【近付く距離】
「ど、どうしたの?」
私の元まで走って追いかけて来てくれた聖川くん。私もすぐに立ち止まって振り返り、切れた息をすぐに整えた聖川くんと向かい合わせになった。
「どうしても心配で…体調、その後いかがでしょうか」
「う、うん!もう大丈夫だよ、ありがとう」
「そうですか。良かった」
心配…してくれたんだ。あんなに迷惑をかけたのに、責める事なくただ私を気遣ってくれる聖川くんは本当に優しい。その優しさが心から温かく感じる。もしかしたら聖川くんに幻滅されて、もう二度とこうして話せることは無いかもしれないとさえ思ってたから…とにかく私はほっとしていた。
一人ほんわかしていたけど、すぐに聖川くんがこの後仕事があると話していたことに気付く。あまり引き止めたらまずいだろう。
「会議室…居なくて大丈夫なの?この後仕事なんじゃ…」
「それがかなり早く着いてしまっていて。まだ時間に余裕があるので大丈夫です。黒崎さんは次の打ち合わせに向かわれました」
「そ、そうなんだ」
「はい。…あ」
「?」
「敬語、止める約束だったな。すまない、ついいつもの癖で」
「う、うん!そ、そうだったね…あはは…」
びっ…くりした。
聖川くんの口調が、突然前までのそれとは変わったことに動揺する。敬語を使わないでとお願いしたのは私のくせに、変に照れ臭い。さっきのことも、あるし…。つい先程会議室で触れられた右手を、自分の左手でこっそりと握って、何とか気持ちを落ち着かせる。
「下まで送ろう」
「大丈夫だよ!道覚えてるし…多分」
「本当に、大丈夫か?」
「子供じゃないもん」
とは言いつつ、聖川くんはごく自然に私の隣を歩く。申し訳ないと思いながらも、私もお言葉に甘える事にした。本音は…もう少しだけ、一緒に居れるのは素直に嬉しいなんて思っちゃったから。
エレベーターに乗り1階へと降りて、長い廊下を渡る。それにしてもやっぱり、この事務所は広すぎるよ…聖川くんに案内してもらって良かったかもしれない。
「あー!黒崎くんいたいた!」
「…!」
歩いていて突然聞こえた大きな声に、曲がろうとした角を咄嗟に立ち止まった。スタッフと思われる男性と蘭丸が二人でこちらに歩いてくる足音がする。
「こっちだ」
このままだと鉢合わせてしまう──どうしようかとその場でおどおどしていると、ぐいっと聖川くんが私の肩を掴んで、二人で物陰に隠れた。
驚いて声が出そうになって、急いで両手で口を塞いだ。肩には聖川くんの手が回っていて、もう片手は腰に添えられている。ほぼ、抱き締められているような体勢に近すぎる距離。ドキドキと、うるさいくらい心臓が音を立てる。
「わ、私達どうして隠れてるんだろうね…」
「あぁ…そう、だな」
そうだ、隠れることなんて何もなかった。ただ普通に挨拶してそれで終われば良かったんだ。だけど、何となく…聖川くんと二人でいる所、見られない方が良いかなと思って。
別に、やましいことをしてる訳じゃないのに。
「(いや、むしろこの状況を見られた方がまずいんじゃ…!)」
小さくなっていく足音を聞きながら上目で聖川くんの顔を見ると至近距離にその顔があって、しかも目がばっちり合ってしまった。少し驚いた顔をした聖川くんの顔が、徐々に赤くなっていく。
「…っ!すみません!つい!」
「あっ、ううん…大丈夫」
バッと身体が離れてお互いに顔を背けた。何となく気恥ずかしくて、二人とも何も言えず沈黙が流れる。
「聖川くんて、こういう恥ずかしいこと…突然するよね…」
「返す言葉が、ありません」
「ううん、大丈夫なんだけど…それから、敬語」
「あぁ…まだ慣れないな」
小声でひそひそと会話をしていると、いつの間にか蘭丸達の声と足音は聞こえなくなっていた。良かった、なんとか凌げたみたい。
「大丈夫そうだな」
「うん。それじゃ、行こうか──」
「ごめん、黒崎くん!会議室変更だってさ」
再び聞こえた声に、出口に向かおうとした身体が逆戻り。
だからどうしてこうピンチが続くの!?
もう!蘭丸もスタッフさんも場所間違えないでよ…!なんて、全く悪くない2人を少しだけ恨む。
だってだって、よりによって隠れた場所は思ったより狭くて、中々聖川くんとの距離が取れない。さっきからずっとドキドキしっぱなしだよ。そ、そろそろ解放されたいのに…!
「そういえば黒崎くん、さっき話してた女の子と仲良そうだったよね。ST社の、あの美人な子」
「さっき?あー…七瀬ですかね」
「七瀬って…もしかして黒崎くんとそういう関係なの!?」
二人の口から、突如自分の名前が出たことに別の意味でドキッとする。美人と言われてわ、悪い気はしないけど…。いや、100パーセントお世辞なんだけれど。
そっか、他の社員さんも結構見てるんだ。誤解されたら蘭丸にも迷惑かけるし、これから接し方には少し気を付けよう。
「ねー今度紹介してよ、その子」
「断るっす」
「なんで!?」
遠ざかっていく声と足音に、またほっと息を吐いた。しばらくしても戻る気配は無いから、今度こそ大丈夫だろう。
ようやく出口へ向かえそう…聖川くんに話しかけようと目線を上げたら、聖川くんは何も言わずにその場で固まっている。離れようと試みて彼の胸元をそっと押してみるけど、微動だにしない。
「ひ、聖川く…」
私の声掛けにようやく動いてくれた聖川くんだったけど、その身体は離れることなく私の方にぐっと近付く。そして聖川くんは、私の背後にある壁に、こつんと頭をつけた。
「七瀬」
「へっ!?」
「と、呼ばれてるのですね」
黒崎さんから。と、ぽつりと呟かれた言葉。視界の端に映るのは青い綺麗な髪だけで、どういう表情をしているか分からなかった。
「妬きました、少し」
まだ敬語が抜け切ってない聖川くん。それを指摘する余裕も、今の私にはない。
「あの、櫻井さ──」
「きっ…今日はありがと!ここで大丈夫だから!」
顔を上げた聖川くんの目を上手く見る事は出来ず、やや強引に身体を押して聖川くんから離れる。きょとんとする聖川くんを置いて、私は駆け足でその場を後にし、出口までパタパタと走った。
「ん?何を言ってるんだ俺は」
──
なっ、
ななな
何今の…っ!?
シャイニング事務所の外に出て、両膝に手を着いて呼吸を整える。息遣いが落ち着いても、心臓の鼓動が止んでくれる気配はない。
走ったせいじゃない。聖川くんのせいだ。だってだって…
『妬きました、少し』
だって、あんなの!
「(反則、すぎるよ…!)」
赤くなっているであろう頬を自分の両手で覆う。思っていた通り熱い。目を瞑ってふぅと息を吐いても、中々冷めない。
次、どんな顔して会えば良いの…。
誰に対してもこんなにドキドキする訳じゃない、相手が聖川くんだからだ。
この気持ち…分からない、だなんてもう言えないよ。
これは確かにときめきだ。