Schatz | ナノ




救われない男

 ネオンに彩られた目に痛い街は、私の擦り減った精神をさらに甚振る。アスファルトを照らす赤は血のようで、二階建ての居酒屋から喧騒とともに降る青はのろまな私を急き立てているように映る。だが、それらは私の猫背な心持ちが生み出す幻に過ぎない。赤い光は幻視を齎し、青い光は幻聴を与える。それらに苛まれて私の気は益々滅入り、鬱屈した心情はまた悪い幻を呼ぶ。
 そんな、愚かな悪循環の中に私はいる。
 一昨日に書き上げた短編小説を、稀譚舎へ届けた帰りだった。
 夕方の五時に原稿の受け渡しをする約束をしていたのだが、電車の遅延のために三十分も遅れてしまった。約束の相手の小泉女史は人の良い笑顔で気にすることはないと云ってくれたが、私の原稿を持つ手は汗でじんわり湿った。
 渡した原稿も決して良いものとは云えなかった。必要に迫られて、筆の乗らぬのを強いて心苦しく書き殴ったもので、京極堂などにでも読ませれば駄作の判を押されること間違いなしの代物だった。受け取ったその場で小泉女史は原稿に目を通し、一寸目を細めて「なンだか、不思議なお話ですね」と評した。ろくに見直しもしなかったのだ。話の脈絡に不自然があったのを物語の個性と解釈したのだろう。私は「はぁ」と曖昧な受け応えをしたきり閉口し、以降まともな言葉を話さなかった。(正しくは話せなかったと云うべきか)
 稀譚舎を出、駅に向かっていたところで榎木津と木場と鉢合わせした。榎木津は白いワイシャツに黒のベストとスラックスを着て、赤いタイを付けていた。(まるでカジノのディーラーのような風体である)木場は普段と同じ、何度も着込んですっかり草臥れたワイシャツとズボンだった。
 榎木津は私の姿を認めるなり奇声を上げて私の側まで来て、なにを暗い顔しているのだとか、じめじめしているのは梅雨と蛞蝓だけで十分だだとか、挨拶とも呼べぬ言葉を浴びせ乍ら額を小突いてきた。そのまま私の手を離さず歩き出し「君も付き合え!」とのたまった。私は木場に助けを求めて目を向けたが、木場は珍しく厳つい顔面を弛緩させて苦笑いしつつ「どうせこのまま帰るだけだったんだろ?」と云うだけだった。二人揃って馬鹿に機嫌が良いようだった。
 結局、私は木場のこの一言で抵抗するのを諦めた。その方が楽だと悟ったのだ。強引な探偵に引きずられるまま、私は電光夥しい夜の街へ流れた。
 そうしてどのくらい薄暗い影の凝った店の中でアルコールを啜っていただろう。店の軒先にかかった青い襤褸の暖簾をくぐってから、不思議と酔いを忌避する心は消え、榎木津の陽気に当てられたものか、濁った日本酒を水のような気軽さで飲んだ。それから、それから?
 どうして私は此処にいるのだろう。
 目眩がする。汚い壁に手をついて項垂れた。頭越しに瞬く三原色の光、それらが呼ぶ幻。黒いアスファルトの窪み。虹色の水溜まり。煙草の吸い殻。現実が遠い。
 私は今どこにいるのだろう?

「ちょいと、おにいサン」

 不意に横から声がかかった。重い頭を擡げて右手へ顔を向けると、見知らぬ女が立っていた。私はギョッとした。女の風体が異様を極めていたからだ。
 左目の瞳が白く濁っており、有らぬ方向を向いている。右目はまっすぐに私を捉えているが、私越しに街の喧騒を見透かしてでもいるようで、微妙に焦点が合っていない。伸びるに任せた黒髪の隙間から覗くその両目は、下に備わる煤汚れた小鼻やひしゃげた口と相俟って殊に不気味に映った。火傷跡に似た、歪な形をした唇の間からちらつく歯もぼろぼろで、下顎の歯が何本か抜け、上顎の前歯が一本欠けているのが見えた。身につけているのは着物だろうが、脇の下で身体に雑に巻きつけて帯で縛っていた。裸足の爪先は黒く変色している。どこをとっても気狂い以外の何者にも見えない。
 狼狽する私に女は一歩近づいた。

「おにいサン、あたしとお遊びよ」

 私が後ろに下がろうとした時、女は素早く私の腕を掴んで、まるでそれが極楽から伸ばされた蜘蛛の糸であるかのように全身で縋りついてきた。むき出しの女の腕は酔いが醒める程冷たく、私の体温を絡め取る。皮脂でぺったりした髪から饐えた匂いがした。見上げてくる目が見開いて私を映す。目端に目やにが溜まっている。白と黒の瞳が笑う。

「ネ、おあそびよ……」

 紅を刷いた唇の、罅割れた昏いあわいから生臭い呼気が漏れる、其処から、良からぬものが見えそうで、口腔の底を覗いてしまう前に、私は悲鳴を上げて女の腕を振り払い逃げ出した。がむしゃらに足を動かし右へ左へ揺れ乍ら、痛い程鳴る心臓に息を詰まらせ無様に遁走した。駅近くまで来ると路地裏にうずくまって嘔吐した。頭の最奥で銅鐘が鳴り響いている。その振動が脳に途轍もない地震を起こす。息苦しさに視界が霞む。目頭が熱い。冷や汗が止まらぬ。此処はどこだ。地獄。今生は地獄だ。私のような人間には、此の世は地獄よりも地獄だ。
 その時、遠くの後ろから誰かに名を呼ばれたので振り向こうとした。だが心身疲弊しきっていた私は足をもつらせ地べたに打ち臥した。倒れた視線の向こうでは駅へ滑り込んでいく電車が見えた。黄ばんだ光に満ちた車両の連なり。私はあれに乗るつもりだった。否、線路に身を投げて自殺するつもりだったのかもしれない。この苦しみから解放されたかった。私は目を閉じた。もう何も見たくない。
 誰かが私を抱き上げて大声で呼びかけている。濁声の、力強い声。木場か。前にもこんなことがあった気がする。デジャヴ?否、違う、本当にあったことだ。戦時中、私が率いていた小隊が玉砕し、私と木場だけが生き残った時。追い詰められ、精神も肉体も限界に達してくずおれた不甲斐無い隊長を、木場軍曹は見捨てなかった。密林の湿度高い空気と木場の腕に包まれた私は、その腕に抱かれる感覚を一つの記憶と結びつけた。追憶の腕は木場のそれよりずっと細く、宛ら枯れ木のようだったが、あらゆる不安から私を守ってくれた。怖い程優しく、震える程温かい。
 その腕の主は、

「中禅、寺」

 名を呼んだ途端、目尻から熱いものがこぼれる。
 ひどく、あの男に会いたくなった。





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