草君のポトフ



草ははぁ、と小さく吐息をついた。
行き違いは良くあること。

言葉を捜して話しても、伝えきれない思いをもつ草と
飲み込むことに慣れ親しんだ禎は、小さな問題がいつもあった。

お互いを思いやること。
そんな当たり前の事が、日々の忙しさの中で忘れ去られてゆく。
忙しいの一言で、済ませてはいけないとわかっていても、慣れれば我を通したくなる。
わかってくれるだろうという希望的観測はそのまま、甘えにかわる。
そして言葉が減ってゆく。

言葉の減りにより、意思がすれ違う。
正しく相手の意図が汲み取れない。
忙しさに摩滅した心から生まれる思いやりの足りなさ。
そして訪れる沈黙と居たたまれなさに、『またね』と泣きそうな笑みを浮かべて禎が席を立ったのは1時間前だった。
机上に置かれた冷めたふたつの珈琲が、お互いの気持ちを表しているようだった。

草は自分の髪をかきまぜる。
こんなとき、自分の感情を処理できなくてもてあます。

禎が一人で泣いていないか。
泣かせているのは自分だというのに、心配になる。
一時間前に昂ぶった怒りという感情は、今もかわったわけではないが…怒りは穏やかになり、ただ今後どうすればいいのか途方にくれる。

「仕事…しないと」
それでも締め切りは容赦なく襲ってくる。大学生でも物書きとしての仕事の言い訳にはならず、のんびり構えている暇はない。
珈琲カップを流し台に押しやり、珈琲サーバーに手をかける。
今夜は徹夜になりそうだからと、珈琲を煎れようとして手が止まった。

『珈琲ばっかり飲んでたら、胃が悪くなっちゃうよー。草ちゃん』

ふっと禎の言葉頭の奥に響いて、目を伏せる。
お湯を沸かしながら洗い物をし、暖かなそば茶を煮出して大き目のポットに入れる。
意識的にも無意識的にも、禎に守られている気がして…冷たく固まっていた唇が自然とほころんだ。

小さなすれ違いと日々の疲れが鋭い言葉を生み、そして傷ついた二人。
それでも時は流れてゆく。
草の上にも、禎の上にも。

草は書斎に向かいパソコンを立ち上げる。
パソコンの中では、学生生活を送る少年少女が冒険をしながら小さな恋に胸を震わせている。
草は文字を打っては消して…打っては消して。
いつもはリズミカルなタッチが、止まりがちの音を響かせる。

パソコンの中の少年少女達。
柔らかな心が高鳴る。
見つめあいからまる視線。
恥じらい、眼をふせ、それでも相手に惹かれて…惹かれてたまらなくて。
そんな可愛らしい冒険とやさしさに満ちた幸せな夢物語。
現実はそうは行かない。
だからこそみんな小説に夢を求める。

嘘つきは得意なはずなのに…今日に限って上手に嘘すらつけない。
三時間パソコンの前に粘って書いた5ページを読み直し、そしてエンターキーひとつですべて削除した。

ふ。

小さな吐息も一人だと部屋に響く。
時計は、もうじき夜の半分を超える。
いつのまにか振り出した雨の音に草は目を細める。

そして雨の雫を流す窓を見る。
まるで涙のようだ。

雨が降ると頭が痛くなると禎はだいじょうぶだろうか。
健やかな眠りが訪れているだろうか。

机を指でとんとんと叩く。
締め切りまじかで余裕など1秒たりとも無いが、どうせ今夜は満足いくものは書けない気がして。
草はパソコンの電源を落として、席を立った。

いつもの大きなバックに携帯と財布を突っ込み、コートを着こんで大きな傘を取り出す。
別に逢いたい訳じゃない。
話したいわけじゃない。
でも、気になって、たまらなくて…。

