voice of mind - by ルイランノキ


 一日三秋11…『壊れた心』

 
【ヴァイスごめんね。少し遅れるかも。なんとしても行きたいから、もし遅くなったら先に行ってていいからね。サルジュさん家に寄る時間がなかったら直接レストランに行きます。衣装はどうにかします】
 
──送信。
 
アールを連れたシラコは城に戻ってくると足早に通路を歩いて地下へと向かった。アールはどこへ向かっているのかわからなかったが、話しかけられる空気ではなかったため、黙ってついて行った。そして、たどり着いた地下には鉄格子が並んであり、その一角の小さな部屋では白いワンピースを着た女性がぐったりとベッドに寄りかかって床に座り込んでいた。その腕にはクマのぬいぐるみが抱かれているが、決して若い女性ではなかった。
鉄格子の前に立っていたメイドの女性は疲れ切った様子でシラコに頭を下げた。
 
「先ほど急に落ち着かれました」
「そうですか……ありがとうございます。少し休んでいてください」
「はい。失礼致します」
 女性はもう一度頭を下げ、その場を後にした。
 
鉄格子の中の女性はぐったりと頭を垂れ、乱れた髪で顔が隠れてしまっているが、アールはそれがシラコの母親なのだろうと察した。
地下の薄暗さと打ちっぱなしのコンクリートの壁は無骨でひやりと冷たい空気を漂わせているが、彼女がいる部屋はウィルトン織りの絨毯が敷かれ、清潔感のある真っ白いベッドもふかふかであたたかそうだった。室内を照らすライトも暖色で柔らかい。
シラコは持っていた鍵で鉄格子の扉を開けて中に入ると、優しい口調で声を掛けた。
 
「母さん、調子はどう?」
 
その声に女性は反応し、ゆっくりと顔を上げた。乱れた髪の隙間から泣きはらした中年女性の顔が見えた。
 
「また……遊びに来てくれたの?」
 
アールはその女性の声に、息を呑んだ。まるで自分を幼い子供だと思い込んでいるような舌ったらずなしゃべり方だ。
 
「うん。そうだよ?」
 シラコもそんな彼女に合わせて、そう言った。
 そして、シラコの母は鉄格子の外で立ち尽くしているアールに目を遣った。
「だあれ?」
「…………」
 シラコは振り返ってアールを見遣ったが、どう答え、どう説明すべきか悩む。
「お友達です」
 と、アールは笑顔を作り、部屋の中へ入った。けれど、刺激しまいと少し距離をあける。
「ともだち?」
「はい。こんにちは」
「こんにちは」
 と、シラコの母も笑顔になり、少しホッとした。
 
この部屋には沢山のおもちゃがあった。ぬいぐるみ、絵本、お絵かき道具、積み木など、幼い子供が遊んだあとのように床に散らばっている。
シラコの母が絵本を読み始めたところで、シラコはアールに小声で言った。
 
