Schatz | ナノ




六畳間のエデン

 思えば僕は、蛇に唆されて林檎を齧り楽園を追われたイヴのようなものだった。
 それまでただの学生で、ただの同級で、ただのルームメイトだった僕達は、そのままでいれば普通でいられた筈なのに、今は二人、希望も夢もない生温い堕落に全身浸かり切っていた。
 或る時は寒いから、と。また或る時は空腹だからと、と。課題が詰まらないとか、学食の薩摩芋が硬かったとか、生きた心地がしないとか。身体に湧くあらゆるマイナスの感情全てを理由にして自堕落な行為を重ねる。
 要は、種類問わず負の思考に性欲というレッテルを貼っているのだ。若気の至りという便利な呪文を合言葉に。否、これはいっそ呪詛と呼んだ方がいいかもしれない。なにせこれを提唱したのは中禅寺なのだ。僕の混沌とした気持ちの後押しにこれは効果覿面だった。彼曰く、僕との密時は若気の至り、
その一言で後々楽に片付くものさ、と。

「今思えば上手い詐欺だな」
「何がだい」

 僕の呟きに詐欺師は気怠い言葉を返した。
 痩せぎすの身体を布団に潜らせ、うつ伏せに肘をついて上体を起こし、煙草なんか吸っている。吐き出した煙は開けた窓の向こうへ流れ、ひゅうるりと寒く鳴く風に流されていく。切れ味のある目の端で僕を見遣る姿は、何とも頽廃的でエロチックだ。
 僕は同じ布団の中、隣で身体を縮こませている。
 小一時間程まぐわった後で、お互い裸だった。

「何でも無い。それより、好い加減窓を閉めてくれ。凍え死にそうだ」
「こいつが終わるまで我慢し給え」

 云い乍ら中禅寺は細い指の先に挟んだ煙草を口に運び、旨そうに吸った。

「部屋に匂いが染みついて仕舞ったら不味いことになるのは分かるだろう」
「じゃあ早く吸い切ってしまえよ」

 そう云うと、彼は遠くを見つめ乍ら溜め息と共に紫煙を吐いた。

「そう急かさないでほしいね、これでも君の為にやっているのだから」
「どうして君の娯楽が僕の為になるっていうんだ」
「口が寂しいのさ」

 事も無げに云われた言葉で漸く僕は理解する。彼は先程の情事でまだ満足していないのだと。
 考えた末、僕は中禅寺のむき出しの肩に吐息を吹きつけた。
 彼の目がまた此方を見た。どうした、と目が尋ねている。

「君の真似」

 彼はふっ、と口許を弛める。

「猿真似かい」

 物足りないと云う彼の煙草を吸う真似をすることで、もう一回抱いても良いと意思表示をしたつもりだった。だのに猿真似かと揶揄されたので、僕は少し気分を害した。

「エノさんみたいなこと云うな」
「ははは、そうだね。悪かった。いや、君の伝えたいことは分かっているさ。嬉しいよ。でもね関口君、そいつに応えるのは無理だ」
「どうして」
「君を抱きたいのは山々なんだが、生憎、身体がついていかない。もう君を善がらせるだけの体力が残ってないのさ。謂わば、心だけが勃起している状態だ」

 僕は呆れて深い息をついた。

「なんだ、その為体。煙草なんか吸っているからだぞ」
「そうかもしれない。なぁ、君もどうだい」
「厭だよ」

 中禅寺が吸いかけの煙草を示す。僕は今の話の流れでどうして体力低下の原因を勧めたりなんかするのかと、眉を顰めてぴしゃりと拒絶した。
 すると彼は苦笑した。

「そんなにあっさりと無下にしないでくれ。これには祈りも込めてあるんだ」
「なんだよ、祈りって。肺病みに成りますように、とでも?」

 僕は戯けて云った。寒さで歯がかちかち震える。

「そうだ」

 中禅寺はさらりと答えた。冗談とも本気ともとれる言い方だった。

「僕を殺したいのか」

 今度は真面目に聞いた。
 中禅寺は調子を変えない。

「何でもいいよ、君を僕の傍に繋ぎ留めておけるなら。こいつを君に吸わせて病人に出来れば、君を国に取り上げられずに済むかもしれないからな。戦争なんて馬鹿げたことで君を失くすくらいなら、僕の手で殺して仕舞うのも一つの手だろう。君はどう思う?」

 僕は食い入るように或る一点を見つめた。

「…中禅寺」
「うん」
「君は、狂っている」
「ああ」
「僕に詐欺を働いた」
「何のことだ」
「君との密事は若気の至りで後々片付く。それを信じて、僕は君と不毛な行為を繰り返した。でもそれは嘘だった。交われば交わる程、自分が後戻り出来なくなっていくのが分かる。君と別れる日が来ることを思うだけで舌を噛みたくなるのさ。こんな感情、否、衝動がいつか霧散するだなんて到底信じられない。いくら若者は失敗するものだと云ったって、取り返しのつかないことだってある。僕はそれをやらかしたんだ。君の甘言に乗るべきじゃなかった。君は大嘘吐きだ。畜生に劣る詐欺師だ。でも、」

 僕は凝視していた煙草を中禅寺の手から引っ手繰った。指先で細く白煙を立ち上らせる其れの小さな焦熱を睨む。

「笑えばいいよ。僕はそれを今まで後悔したこともなければ、今からまた君の甘言に乗る愚か者だから」

 イヴでも二度同じ過ちは繰り返さないだろう。
 心中で自嘲しつつ、煙草を銜え、一息肺の奥まで吸い込んだ。しかしすぐに白濁の呼気を撒き散らし乍ら激しく咳き込む。口中に広がる苦い味に目が染みた。

「げほっ、けほ、ッ、君、よくこんな不味いもの平気で吸えるな、ごほっ…。はぁ、これなら体力が落ちるわけだ。肺活量低下ですぐ息切れする」

 と、そこで中禅寺が煙草を取り上げ、灰皿代わりにしていた鉄皿に押し付け火を捩り消した。それから此方に振り向いた目には、怪しい炎がちろちろと踊っていた。まるで蛇の舌のように。

「関口君」
「うん」
「口が寂しい」
「うん」
「君は?」
「この口に残る苦さ、どうにかしてほしい」

 中禅寺は僕の下唇をかろく食んだ。僕の背骨をぞくりと一筋の快楽が駆け登る。ぬるりと割って侵入してくる舌が暴力的に口内を蹂躙し、舌根から脳へと痺れが伝う。
 デカダンの味がした。

「どうだ」
「まだ苦い」
「まだ」
「うん」

 中禅寺が僕の上に覆い被さる。その時堅く屹立したものが僕の太腿を掠めた。どうやら身体が心についてきたらしい。期待で身体は嫌でも熱くなる。冬を感じる器官は麻痺したようだった。
 伴侶のアダムも裁きを下す神も、此処には居なかった。







『逃羊!』の鮒目様より相互記念品

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