生きている幽霊 失われた100日間と、それらにまつわる記憶について (A) 長らく休学していた中禅寺秋彦という生徒が復学してくる、という噂を聞いた。詳しくは知らないがそれなりに有名人らしく、聞けば哲学科の期待のルーキー(この言葉が適切かは知らないが)だったらしい。尤も私が入学した三年前には彼は既に休学していたそうだから、私より四つ以上は歳が上、ということになるだろうか。 なんにせよ農学部の私には関わりない話だ。その中禅寺氏とも会うことはなかろう、と噂はすべて聞き流していたし、興味も持たなかった。――当の中禅寺が、私の前に現れるまでは。 中禅寺がキャンパスに顔を出すようになって三日もしないうちに、中禅寺に対する悪趣味な好奇心は終息を迎えた。だから文系の中禅寺がなぜか理系のキャンパスに居て、なぜか私に声をかけて来たところで、誰も疑問に思いはしないようだった。 「やあ――少し時間あるかな」 「え、ええ、まあ」 「良かった。ちょうど退屈していてね。話し相手を探していたんです」 「でも貴方、哲学科でしょう。農学部の僕と話しても」 「農学部だから話しちゃいけないってことはないでしょう。それに、ほとんど縁のない分野の人間だからこそ、得るものもある」 そうだろう、関口君。 そう言って中禅寺はにこりと笑った。綺麗だがぞっとする笑顔だった。なぜそんなふうに感じたのか、 (――目が笑っていないからだ) 付き合いを続けているうちにだんだんわかってきたことだが、中禅寺にはそういう、他人を自分の内面に踏み込ませない壁のようなものがあった。大抵の人間はその壁をもっているものだが、中禅寺のそれは人一倍堅牢で、しかしその存在を悟らせない。それが、時々、自分に対しては緩和されているような気がしてしまうから、困る。 それ以来、中禅寺は度々私と話しに(たぶん、それ以外の理由はないだろう)此方側のキャンパスに顔を出すようになった。中禅寺の語り口調は聞き手を飽きさせない。興味のなさそうな分野の話でさえ聴かせてしまう。それゆえに外で話していると聴衆を集め、演説を始めてしまったときは流石に私も閉口した。だが私もその聴衆の一人であり、私が口を挟むことで彼の演説が伸びている節もあるので、あまり強くは言えないのだった。 そうしていろいろと話しているうちに私と中禅寺はお互いを友人と認めはじめた。連絡先も交換したし、一緒に食事をとることもあった。中禅寺の蕎麦を啜りながら喋り続ける器用さには脱帽である。 中禅寺は何度言っても私を「関口君」と呼ぶことを辞めない。からかっているのか、それとも本当にそう思っているのか、或いは誰かと間違えているのか――私の名は関口などではないというのに。とはいえ哲学科は奇人変人の溜まり場とも言われるほど、この手の人間がわんさかいるそうである(おそらく偏見なのだが)。そちら方面には明るくないが、何も害があるわけではなし、まだ暫く友情のために「関口君」でいてもいい、と私は思っている。 (B) これは、中禅寺本人ではなく、彼の高校での先輩だという人から聞いた話だ。その「先輩」はここの学生ではなかったが、正門で待ち構えていて、私を見るなり「きみが今の『関口君』か」と言った。中禅寺のその呼び方の理由を私は薄々感づいていたから、ああ、ついに、と思ったのだ。 高校生のとき、中禅寺には親友と言ってもいいほどの友人がいたそうである。その友人は、高校卒業を前にして自殺してしまったのだという。それも中禅寺の目の前で。そしておかしくなった中禅寺は、その友人が進学するはずだったこの学校の農学部で友人に似た人物を見つけては、その友人の身代わりにしている――という、ただそれだけの話だ。 「とは言っても、きみでまだ二人目だがな」 「……一人目はどうなったんです?」 「死んだよ。自殺だ。あいつが追い詰めて殺しちまった」 先輩が憎々し気に吐き捨てるのを聞いて、聞かなければよかった、と心底思った。 (C) 関口を呼ぶ自分の声がいつまでも耳を離れてくれない。何度も、何度も、頭の中はその瞬間を繰り返している。 頭では分かっている。けれど心が納得しない。 だから今日も、中禅寺の前には幽霊が現れる。 2015/04/09 [*prev] [next#] |