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初めて会った時から彼女──みょうじは明るく、まっすぐでひたむきな女性だった。
いつも笑顔を絶やさず、誰とでも分け隔てなく接する。
俺みたいに不器用な男に対しても、だ。その彼女の優しさに、俺はこれまで幾度となく救われた。
そんな彼女が、
「…みょうじ?」
突然、俺の前からいなくなった。
今日は土曜日で学園の授業は休みだ。だが毎週午前中のみ、卒業オーディションのペアであるみょうじと二人で自主練習をしていた。習慣だった。
いつものように待ち合わせ場所に向かい、俺が少し先に到着する。しかし、みょうじは一向に現れる気配はなかった。みょうじが練習を投げ出すなど考え難かった。
彼女を探して学校内を練り歩く。Aクラスの教室のドアを開けると、みょうじはもちろんのこと、当然ながら誰もいない。ふと、自分の座席の机の上に、金曜日の放課後には置いていなかった物が目に入った。
「楽譜か?」
机に置かれたそれを、そっと手に取った。見たことのない音符の羅列。みょうじが書いた新曲だろうか。ふと、楽譜の間に挟まれていた、もう一枚の紙の存在に気付く。
それを開くと、中にはみょうじからのメッセージが記されていて──読んだ俺は目を見開いた。
「渋谷!」
「ぎゃーっ!何よマサやん!ここ女子寮なんだけど!」
「突然すまない!みょうじを見なかっただろう…か、」
部屋の中の光景を見て、俺は愕然とした。
広々とした部屋には、渋谷の机やベッドしか置いていない。スペースが半分、ぽっかりと空いてしまっている。
「こ、れは…」
「なまえなら朝イチで出て行ったよ。黙っててごめん」
「……」
「私、マサやんと春歌の事も知ってるけど、なまえの気持ちも知ってたから…止められなかった」
ぐしゃりと手紙を握りしめる。
悔しさなのか、寂しさなのか、はたまた違う感情か。自分でもよく分からない程気持ちが落ち着かず、心臓の鼓動が鳴り止まなかった。
「そ、うか…」
「マサやん…」
「ありがとう、急に失礼した」
頭が働かない中、重い足を動かして向かった練習室。ピアノ椅子に腰かけ白黒の鍵盤を押せば、その音だけが切なく響く。本当ならば、横にみょうじが居るはずなのに。一人取り残された練習室で俺は、ぐしゃぐしゃになった手紙を広げた。
【今までありがとう。大好きでした】
「俺は、何て事を…」
これまでみょうじが自分を想ってくれている事に、全く気付いていなかった。
『ねぇ、下の名前で呼んで欲しいな』
彼女は何度も、そう言った。その言葉の裏に隠された意味を、俺は理解していなかったんだ。
照れ臭さがどうしても勝ってしまい、まともに下の名前を呼べた事はない。もちろんハルの事もあった、彼女以外の女性を名前で呼んでいいものかと。しかし今思えば、何をそこまで頑なに拒否していたのか自分でも分からない。
俺がみょうじと彼女を呼ぶ度に、俺は彼女を傷つけていたのか…?
「…すまなかった」
今更謝っても、もう届かない。こうなるくらいなら、彼女が離れてしまうくらいなら、彼女が望む通りに名を呼べば良かった。
後悔しても、もう遅い。
みょうじは、もういない。
当たり前のように隣にいたみょうじがいない喪失感。
こんなにも、大切な存在だった…とは。
「今更気付いても遅いな」
乾いた笑いが漏れた。
自分がなんて愚かだと思う。
離れてからその存在の大きさに気付くだなんて。気付くのが、遅すぎたんだ。
───
「よーし!ST☆RISH行くぞーっ!」
あれから目まぐるしく毎日が過ぎた。
卒業オーディションには参加せず、俺達はグループとしてデビューを果たした。結局、みょうじが書いてくれたあの曲は、お蔵入りとなった訳だ。
あれは、良い曲だった。
「(俺には勿体無いくらいに)」
デビューライブの直前、こんな大切な時でも思い出すのはみょうじの事ばかりだった。
「聖川さん」
後ろからかけられた声に、そっと振り向いた。
そこには俺達の作曲家としてデビューを果たした、彼女の姿があった。
微笑んで両手を掲げる彼女に、高さを合わせてハイタッチを交わす。
パン、と音が小さく響いた。
「ライブ、頑張ってくださいね」
「あぁ、ありがとう。それと──」
「そろそろスタンバイお願いしまーす!」
言葉を遮るように、スタッフから呼び声がかかった。そろそろ、行かねばならない時間のようだ。
「…色々とすまなかった、七海」
「私の事は全然。好きと言って、受け入れて下さって…とても嬉しかったです」
「あぁ…」
「なまえちゃんに、届くといいですね」
みょうじ。俺はお前のおかげで夢を叶えることが出来た。
「そうだな」
この想い、歌に乗せて届けたい。
きっとどこか遠くで、見ていてくれているだろうか。
もしまた会うことが出来たのならば…その時は心を込めて、お前の名を呼ぼう。
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