「夜が明けたら、」


 口にした言葉はあまりにも滑稽で、全てを形にするのは憚られた。けれど、それ以外に言葉を知らない。他に、彼に言い聞かせる言葉を、慈しみを、クラウドは持っていなかった。ゆえにその言葉を続けるしかなかったのだ。
 クラウドは窓枠に手をかけて彼を振り返った。茫洋とした焦点の合わない、けれど無垢で、だからこそ取り返しもつかない程に病んだ瞳がクラウドを見つめる。


「夜が明けたら、行こう」


 感情という色を忘れた彼の蒼い瞳が反応も薄く、だが疑問に瞬く。クラウドはそれを認めながらも、辛抱強く何度も、夜が開けたら行く。だから夜が開けるまではここに、と繰り返す。幼子相手に、噛んで含めるように。
 けれど、今の彼相手に繰り返すこの会話は徒労だ。不毛でしかない。それをわかっていて、しかし、クラウドは繰り返した。祈るように、繰り返すしかなかった。
 彼の定まらない視線は、どうしようもなく無垢でありながら、彼が感じている何某かの怯えは、恐怖は、確実に彼を黒く蝕んでいく。そうして淀んだ澱はまた彼を壊していくのに、すくい取ることすらできない。


「だめだまてない、いかないといけないんだ、いかないとだめなんだ、だめなのに。だめなのに、」


 彼のその言葉に、クラウドは痛ましげに顔をしかめた。繰り返し紡がれるそれには彼が彼自身を縛るための祈りが、理想が、呪いが込められている。
病的なまでに繰り返されるその言葉は、口が裂けても大丈夫と言えなかった。言える訳がなかった。
 ベッドに座り込んだ彼が、やがて酸素を求めてもがくように手を伸ばす。いや、違う。何かをつかみ、引き寄せ、守ろうとでもするかのように。
 その手の先にはまだ何もない。それとも彼の中では在るのだろうか。実際は宙を掻いたその手は何もつかめやしないで白くシーツに溺れるだけだのに。


「すぐに夜は明ける」


 ぎり、と無力に唇をかみ締めたクラウドはそれでもまだ、不毛な繰り返しを続ける。後ろ手に分厚いカーテンを閉め、クラウドは彼のそばへと近寄った。
 先程まで煌々と部屋を照らしていた太陽は、カーテンに遮られて彼の瞳には入らない。光源を失って薄暗くなった部屋の中、クラウドは、宙へと伸ばされた彼の手を取り、そのてのひらにたったひとつ確かな願いを込めて、自身のくちびるを押し付けた。
 そうして、そうっと彼を傷つけないよう握り締めた手から、生身のか細いぬくもりが伝わる。彼の手はかすかに震えていた。思わず離した、その常に日に照らされず白いままの彼の指先が、クラウドの頬を掠めてまた、空に、掴めない誰かの手に、伸びる。


「夜は短い」


 はくはくとただ開閉を繰り返す彼のくちびる。クラウドは、彼が優しいけれど傲慢な慈しみに気付かないようにもう一度深く、シーツの海に彼を沈めた。


「大丈夫だ、…夜は短い」


 彼の耳元でクラウドは囁いた。
 夜と偽ったのなら、彼が落ち着くまでは。偽りすらも真実にしてみせよう。天高かった太陽はいつしか落ちて、苛烈な西日でこの部屋を照らすだろう。それをも見せないように、深く深く傲慢と偽善とで彼を沈めてしまえば、きっと。
(俺を見てくれるだろうか、)
 体温など移りようもないシーツの冷たさはじわりと体の奥底に染み込んでくるようでいてとても苦しい。その苦しさからか、すがりつくように向けられた彼の視線に、思えばもう手遅れだったのだろう。
 彼にのしかかり、左手は緩く抵抗をすれば容易くほどける程度にやわく、しかし強かに目の前の真実からの目隠し代わりに彼の瞼をふさいだ。クラウドはその下の視線が蕩ける様を夢想し、ぬろり、綺麗に隆起した喉仏を舐め上げる。
 蕩けた蒼さの妄想のせいだろうか、髪から香る彼の香りのせいだろうか。錯覚か、実感か。喉が焼けそうに甘く感じる彼の表面に、クラウドは失望する。
 薄い膜向こうで実感のないまま抵抗しようとでも言うのか、緩やかに持ち上げられた彼の腕は空いていたもう一方の手で捕らえさせてもらった。


「……や、いや、」


 その左手の下でいやいやと左右に振られる首。その感触に我に返った。
 彼の視線を隠していた左手をはずし、目を合わせる。茫洋と空間を見つめていた彼の視線と絡まる。絡まるが、しかしそのすがるような視線はクラウドを通して遠くを向いていた。
 結果として、その視線はクラウドに与えられたわけではないのに、ないはずなのに、仄暗い優越に背筋が震える。拘束をふりほどけない程の力しか持たない彼もそれを助長した。
 しかし、わきあがる衝動をギリギリの所で殺して、彼を自分だけのものにしてしまえと囁く、獣には知らないふりを。獣が落ち着いた頃に、腹の奥底の泥沼に沈めていつか殺してしまえばいい。
 どうせ彼はクラウドのものにも他の誰かのものにも、なりはしないのだから。現実を見失って久しい彼は、クラウドたちが近寄れないほどに遠くに行きすぎた。
 そう繰り返して腹の底に押し込めた獣は、今でも静かに座り込み牙を研いでいる。
 いつしか解けていた腕の拘束をすり抜けて、彼の腕がクラウドの首に回る。近付く顔の距離に、けれど茫漠とした視線は相も変わらずふわふわと覚束なく彷徨うだけ。しかしそこには、彼の欲していたやわらかな充足があった。
 そんな絡まぬ視線に、彼のほんのり微笑んだ表情に、クラウドはギリギリと音がするほどに歯を噛み締めた。彼がこのように拒絶した端から受け入れるような支離滅裂とした行動を起こすのはなぜなのだろうか。
 クラウドの首に手を回しているせいでシーツから浮いた彼の背をまたそこに横たえて、てのひらで彼の口を覆い、そしてそのままくちびるを寄せ、意趣返しだ、とクラウドは目を伏せた。


 てのひら越しの熱もなにも感じない、くちづけといっても名だけであり、感じるとすればそれは彼の息遣いだけ。それもきっと長くはなかった。
 子どもをあやすには過ぎた感情がどこかに混じってはいて、ちくりと心が痛む。愛を知らないこどもはきっと、クラウドを受け容れられる筈がなかった。
 そっと離れ、しかし鼻先が触れ合うような距離で今一度、輪郭の溶けた視線を一瞥する。それから、彼の口元を覆ったままだったてのひらを持ち上げ、彼の望むままを織り成す眠りに落としてしまおうと彼の視界を塞ぐための動きは、他ならぬ彼の手に妨げられた。







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