voice of mind - by ルイランノキ


 捨てた想い10…『沈静の泉』

 
ライズは消えていた記憶を取り戻し、俯いてうなだれていた。
水面を波打たせる風が吹き、草木がざわめき立つ。風に舞って流れてきた幾つもの枯れ葉が泉の水面に落ちたが、そのうちの一枚はアールの頬を掠めて地面に落ちた。
 
「形見を取り返さなくちゃ」
 アールはそう言って立ち上がった。
「冗談はよせ……。沈黙の泉に投げ入れた物は、二度と取り戻せはしない」
 と、ライズも立ち上がった。
「まだ取り戻した人はいない、の間違いだよ」
 その言葉に、ライズはアールを見据えた。
「命を落とすことになる」
「今まではそうだった……」
「戻って来た人間はいない!」
「私が……前例になるよ」
 
モーメルが言っていた。『残念だが、あんたでも無理だと思うね』と。無理だと断言はしていない。
 
「たやすいことではない! お前はここで命を落とすべき人間ではないはずだ!」
「大丈夫だよ、きっと」
 
どうしてそう思うのか、アールは自分でもわからなかった。ただ、行かなければならない気がしていた。モーメルにもそう促されたような気がしていた。ライズの大切なものを、取り返さなくてはならない。
自信があるとかないとか、そんなことではなく、亡くなったディノや残されたライズの念いがアールの心を揺るがしていた。
 
「あれは拙者が自分の手で泉の底へ沈めたのだ。だが、形見を失ったからといって拙者の心からも消え去るわけではなかろう。危険を犯してまで取り戻す必要はない」
「もういいってこと……?」
「大切なのは、物ではないだろう」
 
アールは自分の薬指に嵌めている指輪を眺めた。恋人から貰った大切なペアリングだ。
 
「そうかな。私はそうは思わない」
 そう呟くように言って、話を続けた。
「確かに、物よりも大切なものがあると思う。形あるものはいつか壊れてしまうし。でも、思い出だって同じ」
「……なぜそう思う」
「だって人は完璧じゃないから……。いくら忘れないようにって大切にしまっていても、新しく記憶したころとは少しずつ変わっていく。父親の形見、どんなだった? どれくらいの大きさだった? 形は? 模様は? 重さは? ……全部正確に答えられる?」
「…………」
 ライズは思い出そうとしが、正確にと言われると大体のことしか思い出せない。
「思い出も、物も大切。……押し入れの中から懐かしい物が出てきて、忘れていた思い出が蘇ることだって、あるじゃない」
「フッ……そうだな……」
 ライズは、悲しげに笑った。
 
無理に忘れようとして捨てた物。目にする度に思い出す悲しい記憶。
物を捨てても、無かったことには出来ない。
 

──“ヴァイス”
 
思い出は、時が流れるごとに形を変える。
『鮮明に覚えている』なんて言葉を耳にするけれど、そんなのありえない。
 
友達や家族や恋人と過ごしたあの日の幸せは、
今も色あせることなく、この胸に確かに感じているし、記憶にも残ってる。
 
だけど、
思い出はあの日より美しく、暖かく、強く、消えてしまわぬようにと上から何度も重ねて色を塗った鮮やかさで輝いているんだ。
 
人は記憶を呼び起こすたびに、自分の手で塗り替えては、印象付けてゆく。
忘れないように。
 
そしてある日、ふと思うの。
本当はどんな色だったかな、最初はどんな風合いだったかなって。
 
強く色直ししてく大切な思い出の片隅で、
薄れてゆく思い出もある。
 
古びて霞んでしまった思い出を、急いで忘れないようにと、また似た色を探しては上から塗り替えて、
原形は崩れてゆくばかり……。
 
思い出さなきゃ薄れてく記憶。
思い出す度に少しずつ塗り替えられてく記憶。
記憶は不確かなもの。
 
 
ひんやりとして静かなこの場所で、暖かい記憶を呼び起こした。
 
どれも暖かい。嘘みたいに。
忘れたくないよ。塗り替えたくないよ。
 
時を止めたくなった。そんなこと出来もしないのに……。
 
ごめんね ヴァイス。 
貴方を引きずり出したくせに、
私は今、此処で闇に沈んでしまったの──

 
アールは、泉の縁へと一歩ずつ近づいた。
 
「よせ! 行くなら拙者が行く。これは拙者の問題だ」
 ライズはアールに走り寄るとズボンの裾を噛んで引き戻した。
「その姿で? 番人と戦えるの? 怖い怖い大きい龍らしいよ」
 怖い、というのは自分の勝手なイメージだ。
「……さぁな。だが、お前に行かせるわけにはいかない」
 
アールはしばし考えて、片膝をついてライズを見遣った。
 
「──わかった。ねぇライズさん、もし大切な物を泉から取り返したら、仲間になってくれますか?」
「……約束は出来ない。帰って来れる保証もないからな」
 そう言ってライズは泉を見遣った。
「じゃあその前にモーメルさんに会ったほうがいいかもしれない……」
「礼なら伝えておいてくれ」
「そうじゃなくて……」
「なんだ?」
「実は……言うなって言われてたんだけど、私が出てくる前にモーメルさん……倒れて……」
「倒れた……だと?」
「大丈夫だって言ってたから大したことはないと思うけど……」
 アールは俯いて言葉を濁した。
「なぜそれを早く言わない?!」
 と、ライズはモーメルの元へと走り出した。
 
アールはライズが泉から離れたのを確認して、呟いた。
 
「嘘だもん」
 
それは小さな声だったが、ライズの耳に届いていた。視力が当てにならない分、聴力が発達していたのだ。ライズはすぐに立ち止まって振り返る。
 
「……なんだと?」
「嘘だから。嘘だから言わなかったの。ごめんなさい」
「なぜそのような嘘を……──?!」
 
ライズの視界は曇り硝子を通したようにぼやけている。それでも水になにか強く叩きつけらてれた大きな音によって、微かに見えていた水しぶきをくっきりと形付けた。アールが沈静の泉へと飛び込んだのだ。
ライズも慌てて泉へ飛び込もうとしたが、泉には既にドーム状の結界が張られており、弾き飛ばされてしまった。地面へと強く叩きつけられた体をすぐに起こして泉を見遣る。沈静の泉は渦を巻き、赤い血の色に染まっていった。
ライズは奥歯を噛みしめると、急いでモーメルの元へと走った。
 

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©Kamikawa
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