八千代が瞼を開けると視界いっぱいに強烈な光が飛び込んできた。眩しさに思わず目を瞑る。
今度はゆっくりと、視覚に光を馴染ませるように瞳を開ける。先程感じた明るさは窓から差し込む陽光によるものだった。
白い窓枠から入り込むあたたかいそよ風が白いカーテンを柔らかく揺らしている。
頭を動かして真正面を見ると、白い天井が目に入った。身体は敷布に包まれている。
八千代はベッドの上で横になっていた。
ここは何処だろうか。
知らない部屋だ。
まるで、病室のような。

「あ、さっちゃん」

声が降り注いだ。鼓膜を通じて身体全体に染み渡る。
心から安心できるような、懐かしいような、もっと聞かせてほしい、そんな欲求が込み上げてくる声だった。
声がした方へ視線を向けると、傍らにヨシノがいた。
リラックスチェアに腰かけながら眠っていたのか、目を擦りながら欠伸をしている。
ヨシノがこの場にいると分かり気分が高揚する。ヨシノがいる場所は春が訪れたかのように穏やかで、心が安らぐ。

「起きたんだね、おはよー」

おはよう。
そう返そうと思い口を動かすが、喉からは空気が漏れるような掠れた音しか出てこない。
驚き慌てる八千代を気に留めず、ヨシノが椅子から立ち上がり奥にある扉へと向かう。

「さっちゃんが起きたら教えてって看護婦さんから言われてるんだー。ちょっと行ってくるね」

ちょっと待ってくれ、そう伝えたくてベッドから上体を起こしてヨシノの方へと手を伸ばす。しかしそれは脇腹に走った突然の激痛で遮られた。
経験した事のない痛みに脇腹を抑えて小さく震える。
脇腹に刺激を与えないようにゆっくり上着を捲ると、腹部に包帯が巻かれていた。
どうやら治療を受けたらしい。今病室にいる事と関係があるのだろうか。
部屋を出たヨシノの足音が遠ざかる。おとなしくここで待っているしかない。
捲った上着を戻しながら溜息をつくと、目に映り込む自分の手に違和感を感じた。
自分の手を見つめる。まるで大人の手をしている。
握って、開いて、指を各々折ってみる。
自分の意思通り動かす事が出来る。
手だけではない。ベッドの上で上半身を起こしている状態とはいえ視界が高く感じる。身体も重い。
けれど、目に映る身体が記憶にある自分の身体と合致しない。
首を傾げる。
俺は一体誰なのだろうか?



「記憶喪失?まるで漫画みたいだね!」

医者から八千代の状態を聞いていたヨシノがからからと笑った。
数日に渡る検査や聴取で、八千代はここ数年の記憶が抜け落ちている事が分かった。
親が再婚して以降の出来事が思い出せなかったため、おおよそ6年分の記憶を失ったのかもしれないと医者から伝えられた。
八千代にしてみれば寝て起きたら6年経っていたような話だった。

「ろく…ねん…」

力なく八千代が呟く。
6年の中に含まれるのは高校と大学生活。その中で学び蓄え培った膨大な知識とスキルが一瞬で失われた。
医者によれば一時的な記憶障害かもしれないし、この先抜け落ちた記憶が戻らないかもしれないと言う。
それだけで八千代の頭を悩ませるのには十分だったが、医師は更に八千代の脇腹の傷は銃で撃たれた事により出来た傷だと話した。
なにかの抗争に巻き込まれたのか、恨まれ故意に狙われたものなのか。撃たれた際の記憶が八千代になかった事もあり負傷した経緯を知る手がかりは何も見つかっていないらしい。
腹部の他に外傷はなく、頭部や脳波にも異常は見つかっていない。だからといって脇腹の傷が記憶を喪失する起因を生んでいないとは言い切れないが、心因性の可能性もあるという。
はっきりしないな、と八千代は思ったが、外傷のように目に見える症状ではないため、誰にも何も断言する事が出来ないのだろうと思い直す。

