『ただひとり』 草のはじまり 草side



小さな幼子が、庭で遊んでいる。
「ちちうえー」
と舌足らずな声で呼ばれて、草は小さくはにかむ。

自分の心には、どこか欠陥があるのではないかと思う。
家族は好きだ。
いとしいとおもう。
けれどどこか、冷めている自分も感じる。

18歳で顔を一度見ただけの相手と婚姻を結んだ。
細君はやさしく気立てはよく、万事控え目な女性だったが子をすぐに授かり、そして双子の難産で子を残しあっさりと天に上ってしまった。
彼女は17歳の年を数えられなかった。
はかない、悲しいと思うが、彼女を失いながらも子供らの駆け回る姿に笑みを浮かべて生きている−自分は恐ろしく冷たい人間なのだと草は思う。
子ら二人は良く笑い、良く食べ、元気に乳母や兄夫婦の子、そして祖父母に愛でられすくすくと育っている。

「若さん。そろそろ、お時間です」
草の家は大きな商家で様々なものを扱っている。
元はといえば材木問屋だった祖父が手を伸ばし各地の珍しいものをこの地に運んで材木片手間に商売をしたのが始まりときいている。
材木置き場は別にあるが、いつも木のいい香りがするのはその名残といえなくも無い。
「そうですか」
草は表口の玄関に向かうと番頭が頭を下げる。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「草、楽しんで来い」
草の兄で家を継いだ透が笑みを見せる。
「いってまいります」
準備された風呂敷包みを渡されて、草は足袋に草履を履いて町に出る。
誰もが腫れ物を扱うように、草を扱う。
細君を失って一年半。
まだ若いのだし楽しみを見つけなさいと、親姉兄に習い事をすすめられた。

もともと、一人で思索にふけるのが好きな性質だ。
親につけられた師で一番興味を持ったのが、論語に史記、そして草紙だった。
今では乞われて、絵草紙などもえがいている。
はじめは大店の息子の道楽と先方も商売ではなくお世辞を込めたお遊びだったようだが、最近じわじわ読み手が増えて、新作を楽しみにしていると文までもらうようになっていた。
が―。

家にこもってばかりでは病気になると、周囲にせっつかれ、歌舞伎に舞い、果ては吉原にまで連れ出され、そういうものは好みではないと断ると習い物をしてはどうかと奨められた。
ものかきとして、興味を持ったのが絵、だった。
絵草紙などみるにつけ、どのような人間が絵師になり絵を描くのか。
いつか自分の思いのたけを込めた草紙に絵師はついてくれるのか。
そんなちょっとした好奇心からはじめた、絵。

学んでみると、なかなかに難しくまたお金もかかる。
勿論草の家は湯水のごとく使っても到底使い切れない財産があり、また商才ある兄が切り盛りしているおかげで、その手に労したことなど一度も無かった。
そして、親姉兄は十代で子持ちのやもめになってしまった草にいたく甘い。
草も家族が困っていればほおっておくわけにもいかないと、それでも必要時は兄の手伝いをする。
すると、破格の小遣いを渡される。
遊ぶ金も必要だろう。世間を知るにも金は必要だと。
父母からも折りにつけそっと袱紗に包まれた金子を渡された時には苦く笑ってしまった。
それなりに自身も稼いでいるつもりではあるが、やはり傍目には頼り無い次男坊なのだろう。

もうしばらくしたらまた、誰かよい人をさがすといい。
それまでゆっくり休みなさいと、まるで子供にさとすように言われて…愛されているのはわかるが冷笑を浮かべたくなってしまった。
やさしい家族に包まれて、かわいらしい子らに囲まれ、それでもどこか冷めている自分はやはり心がないのだろうか。
心の無い人間が描く物語を、人は読んで楽しいのかと思いながら、ゆっくりと五月の風に吹かれる。

五町ほど先にある、絵師の家ですれちがった青年に挨拶をする。
柔らかそうな髪が風にゆれている。
やさしそうな顔立ちだが、その眼の鋭さと冷たさがどうも草には不安定に見えた。
泣きそうな…。
そんな印象を一瞬でもつ。
が、目礼すると、向こうも小さく頭を下げた。
年のころは草と同じくらいか。
足袋も履かず、着物も粗末で、顔色も悪い。
とても絵を習いにきているとは思えない青年だった。
青年が取りすぎてゆく。
顔を覚えるのは苦手で、すぐに忘れてしまった。
が、彼が廊下の角を曲がった際、一枚の和紙がかさりと落ちた。
草はそれを拾い上げて見る。

そこには墨で描かれた露草が描かれていた。
凛として孤高に立ち、健やかに瑞々しく咲いている。
墨一色の中に、色を感じて草はその青年の後姿を、その目に焼き付けた。

会話を交わすのは、もう少し後になる。
すれ違い一瞬で顔を覚える事すら出来なかった相手だが、これが運命の出会いになった。

END 2010 28


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