深夜の街を雨の中コートをひるがえし、草は足を進めた。
肩に降る雨が、冷たい。
吐く息が、白い。
それでも眼鏡の奥の漆黒の瞳は真直ぐに前を見詰めていた。

歩きなれた道を行き、禎の部屋に向かう。
遠くからでもわかる。
禎の部屋に電気がついていて、ほっと息を吐いた。
そして初めて、全身に力が入っていたことを知る。
禎の家の前で、立ち尽くし見あげる。
傘を叩く雨の音も耳に入らぬほど、じっと禎の部屋の明りを見つめる。

ささいなことだ。
苛立ちも、怒りも、悲しみも。きっと。
禎がこの世界で共に生きていてくれているという事に比べれば、どんな事も些細に思えた。

草は傘を傾け、ただ、立ち尽くす。
祈るようにじっと暖かな部屋の明りを見つめる。

禎を泣かせるたびに、哀しませるたびに…自分では禎につりあっていなのではないかと思う。
手を引けと、いつも心のどこかで何かに囁かれている。
人懐こく明るく、陽だまりのような禎。
彼には幸せが似合っている。
可愛らしい女性と恋に落ち、幸せな結婚をして、愛し子をつくる普通の生活に返してやるのが本当の愛情なのではないかという思いが頭の隅にこびりついてはなれない。

けれど同時に、自分の欲望が頭をもたげる。
禎を誰にも渡したくない。
彼は、自分だけのものだ。
愛しい存在をどうして他者に譲れる?

本当に愛しているのなら――――。

姉の言葉が頭の中に蘇る。

『本当に愛しているのなら、自由にしてあげなさい。それであなたの元に帰ってこなかったら、あなたのものではないのです。あなたの元に帰ってきたのなら、それはあなたのものなのです』

たしか、そんな言葉で〆られていたような気がする。
そんな一言で、納得なんかできるわけ無い。
でも―。

草は、空を見上げ深い闇の奥を見る。
今日は雨で、星のひとつも見えない。

いつだって草は独りよがりになりがちだ。
相手の意見を聞く余裕を持たなければいけない。

考える時間も勿論お互い、必要だ。

さらさらとふりそそぐ雨は、草の心を優しく癒す。
冷たい雨が、心地いい。
白い息を吐きながら、ぼんやりと立ち尽くす。
少しずつ頭の中がクリアーになってゆくようだった。

禎がどう考えても、動いても、自分自身にぶれない軸があれば大丈夫だ。
その軸を揺らがせないように。
ぎゅっと胸を掴むように胸の前で手を握り締める。

禎の部屋の暖かな明りを見ていると、自然に心が凪いでゆく。
草はやわらかく息を吐いて、凍りついた足をゆっくりと動かす。
まだ、夜は深い。
「早く休んでくださいね。禎さん」
草は小さく呟き、家に帰っていった。

今なら、書けそうな気がする。
やわらかな心も、悲しみも、痛みも、そしてやさしさも。
すべてを素直な気持ちで。
急いでコートをハンガーにかけて、パソコンを立ち上げる。
リズミカルなタッチが雨の音と心地よい和音を繰り広げた。


「は…ぁ」
とりあえず、『続く』の一時ENDマークを打って外を見ると、いつのまにか外は爽やかに晴れ、日差しはすでに傾きかけていた。
やっと息がつけた。
無意識にポットのお茶は飲んでいたがそういえば…他のものを口にしていなかった。
一気に書きあげたので後でじっくり校正しないといけないが、とりあえず〆切りは明日の朝一だ。
仕事用携帯を取り出し、現状報告のメールを担当に打つ。
校正に時間は明日の朝までには送信できそうだ。
そのまま、クールダウンするために、ウィダーインゼリーでとりあえずの食事をとり、シャワーを浴びる。
なぜか、とてもすっきりして憑きものが落ちたようだった。
担当からの返答メールは、明日の朝一で了解とのことだった。