「八千代さんには、ご家族の支えが必要です」

医者にそう言われ、ヨシノは片手を上げて

「はーい」

と、元気に返事をした。


医者からの説明を受けた後、八千代とヨシノは院内に設けられた中庭を見掛けて立ち寄った。
中庭の中央には観賞用に植物が植えられており、無機質な院内とは異なり落ち着いた空間を作り出している。晴天から降り注ぐ陽光を受けた緑が青々と眩しい。
テーブルスペースに腰かける。八千代の隣に座ったヨシノは売店で買ったばかりのサンドイッチを取り出して早速頬張った。
ヨシノがもくもくとサンドイッチを食べている横で八千代が微睡んでいると、突然第三者の声が中庭に響き渡った。

「さっちゃん先生見つけたのです!」

そこに現れたのはハンナだった。
大股で二人にまっすぐ近寄る。

「お見舞いに来たら病室にいないんですもん探しました!」
「えっ…と」

八千代は目を瞬かせる。
目の前の幼い容姿をした女性の態度から恐らく自分と接点のある人物だという事は見て取れる。しかし思い出せない。

「ハンナ先生こんにちはー」
「おや!ヨシノちゃんも一緒だったんですね、こんにちは!」
「ハンナ…先生?昔近所に住んでた…」
「なのです。近所に住んでたのはもう何年も前ですけどね。記憶が抜け落ちてしまってるって聞いてはおりましたが…そっちの方を思い出すって事はここ最近の記憶はほんとのほんとに忘れてしまってるのですね」
「すみません…」
「いえいえさっちゃん先生が謝る事などないのですよ。撃たれて入院なんて聞いた時は耳を疑いましたが、こうして無事目が覚めて良かったのです。これから色々大変かと思いますが、学校の方は私に任せといてください。私はあなたの指導担当、教え子の学ぶ場を守るのも私の仕事なのです!」
「そうか、俺、教育実習期間中…なんでしたっけ…」

ここ数日の間、八千代はヨシノからこれまで自分がどんな生活を送ってきたのか話を聞いていた。
大学へ進学し、教育実習生として母校で実習している身だという事も、思い出してはいないが知っている。
八千代にとって教師は子供の頃からの夢だった。夢を叶えるために努力を続けていたんだだなと思うと同時に、不安が胸を過る。
大学生活の記憶はない。教育実習をしていた記憶もない。高校の頃の記憶もあやふやだった。
退院後、記憶が戻っていなければこれまで通りの生活へは戻れないだろう。
傷は時間の経過で癒えても記憶はどうなるかが分からない。記憶が戻る保証すら何処にもない。

「生徒の皆、さっちゃん先生の事とても気にしていたので、退院したら顔を見せてあげてほしいのですよ」
「そうなんですか」
「なのです。皆さっちゃん先生が戻ってくるのを待ってますよ」

退院したところですぐ教育実習の現場へ戻る事が出来ないであろう事をハンナは分かっていた。それでもこんな事で夢を挫折しないでほしいという気持ちを込めて、ハンナは努めて明るく話す。
そんなハンナの気持ちを汲んで、八千代も努めて力強く返す。

「はい。戻ります。きっと」

不安は消えない。それでもこれまで積み重ねた自分の努力のためにも。目の前のハンナのように、支えてくれた人達に胸を張っていられるように、一度躓いたからといって諦めたくはなかった。
八千代の返事にハンナが満面の笑みを浮かべる。

「そうそう、見舞いついでにさっちゃん先生に目を通しといてほしい書類とか溜まってきていたので持って来たのですよ。よろしくなのです。一応こっちで処理出来るのは捌いてるのですけど、本人の印鑑必要だったりするんですよねー。また来るので、分かんないとこあったらその時まとめて聞いてくださいな」

ハンナが手提げから茶封筒を取り出して八千代へと手渡す。

「それではしっかりと渡す物も渡したし顔色が良好な事も確認出来たし、私はこれにておさらばする事にしますね」
「ありがとうございました」
「ふふ、お大事に!」


部屋に戻り茶封筒の中身を確認していると、『生徒より』と書かれたもう一つの封筒が入っている事に八千代は気が付いた。
中には実習校に通う生徒達が個人で自主的に書いたと思われる八千代への手紙が幾つか封入されていた。
八千代をからかうような内容もあれば、回復を祈願してくれている内容もあって、胸がいっぱいになる。
こんな風に実習校の生徒から手紙を貰えるような人間になっていたのだ、自分は。
頑張ったんだな。
振り返る事が出来ない6年間を思いながら、八千代は手紙を大事に読み進める。



