偽りのキス
「それでは10分休憩後、シーン86撮りまーす」
監督の声が聞こえて、ドキリと心臓が音を立てた。どうやら一つ前のシーンの撮影が無事終わったよう。スタジオの端で椅子に座り待機していた私は、バッと台本を広げて持ち上げ、顔を隠した。
「い、いよいよだ…」
【シーン86】
台本の中のその部分に改めて目を通す。自分のセリフにマーカーを引いて書き込みもしている中で、一際目立つように赤ペンでぐるぐる印をつけている…「キスシーン」の文字。
女優というお仕事を始めて1年と少し。ありがたいことにたくさんお仕事をもらえている。現に今も、連続ドラマの撮影中。主演はお相手の方だけどそのヒロイン役を務めさせてもらっている。
しかし、こんな私に大きな試練が訪れている。
「みょうじさん、そろそろ準備良い?」
「はっ、はい!大丈夫です!」
スタンバイのギリギリまで噛んでいたガムをこっそり口から出して立ち上がった。
マンションの一室を模したスタジオのセットに足を踏み入れる。先にスタンバイしていた俳優さんに会釈をして、同じソファに腰掛けた。
「みょうじさん」
「はっ…はははい!」
「もう少しこちらに寄って頂けませんか?」
そんな端に座っていると落ちますよ、と言われ…すごすごと身体をずらした。縮まる距離に緊張が高まっていく。
一ノ瀬トキヤさん…今ドラマで共演しているお相手がこの一ノ瀬さんだ。本業はアイドルだけれど演技力も買われていてドラマや映画にもたくさん出ている。経験も私より多くて、お芝居も上手。私なんかが一ノ瀬さんのお相手だなんて、本当に恐れ多いことだ。
「はい!それではシーン86、カメリハ行きまーす!まだリハだから、キスシーンはフリで良いからね〜」
「は、はい!」
「お願いします」
監督のアクション、の掛け声を合図にリハーサルが始まる。私は台本に忠実に、セリフを唱えていく。口は自然と動くのに、頭の中はキスシーンのことでいっぱいいっぱい。
「…はいOK!それじゃ本番撮りましょう」
「(あぁ…本番がきてしまう)」
リハーサルがキスする【フリ】で良かった。
だけど本番は…実際にするんだよね、一ノ瀬さんと。メイクさんにリップを塗り直してもらっていると、いよいよだという実感が湧いてきて、緊張が高まる。あぁ、手に変な汗かいてきた。
「大丈夫ですか?」
「えっ!?」
「随分と、緊張されているようですが」
あと数分で本番が始まる──という所で、私だけに聞こえる声で一ノ瀬さんが話しかけてくれた。き、緊張してるのバレバレだったかな…恥ずかしい。
「一ノ瀬さんは、その…こういうシーン、撮った経験ありますよね?」
本番直前というのに、私は一ノ瀬さんに何を聞いてるんだろう。だけど一ノ瀬さんは怒ることもせずに「まぁ、何度か」と答えてくれた。もしかしたら私の緊張を解こうと気を遣ってくれているのかもしれないと思った。
「…私、初めてなんです」
「え?」
「恥ずかしながら…今まで男の人とお付き合いをしたこともなくて。だから全然慣れてなくて…」
そう──これまでお芝居の中で手を繋いだり、ハグのシーンは経験をしてきた。けれどキスシーンは撮ったことがない。
それに加え、何を隠そう私は、撮影はおろかプライベートでも男の人とキスをしたことがない。
…本当に、初めてなのだ。
「…って、すみません!直前にこんな話をして。一ノ瀬さんもやり辛いですよね?私みたいなのが相手だと…」
とにかく、これはお仕事なんだからちゃんとしないと。主演の一ノ瀬さんに迷惑をかけるのは避けたい。
「それは──」
「はい!それでは本番行きましょう!」
一ノ瀬さんが何かを言いかけたと同時に、監督の声がスタジオに響いた。うるさいくらい鳴る心臓の音が、一ノ瀬さんに聞こえていないか不安になる。
『私…先輩の事が好きです』
それでも口は動いてセリフを喋ってくれるから、普段からちゃんと練習しておいて良かったなんて、ふと冷静な事を思った。
『あの!せんぱ…』
『目、閉じて』
セリフの後に、一ノ瀬さんが私の頬に手を滑らせた。いよいよキスシーンだ…また緊張で手が汗ばんでくる。
女優になる前は、いつか普通に恋をして、初めてのキスは好きな人と素敵な場所で、なんて思っていた。その願いは、本当は今も変わっていない。
一ノ瀬さんが嫌な訳では決してない。ただ、好きな人としたいだけ。仕事なのだから仕方がないこともちゃんと分かってる。
そりゃ、今彼氏や好きな人がいる訳ではないけれど。せめてファーストキスは、本当に好きな人としたい。
そう思うのは、女の子としていけないことなのかな。
「(…女優としては、失格だよね)」
一ノ瀬さんの顔が近づいてきて、私は一ノ瀬さんの胸元に手を置く。緊張のせいで思わず力が入って、一ノ瀬さんの衣装のシャツをぎゅっと握ってしまう。
だめだめ、ちゃんと集中しないと──!
