、顔の筋肉をぎこちなく動かして、泰裕に向かって微笑みかけた。

「あ、うん……、ダメだった。……ごめん」
「……謝る必要ないよ。那津……」

 俺はちゃんと笑えているだろうか。
 自分がダメだったからって、みっともなく泣き喚いて、泰裕を困らせるようなことはしたくない。
 泰裕が好きだから。
 ちゃんと笑顔で、祝福してあげたい。

「泰裕は受かったんだろう? おめでとう。結果もわかったし、もう帰ろう」
「ありがとう。でも那津……」

 泣くなら、ひとりで。

「ここ、寒いし。なあ、帰ろう」
「那津……」
「帰ろう」

 繰り返し、俺の名を口にする泰裕。
 俺はずるい。
 何を言われても、上手く受け答えできる自信がないから。
 泰裕の呼びかけに続きがありそうなことをわかっていながら、気づかないフリで無理矢理会話を遮り、先に立って歩き出した。

『卒業したら、うちへいらっしゃい』

 優しい声でそう言ってくれたおばさんの、泰裕と同じ柔らかい笑顔が脳裏に浮かぶ。
 はっきりそう言われたわけじゃないけれど、俺も泰裕も、「大学進学」が一緒に暮らすための大前提だと思っていた。
 赤の他人の、しかも男の俺を、息子の恋人として受け入れてくれた優しい家族。家族のいない俺のことを考え、行動してくれた、優しい恋人。
 大切な人たちに報いるよう、精一杯努力したつもりだった。でも、結果を見れば、俺の努力は足りなかったんだろう。
 どんなに嘆いたって結果は変わらない。人前で泣き顔さらすなんて無様な真似だけはしたくない。だから俺は、唇をきゅっと噛みしめ、まっすぐ顔を上げて、目標物を見定めて、ただひたすら足を動かした。
 遅れて動き出した泰裕が、俺に追いつき、横に並ぶ。

「………」

 黙ったまま駅に向かって前へ前へと足を進める俺に、泰裕も何かを察したのか、もう話しかけては来なかった。



* * *



 ほんの数分で、来るときに待ち合わせをした大学の最寄り駅にたどり着いた。
 俺はここで別れるつもりだったのに、泰裕は俺を送っていくといって聞かなかった。
 理由を尋ねたら「だって那津ひとりだと――」。
 その後に続く言葉はよく聞きとれなかったけど、聞き返すだけの気力はなかった。泰裕はくるりと身を翻し、なぜか、ホーム中央にある自動販売機へと向かった。

「はい」

 戻ってきた泰裕の手には、一本のココアの缶。

「さっきからずっと、震えてる」

 そう言って俺と向かい合わせに立つと、救い上げるように俺の手を取った。力を入れてぎゅっと握り締めていた拳は、手袋をしていないこともあって、青く冷え切って小刻みに震えていた。泰裕は、それをゆっくり解くと、俺の手にココアの缶を持たせてから、包み込むようにぎゅっと握った。

「あ……」

 ――温かい。

 ココアの缶。泰裕の手のひら。泰裕の心。
 じんわりと染み込んでくる温かさ。泰裕からは何の言葉もない。ただ俺の手を握っているだけ。けれども、下手な慰めを言わない分、余計、涙が零れそうになった。

「那津のために買ってきたから、飲んで」

 泰裕はそのまま、左手で俺の手ごと缶を支えると、右手で器用にプルトップを開けた。
 促されるまま一口口に含む。温かい。もう一口。温かくて、甘い。

 ――泰裕は、俺に優しすぎる。

 列車到着のアナウンスが流れる。程なくして、視認できる位置まで電車が近づいてきた。
 こくり、ともう一口ココアを飲み下す。けたたましい音を立ててホームに電車が滑り込んでくる。ドアへ向かって周りの乗客が列を作る中、泰裕は動かない。この列車を見送るつもりだろうか。
 数瞬考え、俺は、まだ中身がたくさん残っている缶を泰裕の胸に押し付けた。

「那津?」
「……ありがとう」

 これ以上一緒にいたら、その胸に泣いてすがり付いてしまいそうだったから。
 身代わりのようにココアの缶を置いて、俺は、泰裕から逃げるように、ドアが閉まる寸前の電車に飛び乗った。

「那津!」

 呼ぶ声を遮断するように、ドアに背を向けて、俺はじっと灰色の床に目を落としていた。



* * *



 そこからどうやって家に帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。
 俺の学費を出してくれている叔父さんは、私立でも構わないから、滑り止めに私立を受けろ、って言ってくれていたけれど、それを断ったのは俺。ここで結果を出せなかった俺は……この先どうしたらいいんだろう。
 どんなに考えても、結論は出てこない。
 携帯電話の電源を切ったままにして、幾日も部屋に閉じこもる日が続いた。
 叔父さんや泰裕の家族に顔向けできない。とてもじゃないけど、泰裕にも会えない。顔を見て、笑って話せる自信がない。
 俺は本当に、これから一体どうしたらいいんだろう。

