ル イ ラ ン ノ キ


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爪 の 傷 痕


左手の甲に、爪で引っ掻いた傷跡がいくつもあった。
俺の唯一の制御法だ。

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「お前また猫にやられたのか」

大学の昼休み。中庭にあるカフェテラスで阿部が俺の左手を見てそう言った。
丸いテーブルを囲んでやきそばパンをボロボロとこぼしながら食っている阿部に少し苛立つ。

「お前きたねぇな……こぼすなよ」

左手の傷は、大学一年になってからつきはじめ、次第に増えていった。

「まさかとは思うけどさぁ……」
「なんだよ」
「リスカみてぇなこととしてんじゃねーだろな!」
 そう言って阿部は怒った顔で俺を見遣った。
「なに、心配してくれんだ? やっさしーな阿部ぇ」
「話そらすなっつの」
 
やきそばパンの最後の一口を頬張ると、膝に落ちたパン屑を両手で払った。

「リスカなんかやってねーよ。ほれよく見ろ。カッターやカミソリだったらもっと線を引いたような傷が出来るって」
 左手の甲を突き出すと、阿部はまじまじと俺の手を眺めた。
「ふむ」
 と、顎をさする。「確かに」
「だろ? リスカするほど俺やわじゃねーし」
「でもよ、猫にやられたにしてもその傷跡おかしくね?」

──げっ。めんどくせえなコイツ。

「傷が治りかけてると痒くなるんだよ。寝てる間に掻きむしっちゃうのーっ」
 そう言って俺は舌を出した。
「なんだよ可愛くねぇやつ。人が心配してやってんのに。俺のミポコたんは素直で可愛いぞ」
「てめぇの彼女と比べんなきしょくわりぃ」

阿部が言う“ミポコたん”。俺が二人の仲を取り持ってやった。付き合う前から二人を知っていた俺は、この二人が付き合ったら気が合うんじゃねぇかと思っていたら、予想通り、バカップル誕生。二人は俺に事あるごとに感謝する。それだけならまだよかった。

「お前好きな女できた?」

事あるごとに訊いてくるようになった。理由はひとつ。二人で計画しているらしい。俺に好きな女が出来たら、二人で協力して仲を取り持とうと。有難迷惑である。

「またそれかよ……いねぇよ」
 俺はため息をついた。
「また女紹介してやろーか」
「いーよ。どうせまた面倒くさくなるだけだからさ」
「まさかとは思うけど、お前……」
「なんだよ」
「俺のことが好きなのね!? いやん!」
 と、阿部は、身をよじった。実に気持ちが悪い。
「なんでそうなる。俺は女好きだ」
「だってよぉ、どの女を紹介しても全然興味なさそうじゃん。──となると男好きか、もしくは他に好きな女がいるってことになんねぇ?」
「……知るか」

“他に好きな女がいるってことになんねぇ?”

──俺には、好きな女がいた。絶対に振り向いてはくれない女を、俺は好きになってしまった。
ちなみに、“ミポコたん”じゃねぇから。ダチの女をどうこうしようと思うほど腐ってはいない。
俺が好きなのは……

「しんちゃん、ちゃんとレポートやってきた?」
 突然そう声を掛けてきたのは、白石芽衣だった。
「しんちゃんって呼ぶなよ」
「あ、ごめんなさい。ついつい」
 彼女は申し訳なさそうに苦笑した。
「…………」
「お母さん、しんちゃ……じゃなかった。山岡くんから連絡全然来ないからって心配してたよ? たまには連絡してあげたら?」
「わかったからあっちいけよ……」

机の下で、俺は左手の甲に爪を立てた。ガリッと爪で皮膚をえぐる。

「もう……。じゃあね。阿部くんも、お勉強しっかりね」
「はーい白石せんせーっ」
「先生じゃないったら」

白石芽衣は助教としてこの大学で働いている。現在30歳。ゆるふわパーマで腰まである髪をいつもシュシュでひとつに束ねている。落ち着いていて色白で化粧は薄いのに大人の色気がある。

「お前いいなぁー、白石ちゃんといとこだなんてよぉ。俺も“しんちゃん”って呼ばれてぇよぉ……」
「お前は“しんちゃん”じゃねーだろが。“ゲンちゃん”だろ」
 阿部玄太郎。古風な名前だ。
「綺麗だよなー、白石ちゃん」
「……どこがだよ」

幼い頃から可愛がってくれていた。転んで怪我をしたときは手当をしてくれたし、両親が喧嘩していたときには一緒に遊んで気をまぎらわせてくれた。どんなときも優しくしてくれた。
俺には一人っ子だったから、本当の姉のようで昔から好きだったんだ。
それが異性として意識し始めたのは、中学を卒業してからだった。あまり遊びに来なくなっていた彼女が、久しぶりに遊びにきたとき、スゲー綺麗になっていたんだ。急に大人の女性に見えて、俺は緊張した。だけど彼女は昔と同じように、俺の頭を撫でて言った。

「しんちゃん、大きくなったね、もう少しで私の身長こされちゃうね」
 心臓が、壊れるかと思った。

でもその頃はまだ、付き合いたいとかどうこうなりたいとかそんな感情はなく、憧れの気持ちが大きかった。付き合うなら彼女のような女がいいと思っていた。
高校に入ってから、彼女は全く顔を見せなくなった。母いわく、大学で忙しいのだと聞かされた。
自然と俺はその大学へ進路を決めていた。そして恋をする。してはいけない彼女に。

彼女の身長をとっくに追い抜いていた俺は、彼女と話すときはいつも彼女を見下ろしていた。華奢で小さい彼女。今の俺なら簡単に抱き寄せて包み込める。押し倒す力だって、成長と共に備わっていた。
時折、彼女を近くで感じていると気が狂いそうになった。そのたびに俺の左手に傷が増えていくのだ。

血迷って襲ってしまわないように。
俺の唯一の制御法だ。

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©Kamikawa

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