「すみません、一度止めて下さい」
目の前から聞こえる一ノ瀬さんの声に、きつく瞑っていた目をゆっくり開いた。
現場が一時静まり返る中、一ノ瀬さんはゆっくりと立ち上がり、監督の方へと歩いていく。
「(な、なんだろう…)」
何かセリフに間違えがあった?
それとも私が一ノ瀬さんに不快な思いをさせたのだろうか。
セットの中に一人取り残され悶々とする私。一ノ瀬さんが監督と何か会話を交わしてから、すぐにこちらに戻ってくる。一ノ瀬さんは失礼致しましたと一言謝って元の位置に座った。
「すみません!カメラアングル変えてもう一回撮ります!」
「は、はい!分かりました」
なんだ…撮り直しか…。
私が緊張しっぱなしだったから、一ノ瀬さんが配慮して一度止めてくれたのかな。私、さっきから一ノ瀬さんにものすごーく気を遣わせてない?も、申し訳なくて仕方がない。
よし、仕切り直しだ。
次こそはちゃんとやらなくちゃ!
軽く頬を叩いて、こっそり気合いを入れ直す。
そして2回目。
同じようにタイミングを見計らって目を閉じる。…大丈夫、さっきよりは緊張もほぐれている。なるべく自然に自然に──そう意識をするも私の心臓はうるさいくらいに音を立てる。
ついに唇が重なる…と覚悟していると──
「……?」
確かに、一ノ瀬さんの唇が私に触れた。
だけどそれは想像していた感触とは違っていて…
唇には何も感じない。
分かったのは私の唇の端ぎりぎりに、一ノ瀬さんの唇が触れているということだけ。
唇が触れ合うキスとは違う。どちらかと言うと、ほっぺたにされているのに近い。それでも心臓の音は鳴り止まず、私は息を止めて時間が過ぎるのを待っているしかなかった。
ドキドキしすぎて、頭も見事に真っ白だ。
「(このあと…セリフが何もなくて良かった…)」
「はいカット!OKでーす!」
放心状態で何も動けずにいると、一ノ瀬さんは先に立って映像のチェックに向かう。私も慌てて後を追いかけた。
早速、監督と並んで座り、問題のキスシーンを確認してみると、
「(確かに、ちゃんとキスしているように見える……)」
撮られていたカメラの角度からは、確かに私と一ノ瀬さんの唇は重なっているようしか見えない。映像を確認した監督は「うん、良いね」と満足そうに頷いている。本当はキスしていません、なんてわざわざ言う必要もなさそう。
「一ノ瀬くんがアングル変えるように提案してくれたおかげで、良い絵が撮れたよ」
「え?」
一ノ瀬さんの、提案…?
もしかして1回撮影を止めたのって、それを監督に話すため?
私が、キスシーンに戸惑っていたから…?
「今日の撮影は以上です!お疲れ様でしたー」
「あの、一ノ瀬さん!」
撮影終了の声がかかり、次の仕事へと向かう一ノ瀬さんを引き止める。振り返った一ノ瀬さんは不思議そうに私の顔を見たけど、すぐに足を止めてくれた。
「その、ありがとうございました」
「?私が、何かしましたか?」
「あの…き、きき…キスシーンの」
改めて言うと恥ずかしいな…キス、だなんて。
手を忙しなく動かしながらそう言うと、一ノ瀬さんは思い出したかのように「あぁ、お気になさらずに」と言って微笑んだ。
「私のせいですよね?私があまりに緊張していたから…」
「…いえ、それもありますが」
すると一ノ瀬さんは私に一歩近づいた。
綺麗な顔が至近距離にあって、さっきのキスシーンを思い出してしまって、
やたら緊張しちゃう。
「あ、あの…」
もごもごと口を動かすことしか出来ない。視線を逸らしたいのに、じっと見つめられ不思議と逃れる事が出来なくて。
そのままスっと一ノ瀬さんの人差し指が、私の唇に触れた。
「ファーストキスは、大切に取っておいた方が良いですよ」
優しくそんな言葉を囁かれるものだから、
さっきの撮影なんて比にならないくらいドキドキして、心臓が破裂しそうになる。
「それでは次の仕事があるので失礼します」
パッと私から離れて颯爽と去っていく一ノ瀬さんを、私はただ眺めることしか出来なかった。
あぁ、何故ばか正直にこれがファーストキスです、なんて言ってしまったんだろう。
だって私、たった今あなたに恋をしてしまった。
「次の撮影、どんな顔して会えばいいの…」
一ノ瀬さんに触れられた唇が熱を持って、手で必死に抑えてもそれが消えることはなかった。
これは、嘘のキスから始まった、本当の恋。
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