扉を開けると懐かしいにおいがした。
表札には八千代と書かれている。紫呉の自宅であり、ヨシノと二人暮らしをはじめる前に住んでいた家。
このマンションに引っ越してきた事で八千代の人生は変わった。母親も新しい人生をはじめる事が出来た。思い出が刻まれた場所。
夜明けは遠く月が明るい。
室内にいるであろうヨシノと母親は眠っているだろうと思い、なるべく物音を立てないように扉を閉める。
まずはリビングを目指して暗い廊下を進む。ヨシノはリビングのソファーで寛いでいる事が多かった。その奥にはヨシノと八千代が使用していた部屋がある。ヨシノがいるとすればそのどちらかだろうとあたりをつけ、リビングへと続く扉をそっと開く。
ソファーで横になり眠っているヨシノをすぐに見つける事が出来た。
足音を忍ばせて近寄り、傍らに膝をつく。
顔を覗きこむと、安らかな寝息が聞こえてきた。
ヨシノがいない事で感じていた、抱えきれないような不安や恐怖が綯い交ぜになってどろどろに濁ったような重い鈍痛が一瞬で消えていく。
昨夜から探し回っていたヨシノをようやく見つける事が出来て、八千代の表情が自然とほころんだ。
八千代小夜は家族が欲しかった。
家族がいる生活はあたたかくて、嬉しくて、楽しい。
その中心にヨシノがいた。
歩み寄ろうとしてくれている紫呉と打ち解ける事が出来なかった。
自分の存在は実母が人生をやりなおす邪魔をしているとしか思えなかった。
そんな中、ヨシノは八千代にとってなんのしがらみもなく接する事が出来る存在だった。
ヨシノがその場にいてくれたから安心して会話を口にする事が出来た。安心して笑える事が出来た。安心して新しい家族と過ごす事が出来た。
それは八千代にとって心から安心出来る世界だった。
ヨシノが、家族がいる世界は幸せに満ちている。
だから失いたくない。
慈しむようにヨシノの頭を撫でる。

背後で玄関の戸が開く音がした。
八千代はヨシノの安眠を邪魔したいように、ゆっくりとその場から立ち上がる。
今この瞬間この場所に訪れる人間は一人しかいない。
八千代はまっすぐに玄関へと向かう。
そこには予想していた通りの人物、紫呉がいた。
壁に手をつき身体を支え、息苦しそうな呼吸をしている。動く度八千代から受けた打撲傷が痛むのだ。

「義父さん」

呼ばれ、紫呉は素早く顔を上げた。暗い廊下の奥に人影が見える。目を凝らすとその人影が八千代だと分かったが、八千代は返り血を浴びていて紫呉は目を見開く。
紫呉は昏倒してから自宅に到着するまでの間に八千代に何があったのかを知らない。
何があったにせよ、今この瞬間、いつも通りの声色で落ち着いている様子の八千代を目の当たりにして頭の中で警告音が鳴り響く。

「ヨシノ、連れて帰りますね」

金槌で殴りつけた事などもう忘れたかのように、かといって苦しそうな紫呉を気遣う素振りは見せず、上辺に笑顔を貼り付けて八千代が言う。拒否は受け付けないと断言するような声色で。
これまで八千代は八千代なりに新しい父親と、紫呉と関わろうと努力をしていた。
結果に結びつかない事を八千代自身は気に病んだが、紫呉はその気持ちだけで嬉しかった。
しかし今突きつけられたのは拒絶だった。
そんな日がくるかもしれないと覚悟はしていたが、いざ直面すると胸が痛んだ。
それでも項垂れる事はしない。紫呉は唇を引き結ぶ。
妻に。八千代の母親に。
一生をかけて、家族として歩み寄る努力をすると誓った。
八千代を見据えた後、首を横に振る。
八千代の笑顔が固まった。

