Nemophila
「今夜は満月?」
暗い部屋には月の明かりだけが差し込んでいる。なまえの問いに「そうです」と答えると、少しだけ彼女の口角が上がった。夜だというのに、この部屋に電気が点く事はない。
「今の季節は春?」
「そうですよ、5月です」
「5月か…そしたら咲いてるかな」
その視線と、自分の視線が絡み合う事も、無い。
「ネモフィラの花」
「なまえが、一番好きな花ですね」
「そう!よく見に行ってたなぁ…目が見えていた頃は」
彼女──なまえがその目に光を失ってから数年が経過する。
こうなる前は、ごく普通の幸せな恋人同士だった。温もりと愛に包まれる日々…側にはいつもなまえが居た。そんな毎日がいつまでも続く事を、信じて疑わなかった。
しかし、その瞳に世界が映らなくなった日から…なまえはこうして暗い部屋に塞ぎ込むようになった。
私は今日もその部屋を訪れ、他愛も無い話を繰り返す。目が見えないなまえの代わりに、七色に光る、虹色に煌めく世界を君に教えたくて。
そして別れる間際には必ず一曲、メロディーを口ずさむ。少しでもなまえが元気を取り戻してくれないか、と。そう願いを込めて今日も口を開くのだ。
「トキヤ、ごめんね」
もう何度目の謝罪だろうか。
毎日毎日、なまえは私に「ごめんね」と言う。聞きたい言葉はそうではないのに。
「謝らないで下さい」
「だって…」
何かを言いかけて、なまえはまた黙った。
音楽は…音楽だけはいつでも彼女の側にあって欲しい。あんなに好きだった音楽までも失って欲しくなかった、忘れないで欲しかった。再び歌うフレーズは、なまえが好きな切ないラブソングだ。
「トキヤ──」
また何か言おうとした唇を、黙ってただ奪った。右手をなまえのうなじに添えて、抵抗させないよう自分の左手は、彼女の膝に揃えて置かれた両手首を握った。
目が見えなくとも、感触は伝わっているはず。唇を離して、それだけでは足りずもう一度だけ触れるだけのキスをした。
その瞬間、なまえの瞳が揺らいだ。みるみるうちに涙で濡れていく。瞬きをしたと同時に一筋流れたそれを、そっと指で拭った。
「私…明日からドイツに行くの」
「…え?」
「目の治療。良いドクターが見つかったから…手術する事になって」
静かな部屋になまえの声だけが響く。理由もなく泣いていた訳ではなく、なまえは知っていたんですね。
この時間に、間もなく終わりが来ることを。
「だから、今日でお別れなんだ」
突然の別れに、私だけではなくなまえも動揺しているようだった。声が震えている。
少しでも安心するように、握っていた手に力を入れた。
「私のことなんて、忘れていいよ」
「……」
「だって嫌でしょう?私みたいなのに依存されるの」
思ってもいない事を口走る、その姿がいじらしい。
「君はまた、そう強がるのですね」
そう言って手を引き、また唇を重ねた。なまえの涙が乾くまで何度も何度も。
「正直に言いなさい」
「…忘れて欲しくない」
「はい」
「待ってて、欲しい」
「(なまえから願い事をされるのは、いつぶりでしょうか)」
泣き疲れたのか、はたまた安心したのか。私がなまえの願いに応える事を約束すると、なまえは穏やかに眠りについた。
目尻にはうっすらと涙が滲む。また、不安な夢でも見ているのだろうか。寝息を立てているその唇に親指を滑らせ、そっと撫でた。
「馬鹿な人ですね。忘れるなんて、出来やしないのに」
ポツリと呟く独り言はなまえは届かず、部屋の中へ消えていく。
彼女に依存しているのは自分の方だ。たとえなまえの目が見えないままでも、どんな残酷な未来が待っていようと。離れるつもりなどこれっぽっちもないのだから。
だからこそ離れる事に不安はある。遠くの街に行ってしまう君を、どうにかして繋ぎ止めたい、そう思ってしまう。だけどそれは自分のエゴだ。
どうか、なまえの未来が明るい物でありますように。夜の月にそう願いをかけ、なまえの小さな手を握りしめながら一緒に眠りについた。
そして、数年後───
「トキヤ」
綺麗な瑠璃色の瞳に、私の姿を映した彼女は
「おかえりなさい、なまえ」
とても可憐で、美しかった。
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