「母は完璧な人間でした。母としても、妻としても、完璧だったと思います」
「…………」
 アールは黙ったまま頷き、話に耳を傾ける。
「でも無理をしていたんです。それを兄も父も知らなかった。私だけが知っていたんです。ひとりでいるときはため息が多いことも、人知れず泣いていたことも。私は母が大好きでしたから、幼い頃は特に母の側にずっといました。母を驚かせようと隠れていたことがありましてね。そんなときにはじめて一人になったときの母の姿を見て驚いたのです。いつも凛として頼りになる母の弱さを、知りました」
 両親の寝室で隠れていたとき、母が泣いていたのを思い出す。
「私は思わず飛び出して母に抱きつきました。母は『恥ずかしいところを見られちゃったわね』とすぐに笑顔を作ったのですが、私は母に言いました。私の前だけは無理をしなくていいと。けれど母はありがとうと私の頭を撫でて、その後も弱さを曝け出すことはしませんでした。月日は流れ、私は酷く後悔しました」
 と、目の前で絵本を読んでいる母親を見遣った。
「もっと私が母にとって頼りになる存在だったなら、こんなことにはならなかったのではないかと」
「…………」
 アールもシラコの母を眺めた。
「母はずっと壊れる寸前だったのです。でも最後のハンマーを振り下ろしたのは父でした。父の、浮気です」
 と、苦笑する。
「え……」
「父と出会ってからずっと父のために、そしてわが子のために時間を費やし努力を惜しまなかった母への仕打ちがこれですよ。母は完全に壊れてしまいました。誰の前であろうと関係なく泣き喚き、暴れました。そんな母を見て兄も父もやっと母の弱さや抱えている痛みに気づいたと思ったのですが……二人は母に軽蔑の眼差しを向けたのです。壊れた母を見て罪悪感どころか、幻滅したのですよ。そしてそんな母を隠すように落ち着くまでここにいろと追いやりました」
「ひどい……」
 せめてもの救いは、シラコが味方でいてくれていることだろう。
「父も兄も、ここには来たがりません。こんな母を見たくもないと言って」
 と、立ち上がる。
「どこいくの?」
 絵本を読んでいた母親は寂しそうにシラコを見上げた。
「……どこにも、行きませんよ」
 と、腰を下ろそうとしたが、先ほどのメイドが慌しく戻ってきた。
「シラコ様、お客様です」
「困りましたね……」
「私ここで待ってます」
 と、アール。
「ですが……」
 また暴れだしたらと思うと気が気ではない。
「私も近くにおりますので」
 と、メイド。
「では、すぐに戻りますのでよろしくお願いします」
 と、シラコは慌しく出て行った。
 
アールはシラコを目で追う母親を見遣り、近くにあった絵本を手に取って彼女の前に差し出した。
 
「読みましょうか」
「…………」
 母親は絵本を見遣り、首を左右に振った。
「じゃあ……なにしましょうか。シラコさんはすぐに戻ってきますよ」
「…………」
 彼女は手の指を口元に持ってくると、体を揺らしながら爪を噛み始めた。
「…………」
 アールは慌てて足元にあった猫のぬいぐるみを持ち、言った。
「遊びたいにゃー」
「…………」
 彼女の視線は猫に向けられている。
「どこかに遊んでくれるお友達、いないかにゃあ」
「…………」
「おーい。くまさーん、どこにいったのかにゃー」
「…………」
 メイドが部屋の外から心配そうにこちらを眺めている。
 シラコの母親は微かに笑って、膝の上にあったクマのぬいぐるみを握った。
「あ、そんなところにいたのにゃー。遊んでほしいにゃ」
「ねこさん」
「はーいにゃ」
「ボクもあそびたいよー」
 と、爪を噛むのをやめた。
「うん、遊ぶにゃ。あ、お名前なんて言うの?」
 と、アールはクマのぬいぐるみではなく、シラコの母の顔に近づけて訊いた。名前を聞いていなかったからだ。けれど、シラコの母親はクマのぬいぐるみを顔の前に持ってきて言った。
「クマさんです」
「そっか、クマさんかぁ」
 名前を訊くのは失敗。シラコが戻ってくるまで、ぬいぐるみ遊びを続けることにした。
 
ネコとクマの自己紹介をし合って、他愛の無い会話を楽しんだ。好きな食べ物は? 好きな色は? なにをして遊ぶのが好き? そんな会話だ。
シラコはなかなか戻ってこなかった。客というから、さっさと追い払うわけにもいないのだろう。
 
「シラコさん遅いですね」
 と、アールはネコのぬいぐるみを持ったまま立ち上がり、鉄格子の外、通路を見遣った。
「忙しいのかな」
「少し様子を見てきますね。すぐに戻ります」
 と、メイドは言ってその場を離れた。
 
アールはメイドを見送って振り返ると、シラコの母親はクマのぬいぐるみを持った手をだらんと下げて、一点を見つめていた。その表情に、なにか違和感を覚える。
 
「……クマさん」
 と、アールはネコのぬいぐるみを揺らした。
 シラコの母親はハッとしたようにクマのぬいぐるみを持ち上げ、笑った。
「…………」
 アールが黙って見ていると、母親は笑顔のまま小首をかしげ、困惑したようにぬいぐるみを揺らす。
 
アールはもしかして……と、感じた違和感の答え合わせするように言った。
 
「シラコさんはまだしばらく戻ってこないみたいです。だから」
「…………」
「もう、演技しなくていいですよ」
 

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