「…どうして」
「今の君に、紫乃を預ける事は出来ない」
「貴方にそんな権限ありませんよ」
「あるよ。私は君達の保護者だからね」

八千代から笑顔が消える。
ここで八千代を刺激する事を口にするのは得策ではない事を紫呉は分かっていた。その場を凌ぐ言葉はいくつもあった。
けれど父親として、この場を逃げるなんて選択肢はなかった。

「小夜君、病院へ行こう」

八千代が首を傾げる。

「どうして?」
「今の君に必要な事だからだよ」
「いいえ、必要ありません」
「今の君に分からなくても」
「嫌です。聞きたくありません。どうして、どうして貴方は俺とヨシノを引き離そうとするんですか」
「違う、そうじゃない」
「違わない!!」

廊下に怒鳴り声が響く。聞いた事のない八千代の声に紫呉が怯む。

「…小夜君、一旦落ち着こ」

語気を荒げ気が昂りはじめた八千代に紫呉が近付く。宥めようと伸ばした手は振り払われる。
数時間前にも振り払われたばかりだったし、振り払われるだろうと思っていた。けれど紫呉は手を差し伸べる事をやめない。拒絶されても鬱陶しく思われても。自分から歩み寄る事をやめてしまえば、八千代との距離を縮める事は出来なくなってしまう気がしていたから。
しかし今回は振り払われた時の痛みが違った。
八千代が紫呉の手を振り払った瞬間、紫呉は左上腕に裂かれたような痛みを感じて咄嗟に身を引く。
鋭く疼く箇所を左手で触れると服が裂けていた。触れた肌からは出血をしている。
返り血にばかり視線が奪われていた紫呉は、八千代がナイフを持っている事に気付かなかった。
八千代は切っ先を紫呉に向けている。

「…小夜、君」

八千代の視界の左端から八千代にしか見えていない右腕が持ち上がり、紫呉を指した。
そして、八千代にしか聞こえない囁き声が、八千代の耳に届く。

『殺せばいい』

それは八千代自身の声だった。
八千代は応える。

「そうだな」


八千代小夜にとって殺人行為は『解放』だった。
それは幼少期から受け続けた苦痛を殺人という手段によって自ら断ち切った事に起因する。
だから解放感に高揚する。悦楽を感じる。
心にかかった靄が晴れるようで、澄んでいく心地良さを求めて単純に純粋に殺人行為を繰り返す。
そして同時に学んだ。
苦痛の断ち切り方。


八千代は紫呉との距離を詰めてナイフを横へ薙ぎ払った。
紫呉は後方へ下がろうとするが、突然の出来事に反応が遅れナイフの刃が肌を撫でる。
紫呉の首に赤い一直線が現れ、滲んで血液が零れる。
深い傷ではなかったが、浅い傷でもなかった。
傷口に手を当てるが止血の役には立たない。血が首筋を伝って零れ、紫呉の衣服に黒い染みを作る。

「…小夜君」
「うるさい」
「ナイフを降ろすんだ」
「うるさい」
「こんな事しても何も解決しない。自分自身を追い込むだけだ」
「うるさい」
「紫乃と暮らしたい気持ちを大事にしたいなら」
「黙れ!!」

八千代が紫呉の言葉を遮るように、悲鳴のような怒鳴り声をあげる。
紫呉に向かって一歩を踏み込む。ナイフの切っ先は紫呉を捉えている。
紫呉は逃げなかった。八千代の殺意を真正面から受け止める。
八千代がナイフを突き出すよりも先に両肩を掴んだ紫呉は、強引に八千代の身体を壁に押さえつけるように押し付けた。