 同じことを頭の中でぐるぐると考え、気づけば部屋がすっかり暗くなっていた。時計を見ると、六時を二分ほど過ぎたところだった。
 と、突然、普段滅多にならない固定電話の甲高い着信音が部屋に鳴り響いた。
 こんな時間に誰だろう。何かの勧誘だろうか。
 訝しみながら電話に出る。相手は事務的な声の女性だった。

「……そうです、水戸部です。――那津は俺ですけど……?」

 俺の苗字と名前を確認。そこで相手が初めて名前を名乗った。
 まさか、そんな――。
 どくんどくんと、大きく脈打つ心臓。震える声でなんとか受け答えをし、思わず受話器に頭を下げる。
 数日放っておいた携帯を探し出し、震える手で電源を入れる。リダイヤル機能を使って呼び出したのは、もちろん「福井泰裕」の四文字だった。

「泰裕……っ、俺……っ……」
『那津』

 ずいぶん音信不通だったにもかかわらず、受話器からはすぐに泰裕のなめらかな応答が聞こえてきた。
 泰裕の穏やかな声を聞いたら、途端に涙が溢れ出して、止まらない。

「俺……、……っく……」

 言葉にならない。

『那津、泣いてるの?』
「っ、う……」
『那津、落ち着いて、何があったか、話できる?』
「……か、った……」
『何?』
「ホ、ケツ……だって……。今、電話……っ、俺……、俺……っ!」
『――那津』
「………なに?」

 鼻をすすりながら返事をする。泰裕から帰ってきたのは、短い断定だった。

『今から、行くから』



* * *



 それからほんの二十分程度でインターホンが鳴り、相手がわかっているから応対もせずに玄関を開けた瞬間、その場でぎゅっと強く抱きしめられた。

「那津」
「うん」
「よかった――、那津」
「………うん」
「那津」
「………っく、……うん、……うん」

 泰裕の姿を見たら、泰裕が来るまでの間に止めたはずの涙がまた溢れ出して。

「那津、――愛してる」
「……お、れ……も……」

 何度も何度も泰裕は俺に「愛してる」と言い、俺はそのたびに、涙を流しながら頷き返す。
 そうして二人、長いことその場で抱き合っていた。



* * *



 さすがに「お母さん」と呼ぶのは憚られるので、「おばさん」と呼んでいる泰裕の母親と並んでキッチンに立ち、ギョーザを包む。

「あら、那津くん上手ね」
「そ、ですか?」
「うん、上手上手。この調子なら、任せていいかしら?」
「はい」

 おばさんは、俺にギョーザのタネをボウルごと渡すと、鍋に湯を沸かし、スープの準備に取り掛かった。
 こんなやりとり、俺には決して、縁のないことだと思っていた。

『もしも、母親が生きていたら』

 母親を知らない俺にとって、それは、決して想像の域を出ない「もしも」だった。幼い頃は、無邪気に母親に甘える友達の姿や、学校行事には必ず参加する友達の母親を見るたびに、頻繁にそう思っていた。
 でもそれはいつだって叶うはずのない望みなのだからと、どこかで諦めていた。
 だけど今は、違う気持ちで同じことを思う。

 もしも母親が生きていたら、こんな風に、自分たちが作る料理を食べてくれる大切な人を思いながら、母親と二人でキッチンに立っていたのだろうか?
 共通の趣味を語り合えただろうか?
 休日に買い物に出かける約束を交わし、それを楽しみに待っていただろうか?

 同じ「もしも」でも、その仮定は決して暗くはならない。

「おいしそうだね。今日はギョーザ?」

 待ちきれないのか、キッチンにやってきた泰裕が、俺の手元を覗きこむ。

「そうよ。泰裕と違って那津くん、いつも手伝ってくれるから、助かるわ」
「いえ、そんな……」
「本当よ、泰裕にお嫁さんもらった気分」

 そう言ってコロコロと笑うおばさんも、俺を見つめる泰裕の眼差しも、どこまでも優しく、温かい。

『――寂しくなんかないよ。那津のそばにはいつも――……』

 父親の、最期の言葉が蘇る。
 大好きな人が、いつも、俺のそばにいる。こんなに近くに、大切な人たちが、たくさんいてくれる。

 俺が手に入れたいと願っていたのは、そんな、些細な幸せだったんだ。

END

2009/06/16 - 2009/07/20(初)
2009/09/03(改)


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