気分に余裕ができてありがたい。
一寝入りしたいところだが、頭の芯がさえていて眠れそうも無い。
こんな時は料理が一番だ。
冷凍してある肉を解凍し、ポトフを作ろう。
じゃが芋人参玉葱は、いつでも置いてある。
濡れ髪のままエプロンをつけ(禎が台所にたつ時はエプロンするよういつも言うので身についていた。こんな所まで影響されている事に苦笑を禁じえないが)じゃが芋を剥いてゆく。
鳥肉をガーリックでいため、大きく切ったじゃが芋人参玉葱を軽くいためて水を入れ、あくを取りつつローリエを数枚落とす。
もう一方でどくだみ茶を煮出す。
ポトフのアクを大雑把にとり終え、ことことに込みながらタイマーをかける。
そしてノートパソコンをリビングに持ってくる。

ゆっくりと自分が書いたものを読み直してゆく。
何度か手をいれ、言葉を書き足し…没頭しているとタイマーの音にびっくりとする。
鶏肉のポトフは煮込みすぎると、肉が硬くなる。
軽く塩胡椒で味を整え火を落とし、味を染み込ませつつ校正の続きを行なう。
二度読み直したところで眠気がきてソファに沈み込む。
そのまま意識は飛んでしまった。

目を覚まし、瞳がなごむ。
当たり前のように、暖かな空気が有り、自分の上にかかっている柔らかな毛布が存在する。
キッチンにだけついた明りの下で、トントンと何かを刻むリズミカルな音がする。
そっと気配を消し、音を立てずに立ち上がる。
そして気づかれないように禎の後ろに立つ。

だぼだぼの横縞のボーダーセーターを着込んだ禎は腕をたくし上げて、プチトマトを洗う。
「禎さん」
そっと手を伸ばし、背中から抱きしめる。
びくっと震えた禎は、そのまま固まる。
「そー…ちゃん。あの、勝手に入って、ごめんね。えっと邪魔しちゃいけないとおもって…」
あわあわと必死で言い募る禎を後ろから抱きしめ禎の香りをかぐ。
「すみませんでした」
するりとこぼれ落ちる言葉に、禎は更に慌てたようだった。
「草ちゃんが謝ることじゃ…俺も悪かったし…。あの、ごめんなさい。ちゃんと話し合おうっていつも思うのに…なんか…うまくできなくて。泣きそうで…逃げちゃって、ごめんなさい」
「泣きそう、ではなく泣いてしまったのでしょう」
そっと、そぉっと禎の頬に背後からキスを落とす。
「う…ちょこっとだけ。だよっ」
「すみません」
「なんで草ちゃんがあやまるのさ…」
「それは、俺が禎さんを泣かしてしまったからです」
「…でも、俺だって、知ってるよ?泣かなくても、泣けなくても、草ちゃんも痛かったよね?」
手をエプロンで拭いて、やわらかく抱きしめた草の手の中で身動ぎし、ふりかえる。
向かい合い、禎の綺麗な指が草の胸に触れる。
「俺も草ちゃん傷つけたね。ごめんね」
セルフレームの奥で涙に洗われた綺麗な瞳が揺れる。