「分からず屋!君が私を殺して何になる!刑務所にでも入ってみろ、それこそ紫乃と暮らせなくなるぞ!君の人生は終わりだ!そんな簡単な事も分からないのか!」
「…ッ!」
「小夜君、聞くんだ。私は、世界中が敵に回ったって君達の味方だ。紫乃と暮らして、二人が幸せならそれでいい。でも今の君ではそれを自らの手で壊してしまう。現に今、私に刃を向けている事が何よりの証拠だ」
「貴方が、俺からヨシノを引き離そうとしているからでしょうが…っ」
「逆だ。私は君達の生活を守りたい。君は紫乃との生活を守るためにナイフを私に向けているけど、それでは何も解決しない。君がこの先苦しい思いをするだけだ。その選択は間違っている。だからまずは病院へ行こう。なにも監禁して何ヶ月も閉じ込めておく訳じゃない。紫乃と引き離したい訳じゃないからね、ちゃんとその日のうちに帰すよ。君の事を聞かせてほしいだけだ。ゆっくりでいい。紫乃の事を想って人を殺す決意が出来るのなら、紫乃といたいのなら。今はどうか信じてほしい」

八千代が何かに耐えるように葉を食いしばる。紫呉は肩を離さない。

「彼女…君の母親が君の幸せを願っていたように、私も願ってる。私は君の、父親だからね」

紫呉は父親という言葉を口にする事を一瞬躊躇った。八千代にとって父親は憎悪の対象だという事を知っている。
想像していた通り八千代の表情が歪む。けれど家族として向き合いたいと思うのなら避けてばかりはいられない。

「私は、君に、君達に、幸せになってほしいだけだ。私にとって君も紫乃も、大切な形見なんだから」
「…かた、み」

ナイフを込める八千代の力が緩んだ。

「そうだ、彼女は小夜君の事を何よりも誰よりも気にかけていたよ。君の幸せだけを願っていた」
「かあさん」
「そうだよ、君の母親だ」
「…………そうか、かあさんは、もう」

6年前。
再婚して新しい人生をはじめた矢先、父親からの暴力の後遺症により八千代の母親は他界した。

「じゃあ、貴方が死んで、母さんが悲しむ事はありませんね」

紫呉が目を見張る。
八千代の耳に紫呉の言葉は届いていない。
紫呉がヨシノを実家に連れ帰り自分から引き離したと知ったその瞬間から。
目の前の人間は自分から家族を引き離す存在。
自分の人生を脅かす存在。
けれど、紫呉は八千代の家族が、母親が愛した人だった。
だから、紫呉がいなくなる事で母親を悲しませる事になるんじゃないと躊躇した。
しかしその懸念材料は今払拭された。

「よかった」

八千代は母親の死を受け止めきれなかった。だから母親はまだ生きているという妄想を見続けてきた。そんな、見えないように記憶の奥底に仕舞い込んだ記憶を思い出した八千代は、しかし取り乱す事はなかった。
家族との生活を守るために自分が選ぶべきだと分かっている選択肢を選ぶ事を戸惑わせる原因がなくなり、安堵して、微笑む。
そして手に持ったナイフで紫呉の首を突き刺した。
躊躇いはない。息の根を止めるつもりで力が込められた刃先は首の肉を貫き深々と刺さる。紫呉の口から苦しそうな呻き声が漏れ、八千代の肩を掴む両手に力が籠る。
突き刺したナイフを引き抜くと鮮血が勢いよく辺りに飛び散った。廊下の壁や床が赤黒い飛沫で汚れる。
浴びた返り血を拭う事なく八千代はもう一度同じ個所をめがけてナイフを突き刺す。先程よりも奥に届くように。刺さったナイフの柄を強く握り直して更に奥へと抉るように差し込む。
紫呉が口を開いて何か言葉を発そうとしたが、声の代わりに喉から迫り上がってきた血液が溢れ出た。
ナイフを引き抜くと傷口から並々と溢れるように赤黒い液体が湧き出た。
紫呉の手が震える。懸命に肩を掴んでいたが、力が抜けていく感覚に逆らえず、紫呉の指が八千代の肩から剥がれ落ちる。手離してしまう。
崩れ落ちた紫呉は右手を床について身体を支えようと試みたがもう身体を思うように動せず、そのまま倒れ込んだ。
床に赤い水溜りが形成されていく。
八千代が紫呉の傍らにしゃがみこむと、その気配を感じて紫呉の視線が弱々しく八千代の姿を探して揺れる。
視線は定まらまま、近くにいるであろう八千代に向けてなにかを伝えようと口がはくはくと幽かに動く。
もう言葉を口にする事はもう出来ない。気持ちを届ける事は出来ない。無力を痛感して紫呉の瞳から自然と涙が零れた。
そんな紫呉の姿に八千代はなんの感情も込み上げてこない。
罪悪感はない。
もうすぐ終わる。
もうすぐ家族との平穏な生活に戻れる。
八千代はただ家族との生活を守りたかった。
だから。
八千代はナイフを振り上げる。


