消えない痛み

2


『ロック…!』

『セリス…!しっかり捕まってろ!』



 船外に投げ出されて宙に浮いた彼女の左手を咄嗟に掴み、離すまいと必死に力を篭めた。



『ダメよ!手を離して!あなたまで落ちるわ!』

『関係ねぇよ!こんな時くらいお前を守らせろ!』



 崩落していく魔大陸。

 その衝撃で飛空艇の帆は破れ、船体は傾き、甲板にはいくつもの亀裂が走る。
 自分が辛うじて立っている足場さえ、今にも底が抜け落ちそうで。
 それでも、彼女の手だけは離さずにいた。
 船内の縁に捕まり、ぶら下がるセリスを支える腕が折れそうに軋む。
 けれど、俺はこの手を絶対に離しはしないと決めた。



 残酷すぎるほどに酷似した状況。
 否応なしにフラッシュバックする記憶。



 もう二度と、あんな事にならないように。
 後悔しないように。
 二人、共に地に落ちようとも、この手にだけは離さない。
 何があっても絶対に。
 そう強く、心に決めて彼女をこの腕で支えていた。





 ―――筈なのに。





『ロック…ありがとう』

『セリス…?』



 緊迫した状況に似つかわしくない、彼女の微笑み。
 そして感謝の言葉。
 その表情と言葉の意味を、咄嗟に理解できずにいた。



『あなたはいつもその手で私を救ってくれたわ。初めて出会ったあの時も、そして今も。
差し延べられたその手に私は…数え切れないくらい救われた。……でも、』



 笑みが崩れ、何かに耐える様に彼女は目を固く閉じた。
 その表情の真意を読み取ろうとしたその刹那、突然、キラリと光る何か。
 それを目が捉え、同時に目が眩んだ瞬間に、自分の腕に痛みが走った。




 ほんの僅かな。

 いつもなら、取るに足らない小さな痛みだったのに。




『ごめんなさい…ロック』




 彼女の声を微かに聞いて。

 俺は、セリスの手を離してしまった。




 それからは、全てがスローモーションのように。




 離れていく指先。

 揺らめく金の髪。



 自分の腕から流れ落ちる、赤い鮮血。



 自分の手から離れていく、セリス。






 何もかもが



 落ちていく



 舞うように ゆっくりと





 落ちていく。





『セリス………ッ!!!』





 彼女はわざと俺の腕を斬り、わざと手を離させたのだと気付いたのは、その後自分自身も船から落下し何とか一命を取り留め、流れ着いた海岸で失った意識を取り戻して暫くしてからの事だった。






 どうして俺は、あの時あの手を離したのか。


 何があっても離しはしないと、そう決めたんじゃなかったのか。


 離せばどうなるかなんて、俺自身がよく知っていた筈なのに…!



 二人を繋ぐものは彼女の手によって、そして自分の過失によって断たれた。
 ただ残ったのは、それ程深くない腕の太刀傷と、その傷以上に深く胸に負った、



 ……心の痛み。



 太刀傷は直ぐに癒え、傷跡もいずれ消えるだろう。


 けれど。


 この胸の傷は

 この心の痛みは




 後悔と共に、今もまだ…。




end.

(2008.11.16)





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