こんなにいとしい者を、どうして手放せるだろうか。

草は禎の額にキスを落とす。
そして、こめかみに、頬に、唇に、おとがいに、首筋に。
キスの雨を降らす。
「草ちゃ。だめっ」
「禎さん…禎さんが欲しいです」
「駄目だってば。草ちゃん第一、今日何か食べた?」
「俺が今一番食べたいのは禎さんです」
「だーかーらー!駄目だってば!!草ちゃんはちゃんとご飯食べて、原稿ちゃんと送って、ちゃんと寝て、それからっ」
「おあずけ…ですか?」
大型犬が哀しそうに禎をみる。
その眼にほだされそうになるが、ここは禎も譲れない。
「草ちゃん。俺はどこにも行かないよ」
やさしく言う言葉に、草はやっと禎を抱きしめる手を離した。
「あああ、もう、水出しっぱなしだったし」
水道の水を止めると、ボゥルの中で踊っていた赤いプチトマトが浮いた。
「すみません」
「いきなり後ろにたって、包丁使ってたら危険なんだからねっ」
「はい」
草は嬉しそうに、禎に怒られる。
その表情に禎は困ったように息をつく。
「俺怒ってるのわかってるかなぁ?」
「ええ。わかっています」
「じゃなんで、笑ってるの?」
草のぽっぺをふにっと掴む。
草は笑みを崩さずにいう。
「禎さんが、ここにいてくれることが俺はうれしいです」
「草ちゃん…」
「禎さんは、俺にいろいろな事を教えてくれます。怒りも哀しみも、苦しみもやさしさも、そして、世界で一番幸福になれるということも」
その言葉に禎は頬を赤らめる。
「それって…」
「禎さんが俺に世界をくれます」
「…草ちゃん。恥ずかしいから、台所でそういう事言うの、やめようよ」
「では何処がいいのですか?」
真剣に問う草に、禎はクスリと笑う。
「んー。よくわかんないけど。お洒落なバーとか?デートでとか?」
「ベッドの上とか?」
その言葉に禎は赤くなり草のおなかをぱしんとはたいた。
「あっちいってて!もうできるからっ」
「はい。大人しく待たせていただきます」
リビングの電気をつけて、毛布とパソコンを片付けながら草は問う。
「今日の夕飯はなんですか?」
「草ちゃんの作ってくれたポトフと、店の残り物でつくったのサーモンサンド。それに、ほうれん草のココット。ビタミンCも足りないとおもって、イチゴ買ってきたよっ」
「ありがとうございます」
禎の料理はいつも心遣いに満ちている。
疲れた胃と身体にやさしく、草の好きなものを選んでくれているのがわかる。
「俺もまだだから」
台所から、視線をからめる。
「お待たせてしまいましたね」
草が時計を見ると、夜十時を回っている。
「ううん。俺遅番だったから…丁度良かった。それより草ちゃん寝る時はベッドで寝てね」
「すみません」
「咽喉そんなに強くないんだから」
「はい」
禎が怒ってもただ嬉しそうに返事をする草に、こまったなぁと吐息をついて机の上に料理を並べてゆく。
「食べよっ。草ちゃん」
「はい」

あっつあつのほうれん草のココットに卵をからめてパクっと食べながら、草は呟く。
「俺は、いつも物を書いていますが…」
「うん?」
「一人で書いているのではないと、今日改めて思いました」
「え…いつも一人で書いているんじゃないの?」
パソコンに向かってる時は一人だよね。と禎はつぶやく。
「いいえ。違います」
「そう、なんだ?」
禎はわからないながら頷く。
そのきょとんとした顔が愛らしくて、草は笑みほころぶ。
禎がいるから、安心して描ける。
世界は広がる。
自分が広がる。
「禎さんは、俺の神さまかもしれません」
「…なにそれ。いいすぎだよー」
禎は訳がわからず、思わず笑う。
草は深く笑み、よく味の染みた暖かなポトフを口にした。
禎が洋風マスタードを草の皿の脇に添える。
「ではいいかえましょう。禎さんは俺にとって、ポトフみたいです」
禎は笑い転げる。
「俺、神さまからポトフ!?すごい脱落っ。第一ポトフって、どんなたとえなの?人間ですらないしっ」
「俺にとっては、そのものですが」
はくんと大きなじゃが芋を口にした。
「ほっかほかで美味しいね」
「そういうことです」
暖かくて、おいしくて、心も身体にも栄養になって…口にすればほっこりと幸せになれる、恋人。
「まぁ、草ちゃんの好きなものなら、嬉しいけど、ね」
禎は柔らかな瞳で笑った。

END 2010 3 31



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