「さっちゃん」

名前を呼ばれて八千代が振り返ると、いつの間にか廊下とリビングを隔てる扉を開けてヨシノが立っていた。

「…ヨシノ」
「さっきから騒がしいけどなにしてんの?」

眠そうに瞳を擦りながら尋ねる。

「なんでもないよ、ごめんな」
「んにゃんにゃ、別にいいよ。っていうか、さっちゃんなんでいるの?」
「ヨシノを迎えに来たんだ」
「そうなんだ。ごくろーさま」
「うん。だからさ、」

八千代が柔らかく微笑む。

「帰ろう」

八千代がヨシノに手を指し延ばす。
その手は血に塗れていた。
掌からぽたりと赤い雫が落ちる。
手だけではない。顔も、髪も、衣服も、床も、壁も。ヨシノの瞳に映る景色一面血飛沫に塗れていた。
座り込んでいる八千代の背後にはヨシノの叔父、紫呉が横たわっている。
首の肉が何度も細かく刻まれ潰されたように歪に変形していて、一目で死体だと分かる姿を晒している。
それらを一瞥して、特に気に留めず、ヨシノはいつもの笑顔で応えた。

「うん」

頷いてくれた事が嬉しくて八千代は泣いてしまいそうだった。


ヨシノが八千代を拒絶する事はない。
ヨシノは生まれた時から人間が本来生まれ持っている回路が欠落していた。
感情を本質的に理解する事はない。共感出来ない。
病ではなく、後天的に心を壊した訳でもない。
だから身内が殺されていた現場を見ても心が動く事はない。
愛情を持って接してくれていた人の死であっても、ヨシノにとって人の死は、物の損失と変わりない。それが誰であっても変わらない。
八千代が両親を殺したところで。
八千代が叔父を殺したところで。
ヨシノの八千代を見る目は変わらない。
そして、八千代にどれだけ家族として愛情を向けられたところで、ヨシノの八千代を見る目が変わる事もありえない。



「ああぁぁぁああぁぁあああ!!」

深夜の院内に悲鳴が響き渡った。
八千代が入院している個室に付き添いで宿泊していたヨシノが目を覚ます。
のんびり起き上がり声がする方へ視線を向けると、八千代がベッドの上で頭を抱えて身体を丸め、涙をぼろぼろ零しながら苦しそうに呻っていた。

「さっちゃん」

呼びかけて肩に指先が触れるとヨシノに気が付いた八千代は素早くヨシノを抱き寄せる。
ヨシノの背中に腕を回して胸に顔を埋め、震えながら嗚咽をもらす。落ち着こうと深呼吸を試みるが呼吸の乱れは整わない。ヨシノに縋る両腕に力が籠る。

「いやだ、こわい、こわいのは、もういやだ、いたいのは、もういやだ、いやだ、いやだ、いやなんだ」

掠れた声で絞り出す。

「そっかー、さっちゃん、怖い夢を見たんだね」
「…ゆめ」
「うん、夢」
「でも、とても、とてもおそろしかった」
「よしよーし」

ヨシノが八千代の背中をさする。その身に染みる声色がやさしくて背中越しに伝わる体温が暖かくて再び
八千代の双眸に涙が込み上げてきた。
八千代が子供のように声をあげて泣く。
その姿は6年前の八千代そのものだった。
八千代は父親を殺害してから母親が他界するまで悪夢に魘されては叫び声を上げ取り乱す事が多々あった。しかしそれは、母親が他界した日を境にぴたりと止んだ。
八千代小夜にかつて内在していた人格は、八千代小夜として生活を送り多くの時間表に出ていた人格と、痛みに繋がる記憶を押しつけられ殺人鬼へと育つ人格と、出生時から自我として成り立っていたが同一性を失ってしまった、悪夢に魘されていた人格の三つだった。
6年前、母親が亡くなった時、その現実を受け入れられず現実を否定して目を閉じた人格がいた。それは幼い頃から存在し、母親との時間を最も多く過ごしていた人格。
今、八千代小夜として入院している人格だった。
無意識の内に思い出さないようにしていた母親が死んだ事実を思い出したたため、今になって目を覚ました。
だから今の八千代に6年間分の記憶がないのは当然だった。元々思い出す記憶自体がないのだから。
6年ぶりに目を覚ました人格は6年前そうしていたようにヨシノに身を預ける。

