胸の苦しみ



「それでは失礼します」

丁寧にお辞儀をしてからゆっくりと大きな扉を閉める。
立派すぎるその扉に背中を預けて、そのまま床に崩れ落ちた。


胸が痛くて仕方がなかった。
心臓が鳴り止まない。上手く呼吸が出来ず胸を押さえていると、



「…大丈夫ですか?」


頭上から声が聞こえてゆっくりと顔を上げた。




「具合が優れないなら医務室に──」
「一ノ瀬さ…」
「あなたは…賀喜さんですか?何故ここに…」


私に声をかけてくれたのは一ノ瀬さんだった。
私がここにいるのが意外だったようで、驚いた表情を見せる。そうだよね…普通に考えたら一般人の私がこんな事務所に足を運ぶことなんて有り得ない。


そんな状況と私の顔を見て、何かあったと察したのか一ノ瀬さんは少しだけ眉をひそめてから、しゃがんで私の目線まで高さを合わせた。


「何かあったのですか?」
「いえ、」
「音也を、呼んで来ましょうか」
「大丈夫です!すみ、ません」


一ノ瀬さんの口から音にいの名前が出たのに動揺して、慌てて立ち上がる。支えようと差し出してくれた手にありがとうございます、とだけ返して、急いでその場を去った。

後ろから一ノ瀬さんが呼び止める声が聞こえたけれど、振り返る資格は、私にはもうない。





──「もう二度と、一十木さんには関わりません」



自分から放った言葉。もうこれで、音にいに会うことはきっとない。


大丈夫、再会する少し前に戻るだけ。
だから大丈夫。

胸の苦しさを抑えながら自分に必死にそう、言い聞かせて、ひたすら走って事務所の出口を目指した。








───


何度もスマホを確認する。

記事が出てから、メディアや関係機関への対応に追われて忙しなく、涼花と連絡を取る時間がなかった。


ようやくさっき涼花にメッセージを入れてみたけど、彼女からの返信は無い。


涼花の身に、何もなければ良いけど…。
今はただ、その事だけが気がかりだった。



直接的な被害はないと信じたいけど、何が起こるか分からない。どうしても彼女の事だけは守りたいのに、事務所から今は大人しくしているよう指示された以上、何かする手立てもなかった。



「(俺の責任だ)」

完全に油断していた。
アイドルという立場がありながらも、あんな写真を撮らせる隙を与えてしまった。





「はぁ…どうしよ」


どうしようもなくムシャクシャして頭を掻いて、廊下を歩く。数メートル歩いたところで、俺の正面からトキヤが歩いて来て目が合った。


「音也!」


焦ったように駆け足で俺の方に向かってきたトキヤ。
珍しい事もあるんだな、なんて呑気に考えていると──


「先程、社長室の前で賀喜さんに会いました」
「え…?」


涼花が、社長室に…?

何故、という疑問の答えはすぐに出た。
間違いなく、週刊誌の件だ。涼花が、わざわざ呼び出されたってこと…?


「体調が優れなそうでしたので心配で…大丈夫と言ってすぐ帰ってしまったようですが」


ギリ、と拳を握る。


「音也!どこへ行くんです!」


後ろから聞こえるトキヤの声を振り切って、俺は全速力で社長室まで走った。







「オトくん…」

ノックもせずに、重いその扉を勢いよく開ける。
中に居たりんちゃんと日向先生が一瞬驚いた顔をするけど構ってられない。部屋の奥に座る社長は、一切表情を変えなかった。


そのまま、ツカツカと社長の席まで早歩きで向かった。



「涼花に…何かしたんですか」
「…事実関係を確認しただけデース」
「そんな…訳ないだろ!何か余計な事言ったに決まってる!」
「一十木落ち着け!」


日向先生に後ろから肩を掴まれる。
社長はそれ以上何も言わない…それがまた悔しくて唇を噛んだ。



「一十木、彼女とはもう会うな」
「な、んで…そんな!」
「これは私達からの指示じゃないわ。涼花ちゃんから、そう言ったの」


日向先生とりんちゃんの言葉が胸に刺さる──。目の前の社長は、自分の顔の前で手を組んで、何も話さないままだ。



「(涼花が…自分から、)」

俺に会わないって、本当にそう言ったの…?



目の前が、真っ暗になった。
胸が苦しくて、たまらない。

シンと静まり返る社長室の中で、俺がそれ以上言葉を発する事はなかった。




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