「…俺、人を殺したんだ」
「ん?見てた夢のおはなし?」
「…なの、かな。手応えも、血の臭いも、リアルで、生々しくって、気持ち悪くって」
「でも、夢なんでしょ。さっちゃん気にし過ぎー」
「そう、かな。そうだな」

落ち着きを取り戻した八千代はヨシノの胸に顔を埋めたまま瞼を閉じる。

「紫乃は、凄いな。一緒にいるとなにも怖くなくなる」

今の八千代はヨシノの事を紫乃と呼ぶ。

「そうなの?」
「うん。いてくれて嬉しい」
「にゃはは、病院に泊まらせてもらって正解だったね!患者さんの精神安定のためにって、お医者さんから泊まっていけないかって直々に相談された時はびっくりしちゃった。さっちゃん、俺が帰る時よっぽど死にそうな顔してたんだね」
「…そんな経緯で泊まってくれてたのか」
「なのだよ」
「ごめん」
「いーよ。病院に泊まるなんて経験はじめてで、俺、わくわくしてるから!」

八千代がヨシノを見る。屈託のないその笑顔から嘘は感じられない。
思わず抱き締める両腕に力が籠る。

「ありがとう。紫乃が俺の家族で、嬉しい」

さっきまで身を裂かれそうな程痛くて心が裂かれそうな程苦しかった。そんな中耳に届いたヨシノの声で意識を手放さずに済んだ。救われた。
家族が側にいてくれる事の心強さを実感する。
何故お礼を言われたのか分からないヨシノは首を傾げる。返事の代わりに頭をぽんぽんと撫でると、八千代は照れたようにはにかんだ。



「ほんとはすぐ家に連れて行ってやりたいんだけど、まだ用事が残ってるんだ。まだ起きるには早いし、もうちょっと寝てたらどうだ?」
「んー…そうだね、わかった」
「ソファで寝ないで、自分の部屋のベッドで寝ろよ。疲れがとれないぞ」
「はーい」
「おやすみ」
「おやすみー」

寝ぼけ眼を擦りながらヨシノがゆったりとした動作で部屋へと入って行く。
ヨシノの部屋の扉が閉まった事を確認すると八千代は廊下の惨状を見渡す。
八千代は壁に飛び散った血痕を素早く拭う。リビングから玄関へ出るには廊下を必ず通る。廊下に出来た血溜まりは相当の血液量で簡単には拭いきれないと判断し、シートで覆う事にした。
ヨシノが起き出して家を出るなりする時になるべく歩きやすいようにしておきたかった。

「さて、と」

紫呉の寝室にシートを敷き、その上に死体を移動させる。もう一人、車のトランクに詰めて連れて来ていたジェイソンの死体も車から担ぎ出し部屋へ運んだ。
室内から工具類を掻き集めて、部屋の扉を閉める。


鋸で大雑把に分割した肉片を更に細かく分けていく。
力を込めて刃を挽く度分断面から赤い飛沫が噴き出す。柔らかい臓器が内側からぼとりと零れた。
広げたビニールシートの上に散らばる大人二人分の肉片はもうどれがどちらのものか分からない。
部位によっては鋸では切断しづらく、用意した工具類の中から乱暴に別の道具を探し出して乱暴に切断する。
切断した際零れ落ちて足元に散らばる内臓や細かな肉片を掻き集めて適度な長さに切り分けてからバケツに投げ込む。3つ目のバケツも満杯になりそうだった。
八千代は紫呉とジェイソン、二つの死体を片付けるために黙々と作業を続ける。
二人の死体はどう見ても他殺で、自分へと結びつく可能性は低くない。
そうなればまたヨシノと引き離される。
考えただけでも恐ろしい。
決して見つかる訳にはいかない。隠し通さなければならない。
だから、八千代は自分の出来る最善を尽くす。

「ありがとうございます、ジェイソン先生」

骨に斧を振り下ろしながら八千代が独り言を呟く。

「あなたのおかげで分かりました。俺は隙だらけだったって。毎日自分の事で余裕がなくって、周りが見えてなかった。今の生活を手離したくないのなら、もう貴方みたいな人間から俺の人生を脅かされないように、俺が守らなきゃいけないんだって。分かってたつもりだったんですけどね、全然足りなかった。貴方みたいに、人生を賭けるだけの覚悟が足りなかった。だから、頑張りますね、俺、守りたいものがあるから。それは、人生を賭ける価値だってあるから」

八千代は笑う。
嬉しくて、笑う。
殺人行為に後悔はない。
だって心がこんなにも晴れやかなのだから。
ヨシノとの生活を取り戻すために自分は正しい選択をした。
その証拠にヨシノとこれからも安心して一緒に過ごす事が出来る。
それは幸せ。
家族と過ごせる幸せ。
嬉しい。
嬉しくてたまらない。
八千代は手を休めず肉を捌いていく。もうどの部位も原型を留めてはいない。
八千代小夜は返り血に塗れながら心から幸せそうに笑う。
はじめて殺人を犯したあの日のように。



退院の日。
八千代は一人自宅へ向かった。
ヨシノが「迎えに行こっか?」と声を掛けてくれたが断った。
病院を出て自宅マンションへ向かうと、そこはひどい火事があったらしく、一部がブルーシートで覆われていた。そこが正に自分の自宅だったので八千代は慌ててヨシノに電話をかける。
『そういえばさっちゃんが入院した日に火事があったんだよねー。俺前の晩泊まっててさー、危なかったよ』
と電話口からからからと笑い声が聞こえる。
ヨシノの話では、どうやら自分は大学へ進学する際引っ越してヨシノと二人暮らしをはじめているらしい。
『迎えに行こっか?』
と再び聞かれたが断った。変わりに住所を聞き、携帯の地図機能を駆使して自宅へと向かう。
ヨシノは入院生活中ずっと付き添い泊まり込んでくれていた。甘えてばかりもいられない。
それに。
自分の帰りを、家で待っていてほしかった。
またおかえりと聞きたい。もう随分長い間聞いていない気がした。
自宅の扉を開ける前。もう怯えなくていい。恐れなくていい。祈らなくていい。
家族がいる家へと帰る事が出来る事はなんて幸せな事なのだろう。
安心して一緒に暮らす事が出来る。
それは幸せ。
家族と過ごせる幸せ。
嬉しい。
そう思うと自然と早足になる。
結局ヨシノに甘えている自分に気付き、八千代は首を横に振るが、その顔には自然と笑みが零れていた。
そういえば。
はたと火事があった部屋の主人であり義父である紫呉の事を思い出す。
火事があったという事はどこか別の部屋を借りているのだろうか。
ヨシノと二人で住んでいるという住居に避難しているのだろうか。
行方不明だと後日知る事になる義父の所在を頭の片隅で考えながらヨシノから聞いた住所のマンションへと足を運ぶ。
住んでいた住居を見ればなにか思い出すかもしれないと思っていたが、到着してみてもここに住んでいたという実感は湧かなかった。
エントランスゲートを潜る。

「さっちゃん、おかえりー」

部屋の扉を開けると奥からヨシノがぱたぱたと駆けて来る。
八千代は口元が綻ぶ。
おかえりと言ってくれる事が嬉しかった。
笑顔を向けてくれる事が嬉しかった。
応えてくれる事が嬉しかった。
その瞳に自分の姿が映ることが嬉しかった。
一つ一つが八千代にとって大きかった。
人生を変えてくれた。
それは、これからも。

「ただいま、紫乃」

八千代小夜は心から幸せそうに笑った。



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